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2005年10月22日(土)
1663, 「人生の実りの言葉」−3
ー独創?
・この章ー独創?ーの冒頭の「ゲェテとの対話」ーエッケルマンを抜粋してみる。
「世の人はつねに独創(オリジナリテート)の話をするが、どういう意味だろう。
生まれるとすぐ世界は影響しはじめ、そして死ぬまでつゞく。一体エネルギイと力と意志と以外に自分のものがあるか。
若し私が偉大な先駆者や同時代の人に負うた点を一々あげることができたら、残る所はきはめて僅かだろう。」
・更に、この章の一番のさわりの文を抜粋する
ー私という存在は文化全体の影響によってできたもので、独創ということがあるとしたらそれは、過去のすべての
文化のうちどういうものを選んで、どれによって自分を作っていったかのその作り方にある、と今は考えているー
ー「アランの独創性とはオリジナルであることの拒否である」といわれるぐらい、
徹底的して過去の文化の受容をすすめることであった。「発明する方法は一つしかない。それは模倣することだ。
正しく考える方法は一つしかない。それは古くからの試練を経た、何らかの思想を継承することだ」−アラン「教育論」
そのようにしてだけ人は正しく物事を認識して、考える方法を学び、
思想を自分のものすることが出来る、というのがアランの考え方だ。
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以上だが、そういえば作家の沢木耕太郎も彼の著書の中で同じようなことをいっていた。
ー夜空に星を見るとき、あの連なりからどうしてあのような絵柄がイメージできたのだろうと
不思議に思うことがある。そしてこう思う。もしかしたら、ノンフィクションを書くということは、あの無限に近い星々から、
いくつかの星と星とを結びつけて、熊や琴やペガサスを描く作家に似ているのではないか、と。
ノンフィクションの書き手に許されているのは、広大な宇宙にある「星」を選び出すことだけである。
未知の「星」を発見することはできる。 しかし、「星」そのものは作れない。
いや、作らない。たぶん、ノンフィクションを書くとは、彼、あるいは彼女が、この広大な宇宙で見いだした「星」と「星」
とを結びつけ、虚空に自分の好きな絵をひとつ描くことにしかすぎないのだろう。
沢木のいわんとすることは模倣とは違うが。模倣を徹すると、その組み合わせの組み換えが始る。
独創とは、ある分野を徹底的に追求した組み合わせの変化の結果の姿である。あくまで、守・破の結果としての離の姿である。
20年近くおこなわれてきた個性化教育の失敗が、現在の日本を大混乱を引き起こしている。
個性を引き出すとして、過去から蓄積されてきた知識を疎にして我流を認めてきた重大な過失が日本を覆っている。
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