* 国宝指定は、不利!
 家宝などが国宝に指定されると殆どが不利という。お寺などは客寄せになるが、売買は規制されるし、
大した保管料でもないのに盗難や火災などから厳重に保管しなくてはならない。そのため、よいものほど
指定前に深くもぐってしまい表には出てこない。 相続税も、税務署に把握されているので節税しにくい。
もし美術館が買いにくれば、予算が少ないため大きく買い叩かれる。 
 高校生の頃、柏崎の由緒ある旧家の「蔵出し」に父親に連れられていったことがある。
蔵出しとは、旧家が金繰りのため蔵の骨董品を放出すること。10人位の骨董商が、蔵の中で、その家の
代々続いた骨董品をセリで落としていく。父も何点か買求めたが、シリアスな空気に驚かされた。
骨董品の立場から見れば、蔵から蔵への住処の移動。それが、部屋に飾られ日の目を見ることは少ない。
だから、美術館で展示されることが、美術品にとって、作者にとっても良いことになる。
保有欲、購買欲は人間の性が分かるが、そのエネルギーを美術館まわりに向ければ良いと思うのだが・・
 ところで、別番組に、骨董品の競売そのものを、面白おかしくショー化した番組が、出来てよいのでは?
あくまで、バラエティーの範疇だが、やはり企画が難しい? それぞれの価値観があるのだろう。
 先日も、世界のお宝を見てきたが、その素晴らしさは当然のこと。 
ところで、「秘境ツアー」は、「世界の大自然観光お宝鑑定団」の一時参加ツアーということになる。
 その付録の各国を代表する美術館の国宝クラスのお宝が、どれもこれも感動もの。
特に、ロンドン、パリ、マドリッドの美術館は、往年、世界各国から奪略してきたお宝の宝庫である。
最近、見たのがパリの、ルーブル、オルセイ、オランジュリーなどの美術館。
 これらを決して、欲しいとは思わない。そこに見れば充分である。
所有さえ放棄してしまえば、素晴らしいことに、その数十倍、数百倍、多くの満足を得ることができる。
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4593, そして、人生はつづく ー4
2013年10月13日(日)
   * 生き直すために!
 朝日新聞のオピニオン「耕論」の『生き直すために』小田嶋隆 ーのコラムが面白い! 
先回の「そして、人生はつづく」は、「生き直し」でもある。この年齢になると、一年ごとが生き直しの日々。
筆者は、生き直しは、「やめる」ことから始まるという。 やめることは捨てること。最近、断捨離という
言葉を聞くが、その捨てることが難しい。 捨てて捨てて捨て去ることは悲しく辛い。
が、それを前向きにすることで、辛さを軽減出来る。
  ーまず内容の前半の要約をすると・・
《 「人生やり直し」を二度経験している。1980年に大学を卒業して、新卒で入った会社を8ヶ月で辞めた。
 何をするわけでなく、ただ不愉快なことがあったから逃げただけ。当時、上場企業の正社員というコースから
一度外れると再チャレンジが難しく、3〜4年アルバイトをしていたが、バンド仲間の知人からパソコン入門
ライターを勧められ、パソコンバブルもあって、それが当たった。しかし30歳前後から、アル中になり、
酒浸り。酒が切れるとウツ状態になる。自殺をしないためにも酒を飲み続けた。
 それもあり、仕事が減った39歳の時に断酒をしたが、5日間、断酒をしたら、眠れず、幻聴まで出てきた。
そこで、心療内科に行くとアルコール依存症と診断され、「このままだと、40代で酒乱、50代で人格崩壊、60代で
アルコール性痴呆。もう一生飲まないしかない」と宣言された。それまで人と会うのも、音楽を聴くのも、野球を
見るのも、酒を飲みながら。医者に「酒をやめるということは、酒のない人生を新たにつくることだよ」と言われ、
慣れ親しんでいたことを次々やめた。断酒自助グループのアルコホーリクス・アノニマス(AA)で、「棚卸し」
というが、いわば人生のリセットをする。酒をやめてみると膨大の時間が余る。何をしていいのか分からない。
サッカー観戦だったり、自転車を乗り回したり、イグアナを飼ったりして時間を潰した。・・》 ーつづく  
▼ 何かを捨てるということは、「空即是色」の現象面の一つ。「空にしてこそ新たな色が現れてくる」。 
 筆者は、上場企業を8ヶ月で辞め、犬に例えると宅上犬から野良犬になった。そこで、彷徨い歩いているうち
アル中になり、39歳で断酒。そこで得たのは膨大の時間。自分の能力、弱さを認めることから出発しないと、
