2004年02月18日(水)
1050, 客観性ってのは何?

金沢にいた頃(25歳の頃)の話になるが、「客観的に」という言葉を、よく使っていたところ
「客観的というが、客観的と勝手に思っているお前の主観ではないか?俺は客観という言葉が嫌いだ」と言われて、
ドキリとした思い出がある。親しかった金沢大学を出たばかりの寡黙の哲学的な男であったから、なお答えに窮した。
それから客観的という言葉を控えるようになった。「事実」は「客観的事実」と「自己ー主観」にわけることができる?が、
その「客観的事実」も突きつめれば、あくまでも「主観」でしかない。主観と客観の違いは、あくまでも情報量の
比較の世界でしかない。または自分を隠す手法になるケースが多い。(多いほど客観的といっているにすぎない)
真理を追究する科学者は、その目指すところは「客観的事実である」それも、次の真理へのステップでしかない。

この随想日記も、「自己の主観」を第三者の目に曝けだして客観性を鍛えていることになるが。
今まで書いてきた文章を読みかえして、支離滅裂の内容は自分自身でも妥協できないものだ。
「自己主張ー主観」が客観的?に充分耐えられことがまず重要になる。その意味で、常に内省を繰りかえさなくてはならない。
文章化は自己客観化への一歩といってよい。テーマの内容を起承転結の筋道をつけることは脳の機能を有効に使うことになる。
「万物の霊長類である人間の最大の特質は言葉を持った」ことである。
この随想日記を書くようになって、自分の考えをより客観視出来るようになった。
それも55歳過ぎてからのこの三年間である。書き手としての視点を外と内に向けざるを得なくなったからだ。
随想日記というからには「起承転結]をハッキリさせなくてはならない。これが思考能力を飛躍的に伸ばしてくれている。
特にインターネットの検索が使えることが最大の武器になった。テーマさえ決まれば情報はいくらでも取れる。
今まで、社内報の原稿や手紙を書くときは、メモ用紙に下書きして、書き足しや書き直しをした後に、清書をしていた。
ところが現在はパソコンに思いついたことを随時書いた後に文章化と添削をするようになった。これで書く量が飛躍的に増えた。 
またパソコンを開けば、そこが書斎になってしまうことで、隙間時間に気楽に書き込めるようになった。

文章が(紙という物質を媒体をしていたものが)パソコンの画面という非物質の媒体になってしまった。
気楽に他の文章をコピーをして貼り付けて加工さえ可能になった。紙から開放されたのだ。これは書き手にとって
革命的な大事件である。文章化が客観性への第一歩なら、ここで飛躍的に変化したことになる。
紙に書くこととワープロでは、自転車と飛行機の差以上であろう。
だから毎日こういう随想日記も書けるのだ。ここにきて当初の五分の一のエネルギーで済むようになった。
本を出すことを考えている訳でもないし、興味本位で書いているだけでもない。
自転車から飛行機に乗りかえて、今までとは違った視野ができたことの自由さと
一日単位の達成感が味わえるから書いているのだ。自己慰安が最大の動機かもしれないが。

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