つれづれに

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

他のブログ
http://www.enpitu.ne.jp/usr5/54909/
http://horii888888.toypark.in/cgi-bin/s_diarys.cgi
http://d.hatena.ne.jp/horii888888/archive

 今日のYoutube
http://www.youtube.com/watch?v=qjKpWrZBtXU

 昨日は、次男夫婦の孫の祝いに病院に!順当なら今日が退院という。 
ー今日の随想日記よりー
   * 昨日は、初孫の顔を見に東川口に!
 生まれたばかりの孫の顔を見に川口に行ってきた。私が8人兄姉の末っ子もあって、
実子の生れた時も、子供の扱いが苦手で、戸惑った。 昔から孫自慢を聞くが、いま一つ
ピンとこなかった。中・高校の同級生で、離婚や死別を切っ掛けに県外の嫁ぎ先の近所に
引越していった人が知っているだけで三人もいる。
それだけ孫が可愛いという。 で、昨日の感想は、「成るほど!」である。
 名前がスケートの浅田真央からとって、愛央(まお)。その顔が真央そっくり! 
彼女、金メダルを取れなったため、暗いイメージがついたが、愛嬌があり美人。
 女の子は、美しいか、そうでもない?では雲泥の差。半分?は決まってしまう。 
これで、一つをクリアーしたことになる。 ご対面の時、家内が「今の子供は、
みんな可愛いらしいね」と息子に言うと、「実は、そうでもないんだよ!」・・
 話が変わるが、その後、大宮駅まで見送りに来た息子と三人、居酒屋で
晩餐をすることになった。その時に、息子が歩きながらスマホで電話予約。
「知っている店?」と聞くと「知らない!」と、歩いていく。
そこで「検索のキーワードは何?」と聞くと「大宮駅、居酒屋、個室、予約」。
 スマホのGPSが、道筋を誘導し、遊歩道を2~3分歩いた飲食ビルの9Fへ。
その間、僅か5分!探したり、迷う余地ゼロ。
丁度良い店であった。 それにしても時代は変わったものである。
   

