閑話小題 ~YouTubeネタ -2
* 鏡と野生動物の出会い
動物が鏡の中での自己認識が可能かどうかを過って書いたことがある。
哲学者の池田晶子が愛犬を通して、その命題に向っている。著書の写真に、
愛犬が、鏡を通して、池田が手を振っているのを見ている写真が、正に、
その答えを現している。イルカと、猿人類の一部が認識可能と知っていた。
YouTubeに、2×3mほど鏡を、森林の獣道に置いて、様々な動物の反応が
映し出されていた。その反応の面白い順に列記すると、豹、ゴリラ、象、
チンパンジー、などなど。初めは、同類の敵、そして、段々と慣れてくる。
そして仲間と認識。鏡の対象とじゃれ合う。寝転んで、如何いうものかと、
対象を窺う。この辺りが、哲学の初心用の哲学書と対峙する様子と同じ。
ベランダに居るインコの篭の鏡に対処するペット同様! 開けたままの篭の
裏側に廻ったり、頬を摺り寄せたりするのは、豹やゴリラと同じ。それを
少し離れた場所から観察姿は、何とも興味がひかれる。鏡の上に上がったり、
自分の顔を叩いたり、鏡中の姿を観察する。隣の猿と、自分を見比べたり、
段々と我を失う姿は、哲学書を読み始めた頃の己を彷彿させられる。
その意味では、一度は、ノイローゼになってみる必要もあるのでは…?
同年代の人たちに、一生、何も考えないで、消え去る人を見かけるが、
あの豹にも劣るかもしれない。自嘲の日々の中、我ながら笑ってしまう!
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6905、閑話小題~ レビンソンの発達理論とは ―2
2020年02月09日(
<レビンソンの発達期(発達段階)と発達課題>
* 発達段階の特徴を、更に詳しく
発達理論(節目理論)として卓越である。特に過渡期が重なるところが良い。
小学、中学、高校、大学は、さらに細かく考えられてある。とりわけ高校と、
大学が、大きな分岐点になる。その期間は母親の胎内に譬えることができる。
そこで人生が決定づけられる。秀才は、教育プログラムに沿って、天災は、
それを直感的に熟す優秀な人をいう。成人期は、節目が次々とやってくる。
それを乗越えないと、そこで終わり。その山あり、谷ありを乗越えるプロセス
を人生という。学生時代から、その辺りに興味を持っていたので、その都度の
判断材料に事欠かなかった。ほとんどの人は、ことあたり主義で、彷徨う。
―
≪ 【特徴】
人生:約25年間継続する発達期(安定期)が繰り返され、
各発達期は約5年間の過渡期が重なりつながっている
・過渡期:生活構造の修正が行われる時期
・生活構造:ある時期における個人の生活の基本パターンや設計
乳児期(0~1歳)には母子統合、
幼児期(前期、1~3歳)には第1次反抗期と母子分離、
幼児期(後期、3~6歳)には一人でいること、
学童期(6~12歳)には友人関係、
思春期(12~15歳)には反抗期、
青年期(15~17歳)にはアイデンティティの危機などの課題が存在します。
中年期 自分の人生を肯定的に受け止めることができず悩む状態
◉ 過渡期1(17~22歳)
児童期・青年期から成人期(成人前期)への橋渡しとなる時期。
親に保護・養育される世界から、成人の世界へと踏み込む時期であり、
レビンソンは、この時期の発達課題を「アパシー」と「離人感
(自分が自分ではないという感覚)」としています。
それまでの自分を見直して修正するとともに、成人の世界の可能性を模索し、
成人としてとりあえずアイデンティティを確立して、成人として生活する
ための暫定的選択と試行錯誤がなされることになります。
◉ 成人前期(17~45歳)
成人前期は、成人として社会の中に入り、自分の力で生きていく時期です。
22~28歳頃が大人の世界へ入る時期(安定期)、
28~33歳頃が30歳の過渡期(成人としての生活がより現実的になる時期)、
