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一昨日の産経新聞 【正論】の
ー ノーベル賞で「銀メダル」の日本 ー が、面白い!
その中で、今後の日本のノーベル賞の候補を何人か挙げていた。
アメリカの国力を感じるが、日本も満更ではないことが窺える。
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●≪政府の50年目標も有望≫
アカデミーが南部陽一郎、小林誠、益川敏英の3氏の日本人に2008年のノーベル物理学賞を授与すると発表し、
翌日には同化学賞を下村脩氏に贈ると発表した。日本人がノーベル賞を受賞するのは、2002年の田中耕一氏(化学賞)と
小柴昌俊氏(物理学賞)以来6年ぶりで、同じ分野の賞を3人で共同受賞するのは初の快挙である。
この結果、自然科学系のノーベル賞を受賞した日本人は13人となった。
今回の快挙を含めて、最近ノーベル賞での日本人の進出が目立つ。 化学賞は2000年から白川英樹、野依良治、田中耕一
の3氏が3年連続で受賞しているから、下村脩氏で4人目となる。
物理学賞についても小柴昌俊氏と今回の3氏を合わせると4人が受賞。9年間で8人の日本人科学者が受賞したことになる。
1901年に創設されたノーベル賞を20世紀に受賞した日本人科学者は物理学賞が湯川秀樹、朝永振一郎、江崎玲於奈の3氏、
化学賞は福井謙一氏と白川英樹氏、医学・生理学賞が利根川進氏の計6人だった。
それが21世紀に入ってわずか8年なのに、すでに7人が受賞した。100年分を8年で超えてしまったのだから驚異的といえる。
日本政府は科学技術基本計画で「50年間で30人以上の自然科学系のノーベル賞受賞者」という数値目標を掲げたが、
このペースでいくと可能性がある。
●≪医学・生理学賞も圏内≫
これまでの自然科学系受賞者の国別ランキングをみると、トップは224人の米国、次いで75人の英国、68人のドイツ、
29人のフランス、16人のスウェーデン、15人のスイスが続き、13人の日本はロシア、オランダと並んで7位である。
ところが、今世紀に入ってのランキングは、30人の米国は別格であるが、7人の日本は何と英国と並んで2位を占める。
21世紀の自然科学系のノーベル賞争いで現在、日本は銀メダルという素晴らしい成績である。
さらに、今年の医学・生理学賞は日本人が受賞する可能性があった。 今年の医学・生理学賞は、エイズウイルスを発見した
フランスのリュック・モンタニエ氏とフランソワーズ・バレシヌシ氏、そして子宮頸がんを引き起こすヒトパピローマウイルスを
発見したドイツのハラルド・ハウゼン氏だった。前者の授賞理由は「エイズが1981年に報告されたあと病原体をいち早く発見し、
世界的な拡大を抑制した」ことであり、後者は「子宮頸がんの原因となるウイルスを発見し、がん予防に貢献した」ことが評価された。
モンタニエ氏は、日本の日沼頼夫氏が成人T細胞白血病の病原体であるATLウイルスを発見した方法を踏襲している。
ATLウイルスとHIVは当初は同じウイルスと間違えられたほどよく似たレトロウイルスで、
両者とも「T細胞」と呼ばれるリンパ球に感染する。・・・これらを考慮すると、日沼氏にノーベル賞が与えられても不思議はない。
●≪他分野でも世界が注目≫
これからもノーベル賞のラッシュが続く予感がする。物理学では青色発光ダイオードの中村修二氏、カーボンナノチューブの飯島澄男氏、
巨大磁気抵抗効果の十倉好紀氏、光ファイバーの中沢正隆氏、化学では鈴木・宮浦カップリングの鈴木章氏、炭素繊維の遠藤守信氏、
医学ではiPS細胞の山中伸弥氏、抗コレステロール剤スタチンの遠藤章氏、先天免疫の審良静男氏、ニューロサイエンスの菅乃武男氏
と多士済々である。・・・・・
最近の日本人の活躍は自然科学者だけではない。2003年には宮崎駿監督が『千と千尋の神隠し』でアカデミー賞の長編アニメーション賞