//////
1936, ローマから日本が見えるー14
2006年07月22日(土)
第6章 勝者ゆえの混迷-3

ー同盟者戦役ー
マリウスの改革は、特に志願兵の導入は『誰の既得権をも損なわない』
という意味で利点があったが、思わない副作用をローマにもたらすことになった。
志願兵の導入は元老院の力を最終的に削ぐ作用を働かせていく。
ローマ連合に属している同盟国や地方自治体の市民にとって、兵役はいまだに
義務のままだった。彼ら非ローマ市民たちは、直接税を納めた上に、
『血の税』としての兵役に就く義務が課せられていた。
 これに対してローマ市民は、兵役が免除され、しかも直接税はもともと存在しない。
これではあまりの不平等である。こうして起こったのが「同盟者戦役」である。
イタリア半島の比較的貧しい8つの部族が一斉蜂起したこの戦争は、
さすがに苦戦を強いられてしまった。
結局この戦いは、戦闘に勝ったローマが大幅な譲歩をしたことで完全に収拾する。
戦役の二年目にあたるBC90年の冬、ローマは「ユリウス市民権法」を制定、
同盟国に暮らす市民がローマ市民権を自由に取得できるようにした。
かってガイウス・グラックスが市民権改革を提案したのは、30年前のこと。
人間とは、厳しい現実を目の前に突きつけられてしか改革はできない。
しかし、この市民権を開放をしたのは大英断であったと言うべきである。
ースッラの登場と改革ー
マリウスはもともとローマ市民権さえ持たない出自で、
軍団畑をたたき上げでのし上がってきた。
そして40歳でユリウス一門のカエサル家の娘と結婚する。
カエサル家はローマでは2流の家柄だったが、これで名門につながることになる。
マリウスが48歳のとき、北アフリカで問題が起こし、ハンニバル戦役時代に
ハンニバルを破ったスキピオ・アフリカヌスと同盟して戦った騎馬民族
ヌミディア王国がローマに敵対する。
この戦闘に副官として参加し、功を上げたマリウスは執政官に当選する。
 マリウスが職業軍人を生んだことによって、ローマ軍団の私兵化が問題になる。
その後のポンペイウスカエサルが軍団を自由に動かせ土壌を作ったことになる。
その後暫くは平穏な時代を過ごしたローマだが、市民権問題にことを発した
同盟者戦役がおこる。これは、内乱というにふさわしい戦役であった。
しかしこの間に小アジアの勢力であるポントスがローマに反旗を翻し、ローマ領に侵攻。
同盟者戦役を和解で切り抜けたローマは、この戦役で功のあったスッラに
オリエント戦線を担当させようとしたが、マリウスがこれに抵抗した。
スッラはイタリアを抜け出し編成中であった軍団を擁してローマに進軍。
これを制圧。武装クーデターによってローマを制したスッラだが、
彼は私利におぼれることなくオリエント戦線の重要さからギリシャに入る。
 しかしローマの後をたくしたキンナがまたもや反旗を翻しマリウスは復権し、
ローマに戻った彼はスッラ派の人々を片っ端から処刑をする。その直後にマリウスは病死。
あとをついだキンナは小アジアにローマ正規軍を送る。
一方スッラはギリシャで侵攻してくるポントス軍を数度に渡って破り、
陸路小アジアに進撃し、ローマ正規軍を打ち破る。
このようにしてスッラは小アジアの安定とギリシャの制圧を完成。
キンナはスッラとの決戦をギリシャで臨み、2年の戦いの後にスッラの勝利に終わる。
そして今度はスッラがマリウス派勢力を処刑していく。
当然マリウスの甥でありキンナの娘の夫であったカエサルも目標にされます。
当時カエサル18歳。しかし若年で何ひとつ政治活動をしていなかったことを理由に