33~40歳頃からが一家を構える時期(安定期)とされます。
◉ 過渡期2(40~45歳)
成人前期と中年期をつなぐ、人生半ばの過渡期です。
この時期の発達課題は、「らしさ(男らしさ、女らしさ」、
「愛着と分離」、「若さと老い」、「破壊と創造」です。
成人前期では目を向けてこなかった「自分」に目を向ける時期であり、
生活構造の変化に柔軟に対応して新しい生活構造を構築することが求められる。
肉体や生活環境が変化したり、それまで価値観が崩壊したりする時期であり、
この時期に新しい生活構造を構築できず中年期(成人中期)へ入ると、
中年の危機(後述)に陥るおそれがあります。
◉ 中年期(成人中期、40~65歳)
中年期は、自分らしさを模索し、葛藤しながら「真の自分」として生きる
ことを決める時期です。 レビンソンは、中年期の発達課題として
「真の自分と折り合いをつけること」を挙げています。
◉ 45~50歳は充実した時期(安定期)、50~55歳は人生半ばの過渡期
で設定した課題を実行する時期、55~60歳は中年の最盛期とされています。
中年の最盛期とは、中年期の生活構造を構築・充実させ、愛情や共感性など
がより分化したり、知恵や思慮分別に長けてきたりする時期です。
◉ 過渡期3(60~65歳)
中年期と老年期をつなぐ過渡期です。死の恐怖や役割の喪失、孤立化などの
課題を抱え、それらと折り合いをつけていくことになります。
◉ 老年期(60歳~)
老年期は、自らの死を受け入れながら、新しい生への希望を獲得する時期。
死への恐怖や役割喪失から抜け出せないままだと、孤立化が進みます。≫
―
▼ 過渡期2(40~45歳)が…<「らしさ(男らしさ、女らしさ」「愛着と分離」、
「若さと老い」「破壊と創造」>になる。この辺りで足元がフラツクと、
過渡期3(60~65歳)に大きな皺寄せがくる。経験者故に肌身に沁みる。私だけ
なく、誰も多かれ少なかれ経験をしてきたこと。 …それもこれも、後講釈。
虫として地面に這い蹲ってきた人生を空や、樹上からみる鳥瞰も、また面白い!
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5443,小学校担任の西澤先生への手紙
2016年02月09日(火)
小学校の担任だった先生から『自分史』が送られてきて、一ヶ月、何とか、
『自己を見つめる』渡邊二郎(著) と一緒に、礼状を送る段取りができた。
達筆な先生に、悪筆の手紙を出すのは気が重いため、何とか故障していた
プリンターを直し、パソコンで書き上げた。
職業軍人の父を持つ、戦中派の典型で、恐ろしい先生だった。
何度か頭を殴られたが、先生から殴られたのは、西澤先生を含め二人だけ。
去年9月に米寿をむかえ満87歳。奥さんに十数年前に先立たれ、現在は
私の自宅から10分ほどの川崎に一人住まいで、目の前の川崎小学校の
校長に息子様がなられており、やはり御近所に住まわれている。
長岡出身の父親は職業軍人で、昭和9年に姫路高等学校の教官になられ、
先生の幼少期の11年を、姫路で過ごす。姫路中学校、陸軍経理学校、
新潟師範学校を卒業、教師、校長を多く歴任の後、見附市の教育長に。
父親が、産業界に転進した関係で、請われて、産業界に転進し、その後、
再び、教師に舞い戻ったユニークの経歴を持つ。私の母校の阪之上小学校に
三度も勤められた。校長として幾つかの小学校の建物の建て替えに従事
してきたようだ。定年後は、見附市の教育長など歴任した。
半世紀以上たった現在、人生の卒論としての報告書を書いているような
気持ちである。 以下の文章と、随想日記の幾つかをコピーして同封する
予定だが、何か見透かされているようで、一人赤面している。
この卒論は、私にとって大事な通過儀礼になるが、毎日書き続けてきた、
この随想日記が少しは有効に働くことになる。読んでいて、合わせ鏡
として見えてくる卑小な自分が、そのまま、露呈した思いである。