を受賞し、漫画でも『ドラゴンボール』『ポケモン』『ナルト』が世界を席巻した。 日本の文化が国際的に認められているのだ。
戦前の日本は米国や英国と肩を並べる軍事大国となり、戦後は米国に次ぐ経済大国となった。 これからの日本が目指すべきは、
かつての軍事大国や経済大国への道ではなく、文化大国という新たな挑戦ではないかと思われる。 (なかはら ひでおみ)
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これとて文化勲章と同じワッペンでしかない、ワッペンはワッペンだが、一緒に喜ぶことが大事! ただ、それだけのこと。
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2007年10月22日(月)
2393, 恥はかかせろ、いじめはなくすな
戸塚宏が、「新潮45」6月号に寄稿していた文章が考えさせられた。
彼は自分の戸塚ヨットスクールで、生徒を何人か死なせた責任で6年の実刑を終えて、
再びヨットスクールで指導をしている。石原慎太郎も弁護者で彼を支持している。
ーまず彼の論の概要をまとめてみるー
*力は悪か、いや善である。
・6年経って出所して、子供たちは良くなったかといえば、ますますオカシクなっている。
生気がなくなり、得体の知れない無力感を漂わせ、一方で些細なことで直ぐに自殺する子供が増えている。
・暴れる子供はまだよいが、無気力で何も行動を起こさない子供は直しにくいし、完全に直らない。
登校拒否とか、引きこもりやニートといった、社会に反発する力のない子供たち。彼らは幸福を感じる能力もないし、
幸福になろうと行動もしない。人類始まって以来の、最も奇妙な生きものが出来上がってしまった。
・明らかに戦後教育が間違っていた。戦後教育は「力は悪なり」と教え込んでいた。
教育者も親も、その信者で子供を強くすることは悪だと思い込んでいた。 そして子供たちを弱く弱く育ててきた。
しかし、力は善に決まっている。弱ければ役に立たない。海で溺れている子供を、腕におぼえのある人が助けて、
子供は一命を取りとめることができる。 力があればこそ助けられるのである。 強いからこそ、行動ができるのである。
それをどこで、どう間違ったのか、「悪」としてきたのが、戦後教育なのだ。
・子供を教育するに当たって、「褒めて育てる」ということがまかり通っている。
「叱るより褒める方が正しい」と親も先生も思い込んでいる。だが「褒めるより叱る方が正しい」に決まっている。
褒めて褒めて、みんな駄目にしてきたのである。 叱ることを、罰のひとつとしてみよう。 罰は世界中にある。
だから人間の本能である。 本能は種族保存を目的としているから善、当然、罰は善である。
駄目な奴、失敗した奴を罰しようというのは、善なる目的を持っている。 それは、 相手の進歩でもある。
罰は相手のためを思ってやることなのだ。叱ることも同様で、相手を考えて叱ってやるのだ。
・いまは何でも気に入らないこと、悪いことは人のせいにするような若者が増えている。
自分が幸福でないのは、あいつが悪い、社会が悪いという具合に。
自分の責任を棚上げしてしまう。だから自分の責任として考えなければ、その人の責任はない。
・叱って、自分のやったことは自分の責任だと、その責任を明確にしてやる。
そうして初めて己がよくわかるものなのだ。 自分より上の人がわかってくる。
そうするとそこに出てくるものは何か。 恥である。恥は怒りを導き、人間を進歩させようとする意志と行動を生む。
つまり、恥をかく能力は自分を進歩させる能力なのだ。だから私はいつも、いかに恥を出してやるか、に心を砕いている。
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ヤンキー先生とかいう、わかったようなことを言っている男をTVでみかける。
まあ、それなりに若者を理解して指導をして効果を上げているのだろう?