度重なる助命嘆願にスッラも仕方なく承知する。
この時、スッラは ”君達にはわからないのかね。
 あの若者の中には100人ものマリウスがいることを”といったという。
スッラの条件はキンナの娘との離婚だったが、カエサルはこれを拒否。
カエサルはイタリア中を逃げまわり、ついには小アジアにまで落ち延びる。
スッラは様々な改革をしたが、元老院の強化こそがローマを栄えさせると考えて、
それに沿った政策をとる。後年2流の家系であったカエサルが、
妻の血筋の庶民派として地位を確保していったのは当然のこと。
 名門貴族の出身ならば元老院への道は開かれていたが、
平民貴族や平民出身者にとっては護民官から元老院に出馬が道であった。
ローマの重職は元元老院議員であることが暗黙の了解であった。
しかし次第に大きくなる護民官の力がローマの弱体化を招いたと考えるスッラは、
これを押さえ込んだ。
スッラは私利私欲の少ない人で、58歳で引退後は別荘で暮らしながら死んでいく。
           i (ω・`) bai  
・・・・・
2005年07月22日(金)
1571, 五稜郭
幕末の混乱期、軍艦・開陽丸を駆って官軍と戦い蝦夷地に共和国を樹立しようとした男たちがいた。
この時期、オランダに派遣されていた榎本は帰国、同じ幕臣として勝海舟の幕引きに反発。
新政府に不満を持つ幕臣新撰組の土方と合流して未開の地・函館の五稜郭に共和国を樹立する。
そこで、官軍の参謀に就任した薩摩の黒田了介(後の内閣総理大臣黒田清隆
率いる軍と熾烈な戦いを繰り広げる。
その戦いの中で、榎本の人柄を知った黒田は全面降伏を勧め彼の命を救う。
しかし土方など幕府方の残党は殆んどここで最期を遂げる。
やがて刑期を終えた榎本は新政府のロシア交渉特使として活躍する。
阿部公房が「五稜郭」という小説で、榎本武楊が政治的に江戸幕府の残党を
纏めて整理する役割になってしまった矛盾を書いている。
学生時代に読んで、その複雑多層の立場を初めて知った。
攘夷か開国か、尊王か佐幕か倒幕か、公武合体か。
それらの混沌とした中で維新の歴史は作られていったが、
その中で榎本武楊の果たした役割は、結果として皮肉な結果をもたらした。
阿倍公房の小説は、
函館の五稜郭で負けた幕府軍の囚人300人が脱走して、厚岸(あっけし)の海岸から上陸、
山の奥深くへ消えていった、という地元の伝承をもとにそれを追う男の話から始っていた。
蝦夷共和国」という、とんでもない構想に魅力を感じて読んだが、
実は?その背後の複雑な背景を抱えた夢の世界であったという阿倍公房の世界観があった。
もう三十数年前に読んだ本だが印象に深く残っている本である。
 --
ー榎本武楊ー
1836-1908
江戸御徒町生まれる幕臣、幕府留学生としてオランダへ3年造船、
機械が学ぶため留学し滞在地で国際法を習得、開陽丸回航と共に帰国、
帰国後幕府海軍教官として基礎を築き海軍副総裁となる。
戊辰戦争では、江戸陥落後に徳川残存艦隊を率い蝦夷箱舘へ脱出、
蝦夷地を占領『蝦夷共和国』を樹立し総裁になるも、明治2年函館戦争で降伏。
新政府に拘束された後、敵将であった黒田清隆の強い要望により新政府に仕官し
北海道開拓使に任官、その後日露関係の外交交渉の為、海軍中将に任官するとともに
ロシア派遣特命全権公使となり力を尽くした。
ちなみに彼は明治22年子爵の爵位を受け明治23年文部大臣に就任した。
生前最も愛した向島にちなんで、その地の木母寺境内に銅像が建てられ
その後現在の梅若公園内に整備された

