閑話小題 ~この数年分のテーマ日記を読返してみて…

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   * 9年前の‘地軸様’を読返して見て…
 過って書いた文章を読み返すと、書くという行為の意味深さを思い知る。
因が当日の自分で、縁が読返している自分。そこに新しい視点を得ることで、
因縁が生じることになる。以下の去年分を読返すと、そのまた8年前の己と
対面する。その時点時点に、自己完結しているため、内なる当日の自分が、
当日の何人もの自分と出会う面白さ。票集めと、政治資金集めに忙殺されて
いる政治家などは、感慨深いはず。際どいバランスの上で、日々、過ごす中で、
後になって気づく権謀術策など複雑だろうに!
 ――
   * これを書くにあたり、過っての随想分を読返してみて…
 2012年8月27日に… <4224, 閑話小題 ー地軸様>を書いていた。
そして、昨年の同月同日に、その大橋の歩道で自殺未遂の生現場に出会った
経験を記録風に記していた。毎日、出歩いていると、色いろな小さな出来事
に遭遇する。それが今ではYouTubeに変っている。出歩く先は、それぞれ各地
の自然だったり、ミニ事件。面白くないわけがない。だが、1人の生死を分かつ
問題なら別物。
 ――
   * 衝撃的なヤツレはてた姿に…
 モーニングショーの常連キャスター役で、度々、見かけていたタレントが、
衝撃的なヤツレはてた姿に変りはてTV画面に現われた。このコロナ禍は、後あと
残るため、若者がかかると大ごと。 それが周知されてないのが大問題。
人間として呼吸が出来ないことが一番辛い。あの姿が、その全てを伝えている。

≪ タレントの野々村真さんが8月25日、YouTubeで退院を報告。
 7月31日に新型コロナウイルスへの感染が発表され、症状が悪化した
ため8月5日から入院していました。
 退院したとはいえまだ本調子からは程遠いようで、すっかりやつれ、
声もかすれたままながら自分の言葉で退院を報告した野々村さん。
「入院中は精神的にも肉体的にも苦しい日々が続きましたが」と入院生活を
振り返り、“命を救ってくれた”医療従事者の献身に感謝しています。
 野々村さんは関係者やファンへ向け「本当にご心配おかけして申し訳ござい
ませんでした」と謝罪。今後も芸能界で頑張っていきたいと復帰へ向け意欲を
示した。
 野々村さんの姿に
・「まだ喋るの辛そうなので無理はしないで」「痩せたしまだ全然本調子では
 なさそう」とファンからは心配の声が殺到。 SNSでは
「やつれ具合見てコロナがより怖くなった」
ガリガリで衝撃を受けたわ」とショックを訴える投稿も見られました。
「無理せずお身体大切にしてください」「ご自身のお身体を第一に考えて
ゆっくり社会復帰して下さい」とあたたかいメッセージが寄せられています。≫