しかし、何か若者に媚びているだけに思えて良い印象はなかった。半年ほど前に戸塚宏と、ヤンキー先生が議論をした。
数分でヤンキーの化けの皮が吹っ飛んでしまった。見ていても気の毒で、哀れな無様な姿が、そこにあった。
私の見方が歪んでいたのか、自省しながらみていたが、そうではなかった。
不良のエネルギーの方向を変えることと、引きこもりの心に火を点ける視点は違うが。
戸塚の「叱って『恥だし』をして、怒りを導き出し、意志と行動を生み出させること」これはやる気を引き出す基本。
それにしても、9割の若者たちは酷い、あまりに酷い! 自ら気づいてないからなお恐ろしい。
ーつづく
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2006年10月22日(日)
2028, ネット空間「セカンドライフ」
才八∋ウ_〆(∀`●)
最近のネットには、日々驚かされることばかりである。
ー朝日新聞の文化欄の記事(10月19日)ー
:現実に溶け込む仮想世界「もうひとつの世界」で起きたメディアの地殻変動:には、驚かされてしまった。
「ネット上の仮想世界で建物を作ったり、売ったお金で現実に住居を手にいれた」
というような夢のような話が起きている。今月中にも日本語版サービスが始まる予定という。
この3D仮想空間は最近では「メタバース」と呼ばれ、ネットを全く変えてしまうのでは、という見方も多い。
ーここまできたか!という内容の概要をまとめてみたー
・舞台は「セカンドライフ(SL)」というオンラインサービス。
・全米で始まり90ヶ国を越える国から参加者を集う仮想空間。現実の経済や学術とも融合する空間として注目を浴びている。
・ユーザーは登録すれば無料で遊べるが、10ドル支払うと土地を所有する権利を与えられる。
従来のゲームのようにあらかじめ提供された世界の中で遊ぶのではなく、
ツールを元に自らあらゆるものを作り出したり、クリエイターから買ったりする究極のCGM。
・個人・法人を問わず、自ら作り出したものには著作権が与えられ、売買する権利もある。
・取引に利用される架空の通貨リンデン・ドルは現実のドルとの換金が可能で、このバーチャル空間で
実際に生活をする人も現れている。いまや新たなマーケティングツールとして活用する企業が急増中。
・ユーザーにはTシャツとジーンズ姿のシンプルな「アバター」が与えられるだけ。
ほしいものがあれば、洋服であれ、建物であれ、提供されたツールを元に自分で作るか、
誰かから購入するかしかない。与えられるのは、白いキャンバスを提供されているだけ。
・ゲームとの最大の違いは、仮想世界を構成するCGなどを作れ、現金に交換できる点だ。
都市や、建物、衣服、映画などの表現作品まで、すべて参加者が専用ソフトでつくる。そうした物の売買に使われる
リンデンドルという[通貨」は米ドルとの交換が認められているため、現金化する道が開かれている。
・現実にSL内で、「妻がファッションデザイナーとして稼ぎ、夫は都市づくりに半年従事。その建物などを売り、
二人は現実の住居を手に入れた」「SL内のゲーム『トリンゴ』が任天堂の携帯ゲームに使われヒットした」
「人気アバターがアメリカビジネス誌の表紙を飾った」というケースが出ている。
リンデンラボ社はサンフランシスコに拠点を置き、今やWeb2.0の代表的な企業に挙げられる。
同社が提供するMMOSecondLife(セカンドライフ)は、従来のゲームやソーシャルネットワークの
発想では語ることのできない全く新しい形のメディアである。
−以上が概要であるー
第二の人生をネット上でつくり上げることができれば、これほど面白いことはないだろう。
そこでは理想の部屋も、家も、建物も、島も、飛行機も、宇宙船も、国すら持てる。教祖、いや神にすらなれるのだ。
そのネット世界の神が、現実社会に出てくることすらありえる。
第二の人生とは、それまで出来なかった全く違う理想の生き方を求めることである。
幻想ネット上では、自分の仮身が大きな自由を得ることができるのである。
下手をすると、現実世界の戻れなくなる可能性すらある。カルト世界に似ているところもある。
これはウェブ2・0の世界の一つなのだろうか、それともウェブ3・0の世界だろうか?
まあ、私は今のところ観光するだけにしておくが・・ 毎日があまりに刺激的である!
(+●∀●)ノ さいなら! さいなら!
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2005年10月22日(土)
1663, 「人生の実りの言葉」−3
ー独創?