――――
: 西澤正元先生へ
「出会いの軌跡」、シッカリと読みました。
教師人生と、校長人生、教育長人生の、長い道のりの軌跡が自然体で、
そのまま小説のように淡々と書かれており、人間・西澤正元先生の
世界が鮮明に現れでており、清清しい気持ちになりました。
親子鷹の御父様との道ずれも、そのまま、家系として息子様へ
受け継がれていく壮大な物語を読む思いです。
今回、同封した『自己を見つめる』は、5年前の会社整理のさい、
「節目を打つ」ため、足元が揺らがせないために読んだ本です。
ブログの読書感想として、何回に分けて書き込んだもので、当時の
私にとって、この本が気持ちのシェルターになっていました。
内容は、先生の御年からしたら物足りないかもしれませんが・・
これが当時の私の支え棒の内容と、軽く読んでもらえればと、
同封させてもらいました。
15年前から現在に至るまで、一日一文をブログに掲載しています。
レポート用紙1~2枚分位で、大体2~3時間かけています。
読み手は、家族、知人を中心に一日300人位で、時に千人だったり、
二百人を割ったりします。 これまで5400のテーマになっています。
休んだのが一回だけ。ツアーの参加の際は、ネットにアップした文章を
知人や息子に頼んで掲載しています。 内面生活の公開は気を強く保た
ないと、続けることは不可能のため、生活の張り合いになってます。
人生、老いて?こそ解ることが多いですね。それも、己の無能が・・
先生の言われた、「話すより書け!」が、私にとってのブログの掲載。
親しい人の何人かに向かい、話しかけるように書いてます。
私が面白いと思ったテーマを幾つか選んで、コピーしました。
暇のおりでも、読んでいただけたらと思っています。 御自愛のほど!
: 堀井八郎
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6540,読書日記 ~人生における読書の効能 ~3
2019年02月09日(土)
『本を読む人だけが手にするもの』藤原和博(著)
* 読書とは「他人の脳のかけら」を自らの脳につなげること
他人の脳のかけらをつなげることで、脳は拡張する。一人の人生では、
自分が見て経験するには限界がある。だから他人が獲得した脳のかけらを
自分の脳に沢山くっつけることが出来れば、より拡張することが出来る。
この随想日記は18年分、6500テーマがある。 それを毎日、年に一回、同月
同日分を読返すことで、新たな自分が過去の自分と対話する役割を果たしている。
この自己対話の積重ねが内面生活を充実させてくれる。 HP内検索の機能が、
過去に書いた文章を時系列に検索させてくれる。それは自分の脳を受容体だけで
なく能動的にする。脳の活性化である。過ぎ去った読書の記憶が、毎朝、よみ
帰ってくる不思議な感覚は何とも奇妙。この繰返しは、脳をつなげる感覚という
よりも、脳に溶かすという方が正しい。読書百遍から得る感覚が、これか。
とすると、ブログの継続は、些細な脳の拡張作業でもある。わざわざ、毎朝、
2~3時間もかけてする程でもないが、ただ無念無想に近づける瞑想代わりと
思えるためである。この時に、セレンディピティー(求めずして思わぬ発見を
する能力)が多々起こる。 瞑想に近い状態なればこそ生じるが、早朝に、この
拙い脳内で、奇妙な内的世界で生じる不思議な感覚。当日分の随想日記を書き
上げて、過去の同月同日分を見直した時、不思議なセレンディピティ―が
生じることが多々ある。 それも2~3年前の文章とすり合わせると… 第三者
なら、これを念頭に、いま書上げたテーマと内容を考えたと思われるが、そう
ではなく、思いもしない偶然の一致が、何かを示してくれる脳内作用である。
瞑想と酷似した状態の「18年効果」である。
さて、面白そうなので「ライブ」で、過去文の添付作業に入ってみる…
何が出てくるか?