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7105,閑話小題 ~自殺未遂の生現場にて-4(そこは、エネルギースポット
2020年08月27日(木)
    * 偶然にしては、奇遇!
 翌日、その場所に、引きチャリで歩いていると、大手大橋を運動も含めて
深呼吸しながらヒキチャリをして歩く私の「エネルギー・スポット」の時空に
気づいた。ブログ内検索をすると、8年前にテーマとして書いていた。
擬人化した地球の芯を『地軸様』と命名した一番の心休まる友人! 傍から
見れば変だろうが… その後、ある映画で、「地球の芯にエネルギーを発電
するマシーンが出てくる場面があった…」 幼稚だが、地軸様と同じ発想で、
瞑想そのもの! 般若心経を唱えている時と同じ心持ちである。
 飛び降りようとしていた女性が坐っていた場所が、そこと翌日、その場に
立って初めて気づいた次第! 水面の流れを見ながら、地軸様との対話。
そこには、水鳥が群れをなして、羽根を休めたり、雲雀、カッコウなどの
鳴き声が聞えてくる。水面の流れは、生臭い私に関係なく、この先も変わらず
続く! あるのは、「いま、ここ、わたし」の永遠の、この瞬間だけ!
浮び、消え去る想念は、泡沫の妄想! 
徒然草』は『 枕草子』とならぶ「古典日本三大随筆」に数えられる。
<… よどみに浮かぶ うたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまり
たるためしなし> の書き出しで移り行くもののはかなさを語った随想記。
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4224, 閑話小題 ー地軸様 
2012年10月19日(金)
   * 地軸様
  何度か書いたことがあるが、30年来、近くの土手を散歩しているうちに橋の
上で呼吸法を取入れた深呼吸をするようになった。大きく息を吐き出しながら
 シャガミコム。その時に地球の芯に気を落とすイメージを持つ。
そして、そこから大きな息を吸い上げながら立ち上がり、今度は空に向かって
気を吐き出すイメージで息を出す。それを一回につき7~8回、続けていた
 ところ、擬人化した地球軸に話しかけるようになった。「おはよう!」
 「久しぶり!」とか。 ところが何回かするうちに、逆に地軸の方が、
 「よう、昨日は散歩に来なかったな!」「より深く呼吸しろよ!」と思いも
 よらない切口で呼びかけてくる。 サルトル的にいえば、「対自」と「即自」
の掛け合いになる。ところが何時もの散歩道のコースに、大規模な道路拡張
 工事が始まり通行止。そこで違うコースを迂回して歩いているうち、電動
アシスト自転車を購入した。試しに信濃川の土手を長岡大橋から大手大橋を
一周したところ、この景色と空気に魅されてしまった。三年前のことである。
それをキッカケに早朝ウォーキングがミニ・サイクリングへ変わってしまった。
ところがチャリだけでは、物足りなくなり、大手大橋を渡る時にヒキチャリを
 しながら歩くようになった。 暫くすると、その地球軸が再び話しかけてきた。
 「久しぶりだね、まあ、下世話なことなど考えてないで、ここを歩いている時
  は360度のパノラマを味わえよ!」、
 「もっと深い呼吸をしな!」
 「自分にせっかく出会えたのだから、エネルギーを、もっと吸い上げろ!」、
 「何か考える時や、音楽を聞く時には、わたしが同一になったイメージを持つと、
  感覚が鋭敏になる!」(ワシにも聴かせろ)とか、なかなか面白い。 

スポーツセンターで、ウォーキングマシーン上でiPodの音楽を聞きながら
運動している時などイメージすると、音楽に集中できる。で、この擬人化した
地球軸に何か名前をつけてやろうと、この数日で考えた名前が、「地軸様」。
 知らない人が、これを読んだら、「この男、ついに頭にきたか」と思うだろうが、
 私にとっては、20年以上の対話の過程がある。自分の魂を擬人化した「真魂様」
でもよい。常に話相手として擬人化して対話すれば、それで深い自己対話になる。
 問題は意識してやるかどうか。アブラハム、キリスト、釈迦などは、
このエネルギーの大元と繋がっていたのでは? 魂とは、内的宇宙=地軸様。

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6738,閑話小題 ~「老いの可笑しさ」ですか!
2019年08月27日(火)
   * 過って70歳過ぎの老人を、冷ややかに見ていたが…
 老いていく日々は、何やら時代の隅に追いやられていくようになる。
それでも毎日、自分でたてた少し過密ぎみのスケジュールを熟して8年半も経過。
厳しめでないと、良からぬ過去を想いだし、捉われ、行きつく先は、老人性鬱に
なる危険がある。行き先に夢があるでなし、逆に遣り残し感などの壁も想い出て
こない。とはいえ、茫然と立ちつくす事態が何時くるか分らないが、その不安感
がほぼ無いことが我ながら不思議。どのみち、何れは誰もかも死ぬのである。
考えても如何なることもなし! なら考えないで、TVに、ネット・サーフィンに、
スポーツに精を出すしかない。平凡の日々の中でも、けっこう、起伏が存在する。
最後は自問自答で、内省の自己対話で納得する。

 けっこう、このテーマ日記の、習慣と、蓄積が杖かわりになっている。
背後に広がる膨大な世界の直感が、人間には必要と日々、痛感する。 毎日、
真面目くさっている割に、大した内容でないのは、解ってはいるが、この程度の
習慣をしてなかったら、どうか?と思うと、決して無駄ではないはず。好き放題
してきた割に、致命的失敗に至らなかったのは、その都度、知識と情報を得るか、
知っていた御蔭で、助かったことが多々あった。萎びた老人の頭には、豊穣の
感情と経験が果てしなく存在している。その老人になってしまったが、心は、
全く受け付けない。時どき、腰の曲がった老人をみて、腰痛で辛うじて歩く姿が、
自分に重なる。