・この章ー独創?ーの冒頭の「ゲェテとの対話」ーエッケルマンを抜粋してみる。
「世の人はつねに独創(オリジナリテート)の話をするが、どういう意味だろう。
生まれるとすぐ世界は影響しはじめ、そして死ぬまでつゞく。一体エネルギイと力と意志と以外に自分のものがあるか。
若し私が偉大な先駆者や同時代の人に負うた点を一々あげることができたら、残る所はきはめて僅かだろう。」
・更に、この章の一番のさわりの文を抜粋する
ー私という存在は文化全体の影響によってできたもので、独創ということがあるとしたらそれは、過去のすべての
文化のうちどういうものを選んで、どれによって自分を作っていったかのその作り方にある、と今は考えているー
ー「アランの独創性とはオリジナルであることの拒否である」といわれるぐらい、
徹底的して過去の文化の受容をすすめることであった。「発明する方法は一つしかない。それは模倣することだ。
正しく考える方法は一つしかない。それは古くからの試練を経た、何らかの思想を継承することだ」−アラン「教育論」
そのようにしてだけ人は正しく物事を認識して、考える方法を学び、
思想を自分のものすることが出来る、というのがアランの考え方だ。
ーー
以上だが、そういえば作家の沢木耕太郎も彼の著書の中で同じようなことをいっていた。
ー夜空に星を見るとき、あの連なりからどうしてあのような絵柄がイメージできたのだろうと
不思議に思うことがある。そしてこう思う。もしかしたら、ノンフィクションを書くということは、あの無限に近い星々から、
いくつかの星と星とを結びつけて、熊や琴やペガサスを描く作家に似ているのではないか、と。
ノンフィクションの書き手に許されているのは、広大な宇宙にある「星」を選び出すことだけである。
未知の「星」を発見することはできる。 しかし、「星」そのものは作れない。
いや、作らない。たぶん、ノンフィクションを書くとは、彼、あるいは彼女が、この広大な宇宙で見いだした「星」と「星」
とを結びつけ、虚空に自分の好きな絵をひとつ描くことにしかすぎないのだろう。
沢木のいわんとすることは模倣とは違うが。模倣を徹すると、その組み合わせの組み換えが始る。
独創とは、ある分野を徹底的に追求した組み合わせの変化の結果の姿である。あくまで、守・破の結果としての離の姿である。
20年近くおこなわれてきた個性化教育の失敗が、現在の日本を大混乱を引き起こしている。
個性を引き出すとして、過去から蓄積されてきた知識を疎にして我流を認めてきた重大な過失が日本を覆っている。
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2004年10月22日(金)
1298, 2000年前のポンペイ −2
図書館で何気なく歴史コーナーを見ていたら、「『ポンペイ』完全復活、2000年前の古代都市」というグラビア集があった。
一ケ月位前にTVで『ポンペイ』を特集していたのをDVDに録って、その面白さに繰り返し見た後なので、思わす時間を忘れて、
その場で見入ってしまった。もちろん、借りてきて見ているがTVよりさらに深い内容である。
本は、映像では表現できない違う役割がある。 AC/79年8月24日、ヴェスヴィオス山の大爆発で火山灰で埋没したこの街は、
その18世紀半ばからの発掘によって、古代ローマを知る上で大発見になった。それまで、古代ローマの遺跡といえば、
ローマ市郊外の遺跡であったり、地中海沿岸の都市であった。ローマ帝国は、このような街が数千もあって支えられていた。
しかし、それらはその後の追加工事などで、当時の原型を殆ど留めていないものばかり。
これだけ、完璧に残って発見されたのは歴史上初めてである。
街そのものを、石膏(火砕流)を流し込んで、そのまま保存したようなものである。
ーそのグラビアの内容とはー
・街全体の航空写真と、それを元につくられた街の復元の絵
・それで解ったポンペイの都市計画図 そして街の構成と築造技術
・給水システムと下水システム
・共同墓地と体育場と円形闘技場、そしてスタビア浴場
・娼婦の館の写真と、そのレイアウト。 そして、そこに描かれていた男女交合の絵
・完全に残っているパン屋と、内部の工場と、パン原型 そして、それをもとに作られたパン屋の想像図
・複合劇場施設の航空写真と、その図面と、想像図
