2006年10月13日(金)
2019, 「私」のための現代思想  −11
    (。^0^。)ノ オッ (*^○^*)ノ ハ〜 ヨウ

我われは顔を露出することによって呼びかけている。多くの場合、「顔」を合わせることが「呼びかけ」になる。
「呼びかけ」は、常に同時に発生するが「先に呼びかけられた」と感じる奇妙な性質を人は持っている。
「自分の居場所がない」ということに人は非常に敏感である。居場所は、他者の存在によって支えられている。
《私》を支えているのが<他者>だから、<他者>が存在しなくなれば、《私》の存在そのものも危うくなります。
    <他者>の「呼びかけ」に応答し、その存在を望むことが、すなわち「<他者>をもてなす」ということです。
    そしてこの他者をもてなすことが、すなわち「《私》の居場所をつくる」ということであり、それは《私》の
    存在を確かなものにする」ということ、そのものです。それがお互いにとって「ともに生きる」ということです。
ーー
第四章「私」にとって「他者」とは何か  −?
    =「ともに生きる」ということ=
 −なぜ人は顔を露出するのかー
<他者>が《私》に呼びかけるということは、音声による呼びかけだけを指しているだけではありません。
実は、私たちは顔を露出することによって呼びかけています。「呼びかけ」は一方からのみ行うものではありません。
つまり、<他者>が《私》に呼びかけるということは、《私》が<他者>に対して「呼びかけ」を行ったことの帰結です。
そして多くの場合「顔」によって行われます。ここでいう「呼びかけ」は、常に同時に発生し、両者とも常に
「先に呼びかけられた」と感じる奇妙な性質を持っています。 このような現象を、私たちが「顔を露出し、
顔によって呼びかけている」ことによって発生します。人は常に「存在している」ことを前提として生きています。
「ともに生きる」こと、そして「呼びかけ」「呼びかけられる」ことを前提として、人は顔を露出しているのです。

 ーゴフマンの「共在」−
アメリカのゴフマンは「共在」という概念をもとに、「よびかけ」「よびかけられる」何らかの状態で存在しています。
それぞれが、その場で「役割」を振り当てられ人間関係が発生する。その場の雰囲気によって次第に関係が固定化していきます。
そのような状況のことを、ゴフマンは「相互関係秩序」と呼んだ。
その中で、「自分が正しい居場所にいない」ということに、非常に敏感になり、信じられないほどの鋭い嗅覚を発揮します。

    人は、常に「先に呼びかけられた」と感じる存在です。
   <他者>からの「呼びかけ」に対する「応答」は、「個別の正しさ」に照らし合わせるしかほかありません。
    その場合、「個別の正しさ」とは、それまで「私」が追及してきた「論理的正しさ」のことです。
    この世界が進む方向は、「論理的正しさ」の合計によって決定されます。     それぞれの「私」が、
    その場所の「個別の正しさ」を追求していくなら、世界は「ベストの方向」へ変化していくはずです。

ー自分の「居場所」が無いことの意味ー

私たちは「共在の場」には入り、その場での「相互関係秩序」を意識し、それを変化したり、維持したりするという仕事を
行っていく必要があります。<世界>の成り立ちや秩序は、私たちを束縛し、苦しめることになるが、その逆に、私たちが
よりよく生きるために必要なものとして存在します。この秩序をつくり上げているのは、他でもない私たち自身である。
多くの場合、「自分の居場所がない」ということは、「相互関係秩序」の中で自分が構築してきた「場所」が、
本来自分の希望した場所ではないということを意味しています。

   私たちは<他者>が存在することを望みます。《私》を支えているのが<他者>なのだから、その存在を望むのは当然です。
   <他者>が存在しなくなれば,《私》の存在そのものも危うくなります。
   <他者>の「呼びかけ」に応答し、その存在を望むことが、すなわち「<他者>をもてなす」ということです。
   そしてこの他者をもてなすことが、すなわち「《私》の居場所をつくる」ということであり、
    それは《私》の存在を確かなものにする」ということそのものです。

私たちが居場所を生み出すためには、<他者>に呼びかけこと、他者の呼びかけに応答すること、他者をもてなすことをとおして、
自分の居場所を生み出すことそのものが、社会という「制度」を変えることになるのです。

    私たちは、居場所をつくるのに困難を感じたとき、もしくは正しい居場所に存在してないと感じたとき、
    闘わなくてはなりません。これは<他者>との関係の問題であり、また、すでに存在している紐帯の問題であって、
    「私」の内部だけで処理できる問題ではありません。
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 人間は、人の間の居場所で《私》になる。そのために「<他者>をもてなす」ことが、いかに大事かということを知らなくては。
               (*^▽^)/ ホンジャ!
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