――
追文: …2017年分である。理屈づけになるが。かくも私たちは「頭が悪い」。
だから、たった、この程度の文章を,小学生のように、何度も何度も書換え、
書き加え完成させている。そのエネルギーを知っているから、誤字、当て字を
見出しても、諦めもつくもの。 かくも、こんなに頭が悪いのである。
☆ ところで、さっきから、カタカタカタという小さな音が、窓の外から聞えて
きた。ところが次に背後の廊下辺りに移動して聞こえる。 そして次は再び、
窓の外から… 何だ、これは? 事実である。よりによって、これをライブで
書いている時に… 20年以上、無かったことだが。こういうことが、あるんだ!
そう思いだした。一月前辺りから、奇妙な音が寝室の周囲から聞こえていた。
蝙蝠だろうと思っていた。いま聴こえたのは、それと少し違う? 如何だろう。
で、どうした? 「セレンディピティ―」を改めて堀下げろ!のサインである。
・・・・・・
5809,どうして私たちは、こんなに頭が悪いのか
2017年02月09日(木)
『困難な成熟』内田樹 著
* どうして私たちは、こんなに頭が悪いのか
人生を振返って、私は何故に、かくも頭が悪いのかと実感する。
そのことを知っているは、むしろ他者。しかし、その他者も、第三者から
見れば全く同じことがいえる。 現状とは過去の頭の悪さの集積の結果。
そう思うと諦めもつくが、問題は、その自覚を万人が持っているかというと、
そうではない。 だから他者の失敗をあげ諂い、「あの男、あまり頭が
良くない」と平気で宣う。 ~その辺りを抜粋~
・《 現代日本社会の制度的瑕疵のほとんどは「想像力がないので、
先のことは何も考えずに来た」ことの帰結だろうと僕は思います。…(略)
この社会に格差はあります。資源の分配についてのアンフェアはあります。
さまざまな理不尽がある。でも、それは誰かが自己利益のために工作してそう
なっているわけではない。それは無数の「頭の悪さ」の集積なのです。…(略)
むしろあまり深く考えなかったせいで起きたことが無数に集積して、
「こんな事態」になっている。僕はそう思います。》(179~183p)
さらに、
・《自分が選択したこと、自分がやっていること、自分が考えていることの適切
さについて第三者的、価値中立的な視点から吟味できないことを僕たちは
「頭が悪い」と言います。そして、第三者的、価値中立的な視点から自分自身
の推論や判断を吟味するというのは、言い換えると「自分の頭の悪さを点検する」
ということなのです。…(略)》(184p)
《「あ、オレ間違ったわ」とすぐにフィードバック」しなさいということ…(略)
「自分は頭が悪いんじゃないか?」という疑問に捉えられて、…(略)
常日頃から考える習慣をつけていると、「大きな間違い」を犯すリスクが
軽減される。それだけのことです。》(185ページ)
――
▼ 私たちの頭の悪さを、想像力の無さが起因すると著者はいう。意外と、
この事実を多くの人は理解してない。小説を読むことは、文字を通して作者の
物語の世界を想像すること。本を読むことは、想像力を培うため、必要になる。
ここで、〖20世紀、アジアアフリカで、欧米の帝国主義諸国を武力で放逐して独立
を勝ち取った革命政権のうち、奪還した資源を公平に分配することに成功したもの
は殆どいなかった。さらに植民地官僚より激しい収奪と独占を許した。』という
厳正な事実がある。20世紀の大殺戮が21世紀に繰返される可能性が無いものと、
思いこんでいるが、これもイメージ不足。人間は虚空の中の、小さな小さなチリ
の存在でしかないを頭では知っている。しかし、そのイメージが出来ないその
ことが人生を貧弱にしている。 それが、<どうして私たちは、こんなに頭が
悪いのか>の答。あの大統領が、その全てを表出している。無知は罪である。
それも重罪である。そして、自然によって間接拷問の後に、死刑に処せられる。
その前に、治療いう名目の毒薬を長年かけ盛られ、薬漬けされたのも知らず…
・・・・・・
6176,閑話小題 ~雪道トラブル
2018年02月09日(金)
* まさかの雪道トラブル
スポーツジムの帰りすがらスーパーに寄って酒とツマミを買って、大通りを
駅方面に走らせて、セブンイレブンのある小さな道路に右折しかけたところ、
中央に出来た雪壁に車輪が入り込み、空回りのカメさん状態になってしまった。
車にシャベルがあるでなし、さて如何いうものかと茫然としていると、10m先で
女子高生が、私の様子を立ち止まって見ていた。カード会社の車両事故トラブル・
サービスセンターへの電話と思ったが、携帯電話は不所持。そこで、その人に
声を掛けて、カードにある番号に電話をして貰った。
問題は、片側3車線の大道路での16時頃。二つある高校の帰宅時間。
サービス・センターによると、雪道トラブルは実費で数万はかかり、その場の、
実費払という。(帰ってから家内から聞いたが、ゴールドカードは無料と知った)
が、それが幸いした。ならば、通行人から助けを呼ぶ覚悟が出来た。 ます、
その女子校生に礼を言い、帰って貰い、後は出たとこ勝負。その直後、二人
連れの若い女性が声を掛けてきて、「高校生の帰宅時間だから、とにかく声を
かけなさいよ」と教えてくれた。 至近距離にある高校の教師のような?