・音楽堂と、そこに描かれていた壁画と、残されていたタンバリンと、ブロンズ製のパンパイプ
・街の心臓部になっていた、市民広場 そこでは、街の住人や、郊外の豊かな農民、
商人、遊び人など様々な人たちが集っていた。そこでは選挙もおこなわれていた。
・公衆トイレもあり、入ると控えの間があり、外からは見えないようになっていた。
そこを入ると便座があり、排水溝があって常に水が勢いよく流れていた。
こう見ると、現代の都市と大して変わりがないといってもよい。
ーつづく
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2003年10月22日(水)
931, 強みに焦点をあわせよ
「強みに焦点をあわせる」経営学者のドラッカーの一番好きな言葉である。
企業にしても人間にしても当てはまることだ。強者は強みを最大限いかすから強者になり、
弱者は弱みのうえに自己を置くから弱者になるのだ。まずは自分の強みとは何かを探さなくてはならない。
過去の中でうまくいった事、埋もれている潜在的な何かを自分で探すしかない。 企業もしかりである。
その強みを活かしていくと、それが違いになってくるのだ。 それを個性というが。 強みを探すとき、
「他との違いを探す」方法もある。 違いの中に強みがあることが多い。弱点に見える中に、強みがある場合も多い。
一例をあげると、柔道の棟田という重量級にしては、極端に背が低い選手がいる。
彼は外国の背の高い選手に強いのだ。重心の位置が低い利点を活かして、相手を投げ飛ばす。
強みを活かし続けると、そこに独自性が生まれてくる。
強みに焦点を合わすと合わさないとでは、時間の中で大きな差が生まれてくる。
ついつい弱点の矯正に気が回って、いつの間にか重心がそこにいってしまう。
弱点を修正することより、強みを活かすことに全力をあげる事だ。 人を使う場合もそうだ。
ついつい弱点に眼がいってしまう。意識的にその人の強みを探し出して使うことだ。
私を例にとるとーまた露出だが、
・8人兄姉の末っ子 ・両親とも商家の出で商売大好き人間 ・私の幼児期は敗戦の真っ只中で、転業の創業期
・末っ子の知恵 ・人を内側から多くみている ・負けず嫌い これは強みでもあり、弱点にもなる。
少なくとも勤め人より、商売系が向いている。それも時代の変化に対しての創業系ー転業を活かすのに向いている。
弱点は自制がきかないで突っ走ってしまう危険がある。
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557, 基調色-着こなしのコツ −2
2002年10月22日(火)
ある洋服屋だった社長から聞いた話である
ー昔の大金持ちの旦那衆は、目立たない高級呉服を似た柄で何枚も持っていて毎日着替えていた。
よほどの目が利く人でないと、その違いが判らない。無頓着にいつも同じ服を着ていると思わせていたという。
チョットした柄の違いのもので、羽織や帯や足袋をかえていた。そういう粋な着方が本当のお洒落だとかー
基調色を決めておくというのに合い通じる内容だ。たったこれだけの話の中に多くの教訓が入っている。
シンプル、スタンダード、スペシャリテー、セグメントのチェーン理論のドライ主義が全て入っている。
一番主義と集中主義である。目立たないーシンプル、スタンダードー似た柄で、高価なースペシャリテー、
何枚もーセグメントである。何代も続く家柄という長い時間の中で、体得した知恵なのだろう。
日本も洋服を着るようになって、まだ日が浅い。 着こなしでは当然欧米人に比べ落ちるのは仕方がない。
しかし和服ではチャンと着合わせが出来ていた。 色というと7色が基本となる。どうしても私などは単色と思いがちだ。
しかし赤一つとっても数千種類もあるという。理屈からいえば無限のはずだが。 江戸時代はその色の違いを楽しんでいた。
そして自分の好きな赤を決めていたという。 本当にイロイロあるものだ。
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至高体験-1 2001/10/22
もう10年前に読んだコリン・ウイルソンの‘至高体験’が面白かった。
フロイトは‘性’で、ユングは‘聖’で、アドラーは‘権力’の視点で精神分析を深めていった。