 面白いのが、40歳、50,60、70歳の峠から眺望する下界が、違って見えること。
それも、過っての自他の心情も、後になって初めて気づくことが多い。それと、
新鮮な感覚が、内なる魂から吹きあがってくる経験。これほど内的、外的に
世界を経験できるとは、思っていなかったことも事実。しかし、その背後には、
底知れぬ膨大の世界と宇宙が直感できる。

 この時節、何といっても生命誕生以来40億年来の『情報革命』に、遭遇して、
経験していること。10年100倍、20年で100×100=1万倍、30年で1万×1万=1億
の情報量の増加の恩恵を現に受けているのである。これは現実社会の岩盤を
日々刻々、壊し続けている。そして、AIたるものが、人間社会を支配するとも
言われ出してきた。AIが、逆に人間を利用し、世界を統治する可能性が、2045年
問題としていわれている。これから10年先は想像を絶する世界が待っている
のだろう。 10年、20年、30年前を振返ると、これから先が、思いやられる。
面白く、刺激的だが、その中で生抜くことは、何ともスリリングである。
そうこう考えると、ひと回り年上の「従兄」の切実な願望… 
「あと10年、生きて、1億×1億= ? の世界を見てみたい。いや、如何か?

 ……で以下に、また偶然、脈絡として丁度良い内容が、控えていた。
それにしても、不思議! 行ってみたいのは2045年。いや、まず2029年である。
寝たきりの可能性もあるため… バーチャルリアリティもあるから、それでも?

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6375,閑話小題 ~行ってみたい時代
2018年08月27日(月)
   * いまないものに憧れて
 朝日新聞‘beランキング’に『行ってみたい時代』のテーマの記事があった。
私の生きた時代が太平洋戦争の敗戦半年後から現在までの72年に至っているが、
人生のメインを、この時代に乗れただけでも非常に幸運である。右上がり経済と、
バブルの高揚。おまけに「第二の敗戦(バブル敗戦とデフレ)を味えたのだから…  
  ~私の行ってみたい時代?
『現在の年齢のままだったら 20年後! 加齢するなら 10年後!』
『過去限定なら… 5~9歳と、20歳代、50歳代後半! それと大正時代。』

  ~記事の一部より~
< あのころはよかったなあ。最近そんな言葉をつぶやいてばかりいるあなた、
 タイムスリップができ、過去に戻れたら、いいと思いませんか?
「歴史はくり返す」と言います。過去へ行けば、歴史の謎が解けるかも。
で、日本のどの時代へ行ってみたいですか?
「どんな時代へ行っても、命の危険はなく、無事に現在に戻ってこれるものと
します…」 遠くの平安、江戸など遠い過去の中で、ここで1、2位を占めた
のが「近い過去」。
・第一が高度経済成長期(1955~73年)。50代以上の世代、特に男性が多い。
・次が「バブル期」1989~92年)。こちらは、女性が多かった。
「遊びも、恋愛も、仕事も楽しかった。もう一度、無茶してみたい。」
・3位が、「平安時代」(794~1185)。何と平安時代が300年もあった。
 ここまでが300票前後で、
・4~5位が幕末(1853~68年)と、江戸後期18C初頭~1853年)、両者とも
 200票半ば。>

▼ 自分が終戦の半年後に生れて、廃墟の中から、経済成長期に。
 そしてバブルとバブル崩壊で経済敗戦で、デフレ経済を20数年経験した。
世界は1992年のソ連・東欧の崩壊、2001年の9.11テロから、イスラム教と、
キリスト教国の本格的戦争が始まり、現在に至る。 日本経済未だに経済敗戦
のショックから抜出せない。団塊世代のⅡ世は、親を見て育ったが、その下の
世代は、それを知らない為に、憧れるのだろう。比較的恵まれた?家庭環境に
あったことも含めて、ベストに近い人生環境であった。一つ間違えると、朝鮮、
ベトナムのように、国を二分され… もう二度とこない国家繁栄のピーク時代に、
生きてこられたのである。今では、日常的に、地震、台風、火山とたて続きに
発生している。それは国家としての財政基盤を大きく削ぐことなるが、何故か
誰も直視しようとしない。 で、親の代の「竜宮城」のおとぎ話の名残りに、
憧れるしかない。味わい尽くした私たちは、沈黙するしかない。
 しかし、よく出来たもの。科学技術の進化が、情報化という時代をもたら
してくれた。そこに情報格差という大問題が、生れている。未来、現在だけで
なく、過去の情報も鮮明に映し出し、次世代に提示する。我々の世代に少ない
のは、近未来の情報化がもたらす恩恵。羨ましい限りだが、未来は少ない。
「いま無いのが、見えてきた近未来の情報社会」 その狭間に私たち世代が
立たされ、消え去ろうとしている。近未来の一端を毎日、味わっているが、
羨ましい限りである。
 「上を見れば限がない、横をみれば情けない、下を見れば底がない」 
まさに周囲の情報がリアルタイムに知りざるを得ない哀しみと喜びを
味合えるのも余裕があればこそ。何も知らないのも生き方のひとつかも!
時代の変遷も、情報環境も、人生も、驚きの連続。 夢見ているようである。
 「辛うじて楽しんでいる」というのが実感。
両親、特に父親が、戦中、戦後の混乱の中で、倫理的に厳しく過ぎた? 
反動を、私に向けてくれた感があった。その上に、この時代である。