・・・・・・
2004年07月22日(木)
1206, 「半落ち」ー 映画感想

30万部を越すベストセラー記録を樹立した横山秀夫ワールドの最高峰
半落ち』が映画化され、今年の1月に公開された。
そのDVDが、もうレンタルショップにあった。
さっそく借りてきた見たが、素晴らしい内容であった。
見おわった時、涙が知らずと溢れ出ていた。
あとで家内から聞いたが、みた人のほとんどが泣くという。
私の感想文は、最後に書いてある。
ー解説と内容(ホームページよりコピーしたもの)を貼り付けておきます。
ー解説
愛する妻を手にかけた、元捜査一課の敏腕警部。彼が自首するまでの
「空白の2日間の謎」を追う幾多の人々。
が、この作品は、警察というフィールドで展開されるまぎれもない
ヒューマン・ドラマである。年齢を重ねるにつれ、人はさまざまな理不尽を
呑み込んで生きていかねばならない。
その現実に対峙し、何を、どう選ぶのか?状況に流されず、自らの生き方を選び
取っていくのは容易ではない。アルツハイマーの病状が進む妻に懇願され、
嘱託殺人という重罪を犯した主人公・梶聡一郎。その心の襞を探っていく物語は、
いつしか彼を取り巻く人々の心のうちまでも照らし出していく。
半落ち』に仕込まれた'合わせ鏡'の見事さは、登場人物たちはもとより
観る者をも巻き込んで、自分の<今>のありようを見つめさせるのだ。
ー内容
「私、梶聡一郎は、3日前、妻の啓子を、自宅で首を絞めて、殺しました」
梶聡一郎が最寄の警察署に出頭してきた時、捜査一課強行犯指導官、志木和正は、
連続少女暴行犯人の自宅を朝駆けで急襲する最中だった。梶の取調べを命じられて、
何ヶ月も追ってきたヤマから最後の最後で引き剥がされ、警察署へUターンする
志木の胸中に去来する複雑な思い。
半年前、アルツハイマー病を発症した啓子の看病の為、自ら刑事を辞して警察学校で
後進の指導にあたり、広く敬愛を集めてきた梶が、なぜ殺人を犯したのか。
取調室で向き合う梶の視線の奥が、あまりに澄んでいることに驚く志木。
志木の取調べに対して、啓子の扼殺後自首してくるまでの2日間のことについて、
固く口を閉ざす梶に、志木のみならず、駆け付けた県警幹部すべてが困惑する。
現役警部の殺人という一事件が、県警そのものの権威と、そこに属する何千という
警察官の信用を地に墜とそうとしているのだ。取り調べにあたる志木に、誘導尋問で
「空白の2日間」を捏造した事実で穴埋めするように、命じる県警幹部たち。
そしてその命令に背き、取り調べ官を解任された志木は、独自に、梶がひたすらに
隠そうとしている〈真実〉を探り出そうとする。
7年前に一人息子の俊哉を急性骨髄性白血病で14歳の誕生日を待たずに亡くし、
寄り添うように生きてきた夫婦に、一体何があったのか。
そして梶の事件がやむなく表沙汰になる。
さらに「空白の2日間」についての県警の発表にウソがあることが、梶が東京行の
新幹線ホームにいたことを目撃した男のマスコミへのタレ込みで明らかになり、
県警の周囲は騒然さを増す。事件の推移と共に、担当検事(佐瀬)、弁護士(植村)、
スクープを狙う新聞記者(中尾)、裁く判事(藤林)が、各々の人生を背負い、
思惑を抱え、事件の真相を暴く為に、梶の人生、梶という人間そのものに近付いていく。
個人として捜査を続ける志木。県警と地検の?取り引き?でやむなく手を引く佐瀬。
これを機に名を上げようと、意気込んで梶との接見に臨む植村。梶の「空白の2日間」
の行動の一端を掴む中尾。公判で、啓子と同じ病を持つ父のことが脳裏を掠める藤林。
そして、亡くなった俊哉の担当医、高木の「俊哉君の発病から間もなく、
ご夫妻でドナー登録されたんです」という言葉。
裁判の証言台で、「私は…啓子を殺してやることもできなかったんです…」
と泣き崩れる、姉・康子が保管している啓子の日記に貼られた、「命をありがとう」
と題された投書記事。弁護を引き受けた植村に梶が問い掛ける、
「あなたには、守りたい人がいませんか」という言葉……
“来るべき日”を待ちわびる梶の、拘置所での、贖罪と希望への祈りを捧げる日々。
どんな犠牲を払い、誹りを受けようとも、あと1年だけ生きようとしている
梶の人生の〈真実〉とは !?
 -----
< 感想>
母をアルツハイマーで5年半、看護した経験があったので、主人公の
深い思いに感情移入をしてしまった。
そして、それに関わる色いろな立場の思惑や利害も、身に憶えのあることばかりで、
主人公の心の壁を探っていく物語は、そのまま自分自身の心の壁を抉りだしている
ようであった。そして、当時の自分の心の姿が浮かび上がってきた。
辛く悲しい母の姿と家族の、それぞれの立場で必死に生きていた当時の日々
がリアルに浮かんできた。しかし、そこには底知れぬ暖かさがあった。
アルツハイマーの身内を抱えた崩壊一歩手前の家族が、どういう気持ちで毎日を
過ごしているか、この映画は深く入り込んではいなかった。それも、しかたがないが。
高齢化社会の、大きな問題がアルツハイマーである。
どこの家庭でも、ぶつかる大きな問題でもある。
いまの寝室の寝ているところが、母の寝ていたところである。
アルツハイマーになった母が夢で月に二回は出てくる。
母は今でも私の中では生き続けている。

・・・・・・
2003年07月22日(火)
839, あいうえおー生き甲斐測定法

今やっていることが、生き甲斐があることか、天職か、ベストかどうかの
判定基準として、あいうえお生き甲斐測定法がある。
「あ」は、アイデア 
「い」は、インタレス
「う」が、ウォーク
「え」が、エキサイティング
「お」が、オーナーズシップ
この内の一つは抜けていてもよいが、二つ以上の場合情熱が感じられなくなる。

「あ」は、要は自分のアイデア、企画かどうか。
「い」は、興味、関心のこと。
「う」は、歩くことで、行動につながる。待っていたり行動なしでは何も始まらない。
「え」は、エキサイティング。燃えるような情熱の涌くこと。
「お」は、オナーズシィップ。自分でやり遂げたという喜びや自負心ー行蔵です。