しかし彼ら心理学者は精神症・精神病の患者の医者の立場だ。 これに対して‘非常に健康的な人’
の持っている性格的特性とかを調べた。 そしてその共通点を探したところ、普通の人に対して‘至高体験’
が多いという事だった。至高体験とはこれ以上ない感激の極み、絶頂の幸福感をいう。
インドを旅行した時、ツアーで一緒だった女性に「20年前にインドに来たとき、ハシシー麻薬を吸ったことがある」
と言ったので「どういう気分になるのか?」聞いた。 「とにかく楽しくって、笑いが止まらなくなった」とのこと。
しかし薬物は中毒になる。死ぬときの痛め止めの薬物の楽しみに取っておくとよい。 ある姉が嬉しそうな顔をして、
「極致の喜びを味わったことがある?」と数年前か私に聞いた。少し躁鬱の気がある人で、近くにいた義兄がハッとした。
「まさかオルガニズムの事でも言い出すのでは?」と私もその瞬間思った。
「それでは貴女はあるのか?」と聞いたら、「一度ある」という。
もちろん私がそういう系統ー精神分析とか、心理学が好きということは解らないようだった。
そちら(セックス系)の内容でなかったが、「私は三桁は軽くある」、と答えると全く信じられない反応であった。
「そんな事絶対あるわけはない」という。「それでは長島が昨年(7〜8年前)セリーグで10月6日に大逆転優勝をした時に、
至高体験したのでは。長島は三桁は至高経験をしているのでは?」といった時、やっと納得した。
私の場合では、海外旅行で数十回はある。また事業で一仕事終えた時、緊張感の極めの合間の一瞬の弛緩の時、
あるいは会社の忘年会とかに絶対的幸福感になる。 (それだけ盛り上がる)上げれば限がない。
これはある程度の訓練も必要だ。会社で昼休みに30分、アルファー波の発生器に‘聴く麻薬の音楽’
(アルファー系音楽)を繋げて、もう10年以上聞いている。(アルバム日記に写真あり)
それを毎日している為か酒を飲んだ時など、直ぐブロックが外れそれに近い状態になる。
少しきわどい内容になるが、コリー・ウイルソンのその本に、「ロシアンルーレットがその状態になりやすい」
と書いてあったことをおもいだした。ピストルに弾一発を入れ、弾そうを回すやつだ。そして引き金を引く。
6分の1で死ぬやつだ。死の緊張感と助かるのを楽しむ。
そして相手と自分が死ぬまでやるやつだ。助かった時の幸福感は至高体験に近いらしい。
家内が不思議そうな顔をして、何人もの友人が「自分を不幸と信じているみたい?」という。
少しは勉強すれば?と思う。 生きているそれだけで素晴らしいのに!
つれづれに
世界中が事の重大さに気づいたようだ。トヨタが今年の売上高が前年割れになる見通しだという。
アメリカの場合、住宅を買ったときに、車の購入費を住宅の借り入れの中に含めて買うのが
これまでの常識だったという。 まともな審査だと、40パーセントの人が基準を満たしてないので、
こうなった現在、車客は自動的に40パーセント減になるという。
アメリカ人は、家も車もローンで買って、持っている金は、殆ど株か債権にしている。
だから、このサブプライム問題による不況は大打撃という。
その上に、アメリカの金融を手本にした欧州が住宅バブルで大打撃を被ってしまった。
なら中国は、大丈夫かというと、これもまたアメリカの国債とドルを掴まされている。
ロシアは原油の暴落で、その底の浅さが出てしまい、壊滅状態。
早く言えば、世界恐慌に入ってしまった?? 日本は十数年前にお先に入っているだけで、
決して安閑としていられない。資源がないのと、アメリカの骨抜き戦略に乗ってしまい、
戦後世代の子供が「これ以下ない程度」に仕立てられてしまった。
ガラガラポンとして、これから何処に世界のエネルギーの中心が行くかというと、やはり中国。
これ以下ないところから出発して、まだ10~20年も経ってない。
アイスランドの国家破綻に近い状態が朝日新聞の一面~二面に掲載されている。
世界の今後の姿である。アイスランドの国家管理になった銀行の口座を
英国人が30万口座もあり、一切の金が引き下ろせない状態。
英国に比べ何倍か高い金利にひかれて、口座を開いて預金をしていたという。
こういう類の話が、今度は我われに起きようとしているのである。
銀行口座の閉鎖は他国のことではない。自国でもありえると考えてよい。