アル中から脱出できない。物書きと、創業を目指した私とは大きな違いがある。目標がハッキリすれば、
選択することが見えて、自然と、「やめる」ことが見えてくる。20歳の頃、創業を決心した時から、
私が捨てたのは「世間体」と世間の常識。そうとはいえ、本当に捨ててきたかというと、捨てきれる訳がない。
決断、決心をする時にまず意識してきた。これを捨てるには、まず全てを根こそぎ疑うこと。ここでは「やめる」
と言っているが、まず自分の常識を破壊する。人生にやり直しなど出来ようがない。天を信じて捨てるべき時に、
捨てるべきことを、捨てないと・・ 捨てることを決断することで、自ずと節目が出来る。
「脱皮できない蛇は死ぬ」 脱皮出来ないゾンビが街を徘徊している。
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4218, 神は妄想である ー1
2012年10月13日(土)
                         ー「神は妄想である」 リチャード・ドーキンズ著
 面白い本を図書館で見つけた。無神論の立場を知ることもあるが、「逆照射で宗教とは、神とは何か?」
を知るに最適である。欧米のように、生まれた時から一神教に染められ、神を信じない人間を否定する環境の中で
育ってない日本人は、神様目線が殆どない。殆んどは「神は妄想」と思っているし、神の話など家庭内では皆無。
しかし欧米では無神論者は同性愛と同様か変人扱いにされる。とはいえ、この情報化の中で、原理主義者などの
狂信者を知るにつけ、無神論者が増えてきている。
   まずは、ー背裏表紙の「内容の概要」ーより
≪人はなぜ神という、ありそうもないものを信じるのか? 物事は、宗教が絡むとフリーパスになることがまま
あるが、なぜ宗教だけが特別扱いをされるのか? 「私は無神論者である」と公言することがはばかられる、たとえば
現在のアメリカ社会のあり方は、おかしくはないのか… 『利己的な遺伝子』の著者で、科学啓蒙にも精力的に
携わっている著者は、かねてから宗教への違和感を公言していたが、9・11の「テロ」の悲劇をきっかけに、
このテーマについて1冊の本を書かずにはいられなくなった。「もう宗教はいいじゃないか」と。
著者は科学者の立場から、あくまで論理的に考察を重ねながら、神を信仰することについてあらゆる方向から鋭い
批判を加えていく。 宗教が社会へ及ぼす実害のあることを訴えるために。 神の存在という「仮説」を粉砕する
ために。―古くは創造論者、昨今ではインテリジェント・デザインを自称する、進化論を学校で教えることに
反対する聖書原理主義勢力の伸張など、非合理をよしとする風潮は根強い。あえて反迷信、反・非合理主義の
立場を貫き通す著者の、畳みかけるような舌鋒が冴える、発売されるや全米ベストセラーとなった超話題作。≫
▼ 無神論は、哲学者などが多く論じているが、『利己的遺伝子』で世界的ベストセラーとなったドーキンズ
 だから、なおのこと、注目された内容。 9・11テロに直面して、書かずにいられなかったという。神は妄想
という言葉に対し、知人から注意があったというが、敢えて、この言葉にしたという。 欧米社会では無神論
公然と語るのは、変人とみなされる。とはいえ、知識を持ってしまった人間は、心の奥底で何かすがる絶対的な
言葉を欲するもの。自然以外に、まず、それにアブラハムが気づき、「絶対神」を発明した。それが数千年を
経た現在まで続き、ユダヤ人にはユダヤ教、欧米人にはキリスト教、アラブ人にはイスラム教に分化していった。
人種に宗教が複雑に絡んでいるため、そこに当然、争いが生じるのは至極当然で、その対立は激しさを増している。
そこで、その神を無神論の立場で妄想と切り捨てる視点も、よく分かる。「裸の王様」に対し、思い切って誰かが、
「王様は裸だ」と大声でいうことも必要か。どう考えても、人間は、アフリカの猿が進化した生きもの。
動物どうし、猿どうしが、激しい生存競争の中で生き残った人間が、自然世界の時間をかけた
  進化などをさせてきた、自然法則を神として理屈づけたものと、思うのが大方の人。 ーつづく
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3853, シリアスでストイック
2011年10月13日(木)
 最近、目に付くのが「シリアス」と「ストイック」という言葉。
シリアスはコミックなどで度々、目にする。「リアルに近い意味」と捉えていたが、「本格的なさま、極めて深刻」