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4913,世界の美しさをひとつでも多く見つけたい ー5
2014年08月27日(水)                
     『世界の美しさをひとつでも多く見つけたい』石井光太
  この著書を読んでいて思い出したのが、以前に取上げた、
<京大工学部の新宮教授の「幸福の4階建て論」説。
               (古今東西の幸福論を読み漁った結果)
 4階:克服できない苦難や悲しみの中に、幸福がある。
 3階:苦難や悲しみを経験し、それを克服する。
 2階:獲得した「快」を永続させる。
 1階:人間の本能的な「快」(恋、富、名誉など)を得て、増やす。>  
『世界の美しさを一つでも・・・』の著者・石井浩太は、それが壮絶であるほど
余計なものが剥ぎ取られた人間の泣きたくなるほど、その美しさが浮上るという
説に重なる。このルポも、時代の要請なのだろう。
  ーまずは、その辺りを抜粋ー
≪ なぜ過酷で壮絶だったりする現場に赴くのか。それは過酷な現場であれば
 あるほど、「人間の美しさ」が見やすいからです。良心、善意、優しさ、強さ
といったものです。暗い場所であればあるほど、光はより明るく輝きます。
それと同じで、悲しくてつらい世界だからこそ、人の優しさやたくましさがより
鮮明に浮き上がる。 たとえば、マドウと薬草売りの関係が、ニューヨークの
高価な私立病院の個室でくり広げられるお金持ちの病人と専属看護師のそれだと
したらどうでしょうか。高級病院の専属看護師は、コルカタの薬草売り同様に
お金持ちの病人を必死に励まそうとしているかもしれません。しかし「高額な
お給料をもらっている」「最新の医療を受けている」という事実があることで、
専属看護師の善意は見えにくくなります。コルカタの路上で人間が裸同然で
うごめくように生きています。良し悪しは別にして、余計なものが一切ないから
こそ、薬草売りのマドウに対する善意がはっきりと目に見えるし、それが
泣きたくなるほど温かな行為として感じられる。そして、薬草売りとしての
美しさが鮮明に浮き上がるのです。私は先ほど「人生観が変化するような感動
を見つけ出したい」というようなことを書きました。過酷な現場へ向かうのは、
そのためなのです。厳しい状況の方が人間の美しさがより輝いて見えるので
あれば、必然的に向かう先もそこになります。過酷な現場を見たいから行く
のではなく、より多くの人間の輝きを発見できるからこそ赴くのです。・・≫
▼ 幸福の4階建て論に疑問が残っていたが、これを読んで、成るほど合点が
 いった。著者が、この論を知っていたかどうかは知らないが、克服できない
不幸も、見方を少し変えると、こうも違って見えてくる。3年前の節目も、
実際に経験をしてみて、それまでとは社会と人間が違って見えてきたのに
驚いている。死を悟った時とか、克服できない苦難や悲しみの中にこそ見える
様ざまな感動が、人生観を変える。逆に、ただ、思い込みの壁で、物事が全く
見えてない人と、過っての自分の姿が見えてくる。漆黒の闇の中こそ光は輝く!
ふと気づいたが、4F説の、1階が壮年までの生、2階が老年、3階が病気、
4階が死ぬまでの葛藤?で、屋上は死、自分から解放された無限世界!  
(一言多いが)平屋もマンションもある・・・
・・・・・・
4546,閑話小題 ー小学、中学校の同級会で、どうしてるの?
2013年08月27日(火)
  * 小学、中学校の同級会で、どうしてる?
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5278,「読書の腕前」 ー③
2015年08月27日(木)
          ~「読書の腕前」岡崎武志著 ー読書日記 ~
   * 独りの楽しさと、読書
 半世紀近く、早朝と午前中の読書の時間は、私にとって至福の時間である。
これに30年まえからウォーキング(7年前から自転車散策に変更)が、15年
前からネットが加わった。これと秘境ツアーの蓄積が、人生の財産である。
