2007年08月25日(土)
2335, どうせ死んでしまう         ノヽ∋―_φ(≧ω≦*)♪
  「狂人三歩手前」ー中島義道著 −1
    ーどうせ死んでしまうー

この本は月刊誌「新潮45」の連載で、時々、このコーナーを図書館で読んでいた。
その連載をまとめたのが、この本である。本の題名が「狂人三歩手前」というのが良い。
この本の冒頭からして、 ーどうせ死んでしまうーである。
いずれプッツンするのは解っているが、生きているうちは、
せめて「いま・ここ」に集中して面白おかしく生きたいと思っているが・・・。
{いずれ死ぬのなら、何で「いま・ここ」に集中して生きる必要などあろうか?}
という投げかけの言葉も道理である! 生死の問いかけになる。
「死んでしまえば、それまでよ!」も、生き残った此岸から彼岸へいった死体に対する、
思い込みでしかない。まあ、哲学は哲学でも、この人はあまりに嫌世過ぎる。
でも、甘ったるい人生論より余程面白いし、考えさせられる。
心の奥に、「所詮は死んでしまう!ケセラセラ」という、中空を持っていないと、現実に振り回されてしまう。
「飯喰って、糞して、死ぬだけ、人生は!・・所詮死ぬのだから」
 
ーP・11
生きていく理由はないと思う。いかに懸命に生きても、いずれ死んでしまうのだから。
他人のために尽くしても、その人も死んでしまうのだから。日本のため、世界のため、
地球のために尽力しても、やがて入類も地球もなくなるのに、なぜ「いま」
生きなければならないのか。なぜ「いま」死んではならないのか。
私にはどうしてもわからない。私が死ぬと周りの人々が悲しむから?でも、
それも相対的なものである。そういう人々もまたじきに死んでゆくのだ。
そして、この理屈は、誰も私の死を悲しまないとき、私は死んでもかまわないという結論を導く。

強制収容所から必死の思いで生還しても、どうせ死ぬのだ。
広島で被爆しながら生きながらえても、どうせ死ぬのだ。テロリストを撲滅しても、
どうせ死ぬのだ。構造改革を断行しても、どうせ死ぬのだ。ひきこもりから抜け出しても、
どうせ死ぬのだ。自殺を思いとどまっても、どうせ死ぬのだ。
六歳のころ、私は自分がやがて死んでしまうことをフッと身体の底から直観して
大ショックを受け・しばらく精神状態がおかしくなった。あれから、もう五十年近く
「大変なことだ、大変なことだ……」と岐きつつ暮らしている。
瞬間的に自分をごまかしても、「どうせ死んでしまう」という声が、
どこからともなく聞こえてくる。私がもうじき死ぬこと、すべての人もやがて死ぬこと、
そして数十億年後宇宙が終焉すること、これらのことを数に入れずには、どうしても私には「いまここ」
の現実が見えてこない。こうした背筋が寒くなるような未来を数に入れてはじめて、
すぺての問題は私にとって「現実的な問題」になるのである。

・・・成熟するとは「どうせ死んでしまうのに、なぜ生きるのか」という
問いを忘れることであるのに、50代の半ばにして、この問いにからめとられている。
同年代の人たちは、さしあたり「絶対消滅」を忘れて(忘れたふりをして)
眼の前の仕事に携わっている。このたしなみが心底嫌になってきた。

ーーー
解) まあ、そういうこと! そこから出発をしないと、人間をやっていて面白くはない!
と言って、逃れることの出来ない事実の前で、それに囚われるのも癪である!
せめて束の間の一時を馬鹿踊りをするのも良いかどうかは、その人の性格による。
鹿踊りが嫌なら、地球という稀有な存在の大気圏の中を、しっかり見るのも良い。
絶対的消滅?そりゃ、消滅したヤツのこと、消滅してない限り消滅など関係ございません!
と、絶対的存在の束の間を味あえば良い! ゴチャゴチャいおうが、楽しみつくそうが、
泣いて喚こうが、絶対的消滅の前では同じこと。 いずれ、どうせ消滅するのだから。
輪廻の思想は、その点では巧く不安心理を緩和する。逆に、そんなものに囚われてしまって何しているの?
所詮は洗脳された羊じゃないかい?と、こっけいでもある。結局は、哲学では死の不安は解消出来ないということか?
それとも、神様に頼るしかないか? それとも、自分が神になるか。 神は、この宇宙の外の存在だから矛盾するか? 

                 ☆―サラバ(o´c_`o) ジャ!
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