と辞書にある。コミックでは、「急に真面目になる」という意味。「真剣になる」というのが一般的である。
ストイックは、「禁欲的な」という意味で、「あの人はストイックだ」という場合は自分に厳しい人という意味。
「今回のヒロインはシリアスでストイックなキャラなので、アクションも静かな怒りを感じる」というと、
「ヒロインは極めて真剣で、自分に厳しいキャラなので・・・・」という意味になる。
プロの選手や兵士、そして原稿などの締め切りに追われている作家などは、シリアスで、ストイックの日々を過
ごしている事になる。漫画でいえば、「ゴルゴ13」の主人公が、シリアスでストイックなキャラになる。
そうすると現在の私は、「この変わり目の時節は、シリアスの日々をストイックに過ごさなければならない」。
まさに毎日の生活習慣は、この言葉どおりである。いや、「ファニー」の一日かもしれない。
その対義語ではないが、正反対のキャラのニュアンスが、「ファニー」である。「おかしな。奇妙な。一風
変わった。」という意味。お笑いタレント、デブタレントが、これに当たる。サンマ、タモリなどが、このキャラ。
 その目線で人を見ると、また違って見えてくる。すると、私はシリアスでストイックというより、ファニーの
日々を過ごしている? 誰もが、少し視線を変えれば、違って見えて当然だが。人生を振り返ると、この3つが
混在している。 私の場合、「リアル」で、かつ「コミック」も加わる。 まともに生きればシリアスで、
ストイックで、リアルで、コミックの人生になる? 問題は品性か? 品性というと、シリアス、
ストイックには品性が含まれていなくては、とすると?・・・ 絶句。 誰かはファニーで、コミックだけ?
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3488, インコのクシャミ
2010年10月13日(水)
 ペットのコガネインコが先週末の土曜日に変になってしまった。身体全体の毛が逆立ち丸くなり、目がうつろ、
エサを食べようとしない。籠の出入り口を開けると出てきて、頭と喉を撫ぜてもらうのが習慣になっている。
しかし、そこすら来ないでエサ台の上の止まり場でジッとしている。呼びかけても反応がなく、目すら開けれない
状態で寝入ってしまう。そして無呼吸状態になり、ハッとして腹式呼吸
 母が亡くなる直前も、そうだった。これが危篤状態なら死に目に立ち会ってやろと、付きっ切りで椅子に座り、
みていた。時どき寝入って後ろに転げ落ちそうになるが、片方の足が籠の網を握っているので、辛うじて立ち位置を
保っていた。そこで気づいたのがインコの小さなクシャミ。 小さくクショッと人間のようにするのである。
そこで、これは季節の変わり目の温度差で風邪をひき、熱が出て?変になっていたのに気づいたわけ。インコも
風邪をひき、クシャミまでするとは思ってもなかった。毛を逆立て目も開けることもできず、蹲っているのをみて、
何だろうと思い、8〜9分は死ぬと思い込んだが。 寝入って呼吸もままならぬ状態の後に深呼吸する状態は
人間の危篤時と同じ。インコは、鳴き声と全身で自分の気持ちを伝えようとする。その辺が何とも愛らしいく、
今回も全身で体調の不調が露出する。クシャミをし、全身の毛が逆立ち、目が虚ろになり、ダルサ眠さなどが露出し、
そのまま伝わってくる。ペットの鳥でも、何ともやりきれなくなる。「あんたは人間、自分はインコをしている」が、
そのまま全身から伝わってくる。全身で苦しみ、全身で喜びを表現している姿に、無心に生きる魂が伝わってくる。
考えてみれば動物は「ありのまま」で生きている。だから、ペットとして人間に好かれるのである。 
衰弱し、片足を籠の網にかけ下を向いている写真は、心を奪われる。

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3113,イチロウの言葉
2009年10月13日(火)
 以前もイチロウの言葉について書いたことがあった。その後も、これだけの記録を打ち立て続けている。
  それに対して的確な自己分析を理路整然と話せるのスポーツ選手も珍しい。
(以下、字数の関係上カット、 12年10月13日)
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 2748,  ソロスは警告する −1
2008年10月13日(月)
 「ソロスは警告する」 ジョージ・ソロス著  講談社     ー読書日記ー
 まずは、この本の背裏のジョージ・ソロスの紹介文からして面白い!