 読書に関しては10歳までの習慣化が必要と言われるが、その割りに、
底が浅いのは、20歳辺りで、ようやく面白みを知ったため。~その辺りから~
≪ 「いまの日本には楽しみがあふれているのに、楽しみ方が下手だ」
 谷川俊太郎の『「ん」まであるく』というエッセイ集のなかにある言葉だ。
たしかに、余暇というと多くの人が、ゴルフへ行く、家族でディズニーランド
へ出かける、ショッピングセンターへ買物に行き、ついでに食事もする、
というかたちで時を過ごす。それが悪い、と言うのではない。しかし、
あらかじめ用意された場所や装置がないと、時間がつぶせないというのでは、
「楽しみ方が下手」と言われても仕方がないだろう。このことを、もう少し、
谷川の文章に添って考えてみたい。 ー続けて、こんなふうに言う。
「文学、芸術に関する限り、私たちは楽しさよりも先ず、何かしら
〈ためになること〉を追うようだ。楽しむための文学を、たとえば中間小説、
大衆小説などと呼んで区別するところにも、自らの手で楽しむことを卑小化
する傾向が見られはしまいか。感覚の楽しみが精神の豊かさにつながって
いないから、楽しさを究極の評価とし得ないのだ」と。
 ここ数年のベストセラーリストを眺めていると、自己啓発本がつねに上位を
占めている傾向に気づく。多くの人がいまの自分に満足できず、なにかを変えた
がっているようだ。スキルアップを図り、それを仕事に結びつけて出世したい。
本もそのため「役立つ」なら読む。そういう気持ちがリストから透けて見える。
出世を願う気持ちを否定することはできない。しかし、本一冊を読み、いきなり
自己を変革しようというのはあまりに安易だ。そして、なにか「ためになる」
ことがないと、本に手を出さない姿勢もいびつだ。それもこれも、「本を読む」
ことのほんとうの楽しさを知らないから、いつまでたっても即効性を願う本
ばかりに手を出してしまうのである。 本は栄養ドリンクではない。
「つつしむことのできぬ精神はひよわだ。楽しむことを許さない文化は未熟だ。
詩や文学を楽しめぬところに、今の私たちの現実生活の楽しみかたの低の浅さも
表れていると思う」と、谷川は言う。また楽しみはもっと孤独なものであろう、
とも。恋人と、あるいは大勢の仲間といっしょに音楽を聴いたり、映画を観たり
するのは楽しい。しかし、その瞬間だって、その楽しさを腹の底から感じる
のはいつだってひとりの自分なのだ。
 いつも誰かといっしょでないと不安で仕方がない、ひとりでいるのはみじめ。
だからケータイやメールで他人とつながって生きている。こうして孤独、という
言葉を恐れるあまり、自分ひとりで感じることのできる力をないがしろにしたら
どうなるか。「ひとりじゃいられない病」にかかってしまい、いつの間にか、
伸び切ったゴムのように魂は弛緩してしまうだろう。
『教養とはつまるところ自分ひとりでも時間をつぶせる』ということだ。
それは一朝一夕にできることではない。「働き蜂たちの最後の闘いは、膨大な
時間との孤独な闘い」 そう書いたのは中島らも(『固いおとうふ』双葉文庫)。
「教養」という、うさんくさく実体のない言葉を、なんとうまく表現している。
「自分ひとりでもうまく時間をつぶせる」人のことを「孤独な人」とは言わない。
なぜなら、その人の時間はきわめて充実しているからだ。私はつまるところ、
「孤独」を克服し、たったひとりで自分の内面を深めるのは「読書」以外にない、
と考えている。 また谷川は前掲書のなかで、自分だけが感じる「楽しさ」を
ちゃんと見つめることが「成熟」だと言っている。≫
▼ 今では、ネットサーフィンという遊び方もある。逆に、誰とでも気楽に、
ツイッター」や「リンク」で結びつくことが可能だ。それと、自己啓発本
偏っていたこともある。『教養とは自分ひとりでも時間をつぶせる』という点
では、充分、教養があるはずだが、それが浅いと実感するのは、10歳までの
ベースがないため。その割切りをしておけば、読書の楽しみは増えるはず。
 それよりも、現実社会があまりにも面白い!ということか。