 これは藤本儀一の『人間ほど面白い動物はない』サンマーク出版ーの最後に
 書いてあった内容である。
創業では、これが一つでも欠けていたら上手くはいかない。
これを満たした上で総てを注ぎ込んで初めて動き出すものだ。
この5つを満たす為には、いつも随想日記で書いているように、
「自分の好きなことを見つけて、それに集中する」しかない。
 私自身、好きなことをして生きてこられたことが一番の誇れることだ。
この随想日記で一貫して私も主張してきたことである。
最後に『楽しかった!』と言い切れる生き方である。
『好きなことだけをして生きていく』には、それなりのノウハウと能力と環境が必要である。
 その方法論を具体的に解りやすく書いてある本があった。
 初心者向きで、どちらかというと先人の知恵を租借している内容だ。
といって好きなことをしてきたと自分で言い切れることがよい。
以下、インターネットで調べてコピーしておきます。
・・・・・
「『好きなことだけをして生きていける人』はここが違う」
中川 昌彦 (著)
ー内容ー
自分の好きなことをして生きていきたい。自分の思い通りの人生を生きたい。
そう思うが、拘束の多い社会で、あきらめてしまう。
しかし、「自分の好きなことをして生きること」はできるのである。
実際、自分の思い通りに生きて、納得して、成功してきた人たちはたくさんいる。
主体的に生きるためには、やはり方法がいる。
この本ではそのための方法、すなわち固定観念や思い込みをはずし、必要な戦略や戦術、
効果的なノウハウ、知恵をお伝えする。自分自身の人生を生きるための技術である 

  ー目次
第1章 人はそれぞれ、好きなように生きればよい(最後に「楽しかった!」 
   と言える人生を送りたい
   博士を捨て、碁会所席亭になった男 ほか)
第2章 仕事も遊びも本当に好きなことを見つけよう(「本当に好きなことがある」が出発点
   仕事を楽しめる人の発想に学ぶ ほか)
第3章 「一人で生きるぞ」と思い定めよう(しっかりした「自己基準」が、生きる上での
   覚悟をもたらす
   幸せになりたければ、まず一人で生きる方法を身につけることだ ほか)
第4章 "ウィル"人間の優雅な生き方(ウィル(Will)人間になるか、
   シャル(Shall)人間になるか「枠」にはまる人、はみ出す人はこんなに違う ほか)
第5章 「おもしろ、おかしく生きる」と心に決めよう(おもしろくない世を楽しく生きる  
   「晋作術」気楽に楽しく日々を過ごせば、周りも愉快になる ほか)
・・・・・・・・・・・・
好きなことを早く見つけて、それに集中する、そして十分楽しむ。
それが長期的に継続した時、やってよかったいえるかどうかを見極めて。
「踊りと歩行」の組み合わせ、目的地をしっかりと見極められるかどうかだ。

・・・・・・・・
・・・・・・・・

2002年07月22日(月)
464,煮た豆

母から聞いた言葉で印象的な言葉で「煮た豆」がある。
もう出来上がってしまって芽が生えて来ない豆をいう。
人間に喩えると「もう出来上がってしまって、潰しのきかない人間」をいう。
この言葉は自分の自戒の言葉であり、
常に前向きでチャレンジと変化と闘いを自分に課し続ける姿勢だ。
ある同?会の大部分が煮た豆だけでなく、納豆のようだ。
腐ってしまって、お互い粘粘している。
仕方がないが、もうオカラのような人もいる。
豆の質も10歳で殆ど決まってしまうらしい。
「3歳では遅すぎる」というソニー創立者井深大の本があるが。
私の見るところ、95?はいや99?はその範疇だ。
もっともその時の優等生も大部分がただの人だが。
私のよくいう子狐は「煮た豆」が必死になって「生豆」を演じている姿だ。
いや「生豆」を粘々で絡もうとする姿だ。
そういう自分ももう煮た豆か?
こういう文章を書いているといろいろ気づきがでてくる。

・・・・・・
2001年07月22日(日)
[83] バイキングについて
ー北欧旅行記ー 
バイキングは今より1200年前突然始まり200年で終わったそうだ。
キリスト教の影響ではないかと言われている。
面白いのは相続は末子相続で、長男次男はある年令に成ると家から出て行くそうだ。
海は日本の場合お堀の役割だが、夢に向けての希望という。
1000年前のバイキングの船がそのまま発掘されて展示されていた。
一艘40人ぐらいの定員で50艘位で攻めていくそうだ。
アメリカまでも行っていたそうで、コロンブスの発見より5^600年
さかのぼる事になる。
それにしても金髪で背が高く足が長い、それに美男美女である。
料理も上手い! 厳しい自然だが資源に恵まれている。