生き馬の目を抜く世界でトップのクラスの利益を出しているのだから、余程の知識と哲学がなければ勝ち抜けない。 
10年前から哲学に興味を持って継続して学んできたが? つくづく今まで何をしてきたか考えさせられる。
 (以下、字数の関係上カット、 12年10月13日)
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2007年10月13日(土)
 2384, こころの旅  −1  
 「こころの旅」神谷 美恵子 (著)
藤原治著の「人は60歳で何をしたか」に紹介してあった本である。 さっそくアマゾンで取り寄せ、読んでみて、
もっと早い時期に読んでおきたかったと思わせる本であった。 最近に、こういう本に出会うことが多くなった。
一冊の本に魂を入れることが出来るのである。本とは本来そういうものだろう。 それとも自身が著者の魂を
感じることが出来るようになったのだろうか。人生の旅路には、常に越えなければならないいくつもの峠がある。
(以下、字数の関係上カット、 09年10月13日)
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2006年10月13日(金)
2019, 「私」のための現代思想  −11
      (。^0^。)ノ オッ (*^○^*)ノ ハ〜 ヨウ
我われは顔を露出することによって呼びかけている。多くの場合、「顔」を合わせることが「呼びかけ」になる。
「呼びかけ」は、常に同時に発生するが「先に呼びかけられた」と感じる奇妙な性質を人は持っている。
「自分の居場所がない」ということに人は非常に敏感である。居場所は、他者の存在によって支えられている。
《私》を支えているのが<他者>だから、<他者>が存在しなくなれば、《私》の存在そのものも危うくなります。
  <他者>の「呼びかけ」に応答し、その存在を望むことが、すなわち「<他者>をもてなす」ということです。
 そしてこの他者をもてなすことが、すなわち「《私》の居場所をつくる」ということであり、それは《私》の
 存在を確かなものにする」ということ、そのものです。それがお互いにとって「ともに生きる」ということです。
第四章「私」にとって「他者」とは何か  −?
  =「ともに生きる」ということ=
 −なぜ人は顔を露出するのかー
<他者>が《私》に呼びかけるということは、音声による呼びかけだけを指しているだけではありません。
実は、私たちは顔を露出することによって呼びかけています。「呼びかけ」は一方からのみ行うものではありません。
つまり、<他者>が《私》に呼びかけるということは、《私》が<他者>に対して「呼びかけ」を行ったことの帰結です。
そして多くの場合「顔」によって行われます。ここでいう「呼びかけ」は、常に同時に発生し、両者とも常に
「先に呼びかけられた」と感じる奇妙な性質を持っています。 このような現象を、私たちが「顔を露出し、
顔によって呼びかけている」ことによって発生します。人は常に「存在している」ことを前提として生きています。
「ともに生きる」こと、そして「呼びかけ」「呼びかけられる」ことを前提として、人は顔を露出しているのです。
(字数の関係上カット2008ねん10月13日) 
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2005年10月13日(木)
1654, 北イタリア旅行記−5 
 ーチンクエテッレー
この意味は、「5つの島」という。海岸線に突き出た小さな島が5つあり、その小高いところに張り付くように
家が建てられており、その家々にカラフルな色が塗ってある。漁民が船で帰ってきた時に、自分の家を識別できるように
好みの色を塗りつけてあり、それが何ともいえない風情がある。 その岩場に細い散歩道が百数十キロ続いていて、
ウォーキングができるようになっている。 その近くを、やはり列車が通っていて5つの村に駅がある。
(字数の関係上カット2008ねん10月13日)