そこで直、通りすがりの男子高生の声をかけて、二人の女性と後方から押して
くれたが、ビクともしない。やおら高校生が仲間を連れてくると、その場に鞄を
おいて長岡高校の方に走っていった。もう少しで車の渋滞だったが、バス一台が
通れる位置が良かった悪かったか? 渋滞なら直に運転手数人が押してくれた筈。
そうこうしている内に、7~8人の野球部の部員と顧問の先生らしき人を連れて
戻ってきて、その人の指示で除雪をして、総出でバックギアで脱出し、無事、
車が出発したが、一時、車を止めていたため、渋滞になっていて停車が出来ずに、
大声で運転席から礼を言っただけで、そのまま帰ってきた。今日の午前中に
御礼にいくつもりだが… ダンプの運転手が、縄で引っ張ろうとしてくれたり、
次々と声をかけてくれたり。成るほど、これが仏心というものかと…
雪道の中、スポーツジムに来る人が激減するはずだ。雪国の人は、雪道の
恐ろしさを長年の経験から知り尽くしている。 このような大道の真中での
トラブル、初めての経験だったが、動揺している私の姿。よほど気の毒そう
だったようだ。実際のところ、そうだった。北陸の大雪の困難民に自分が
なろうとは! 人生、教えられることが、まだまだ多くある。 特に私は!
・・・・・・
3972, 閑話小題
2012年02月09日(木)
* 大地震が夜半に起きないのは何故
関東大震災、神戸淡路大震災、中越地震、柏崎刈羽地震、この東北大震災、
そして海外ではスマトラ沖大地震、四川大地震、ペルー地震と、小さいのは
別として、最近の大地震は何故か殆どが日が明るいうちに起こっている。
太陽系の引力にも関係しているのだろうか?もし東北大震災が夜半だったら、
数倍の死者が出ていたはず。日の入りの時間は約半分として、上記の最近の
地震全てが日が明るいうち、というのも偶然にしては?台風も、不思議に
週末に集中する。
* 単身女性の3割がワーキングプアー?
先日、TVで単身女性の3割がワーキングプアーと報じていた。
個々人の事例を紹介していたが、男性のような暗さがない。その生活も決して
不満でなく、それなりに満足している? 心のどこかに「白馬の騎士が迎えに
来てくれるかも?」の願望があるのだろうか? 女が一人で生きていくのは
甘くないが、今さら元に戻れない。まだ社会に余裕があるから明るくいられる?
時代が、さらに厳しくなった時に、その明るさはなくなる。母子家庭の過半数
以上がワーキングプアーというが、単身女性も加え、女性の時代という掛け声と
現実の違いはあまりに大きい。 国民の平均所得の半額以下の収入の人をプアー
というが、その規定を見直すことも必要の時期にきている。
プアーの言葉が世に出てきたため、意識をするようになっただけか?
右上がりの時代から右下がりの時代の対比からみて、明らかにプアーの時代
になったことは確かである。この言葉の規定からすると、国民年金生活者は
全員プアーになってしまう。プアーだが、情報だけはリッチの時代。