つれづれに

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 今日のYoutube
http://www.youtube.com/watch?v=CwQFFAj-zHY

 静かな、しかし重苦しいのが世情であり、私の気分である。
決して東北地震原発事故が終息したのではなく、まだまだ延長上にある。
静かに、来るだろうクラッシュに身構え、息を飲んでいる。 が反面、何も身辺に
起こってはいないではないかという、気の緩みも出ている。 北アフリカから
起こった騒動も、一息ついているが、次は何処か、予測がつかないのが、情報の世界。
 アメリカか、はたまた、中国か、北アフリカか。ギリシャのデモも、EC各国の
国民も複雑な視線でみている。目先を引き伸ばしているだけで、結局は、排除され、
貧乏国になっていくしかない。 これは、日本も同じで、アメリカによって、間接的に
奇妙な国家になってしまった。 しかし、その自己修正力も無くして漂っているだけ。
近々、そのクラッシュが起こるだろうが、結局は弱者のほうに皺寄せがくることになる。

 ・・・・
 
2006年10月21日(土)
2027, 「私」のための現代思想  -14
        おはよ~!(*^ワ^*)i(~O~)ふぁ・・
 ーこの章の一番のポイントは次の部分であるー
ある個人の「死」とは、<身体>に属する要素が存在しなくなることを指す。死によって、<身体>が消滅し、
<身体>の属している「声」も消失します。それでも<私>を構成する要素である「超越確実言明」は消滅しません。
また構築されていた《私》も消滅しません。
    ーー    
 何度も何度も、この部分を考えてみた。納得できるような、釈然としないような深い内容である。
《私》が死なないのは、ソクラテスの《私》がプラトンによって記録されて、永遠に生きていることをみても解ることだ。
《私》は消滅しないということが哲学的にみて正しいとすれば「いま生きている瞬間」を全てを丁寧に、そして
人生そのものを、あらためて考え直さなければならない。 {<私>と《私》は消滅しない}という言葉を「超越確実言明」
としていれば、過去の人生は変わっていた!「死んでしまえば、それまでよ!」を{超越確実言明」としてきたが、
そうではないということだ。 ブログなどで自分を語り、公開する時代なら尚のこと顕わになる。
その意味で、この本は難しい内容だが、根本から人生観を考えさせられる。「私」のことだから、根本問題である。
<身体>が消滅しても、<私>と《私》は消滅しないというカルトみたいなことが論理的にもいえるとは・・・
もう一度、本当に納得できるものか振り返ってみたが、矛盾は無い。 <身体>も<私>も《私》を大事にしなくては!
ーー
第五章 「私」が「生きる/死ぬ」ということの意味 -?
   ー 正しく死ぬ・正しく生きる ー
  *<私>は「死」によっては消滅しない*
「《私》は、<他者>によって引き受けられている」<身体>が消滅しても、<私>は存在しつづける。
決してカルトではない。ある個人の「死」とは、<身体>に属する要素が存在しなくなることを指す。 
死によって、<身体>が消滅し、<身体>の属している「声」も消失します。しかしそれでも、<私>を構成する
要素である「超越確実言明」は消滅しません。また、構築されていた《私》も消滅しません。
さらには、<声>によって共振することはできないものの、<他者>も消滅しません。
 <身体>が無くなり、「声」への応答がなくなったことによって、<他者>は直接的に「糧」を得ようと
《私》や<私>に接近し、それによって、<他者>が共振を受け取ることができます。
一方、死によって発生するのは、「もはや『糧』を得ることのできない私」であり、「受益を放棄した私」です。
死んだ後に残るのは「<他者>によって引き受けることのない生」としての《私》と「超越確実言明」の束としての<私>。
  *「死ねば楽になる」は正しいのか?*
「死ねば楽になる」は、「死ぬ」->「辛さから逃れる」と変換できる。そこでの「辛さ」とは、束縛から逃れられない
ときに<私>が発生する信号である。それは「私」が「逃れる物語」を遂行中であり、かつ、そこにおいて
「自由が失われている」ことを指している。「辛さ」とは、<私>において発生し、<私>に含まれる概念である
ということです。したがって、まず「どの物語が『辛さ』を発生させているのか」を考えるのが、論理的な思考であるはず。
それがわかれば、それを放棄すればよいだけですが『生きること自体が辛い』という場合は、自ら死を選ぶことに
なっていまいます。[<身体>の消滅]->[辛さから逃れる]は正しくありません。なぜなら、[辛さ]とは<身体>に
属する概念ではないからだ。但し、[<身体>の消滅]→[痛みから逃れる] は、可能です。 
痛みは身体が発している信号なので、<身体>が消滅することによって発生しなくなります。
[<私>の消滅]->[辛さから逃れる]という図式を考えなくてはなりません。
これが[死ねば楽になる]という表現の意味です。 末期ガンの患者が望むそれ?
 <私>の思考は、すべて「超越確実言明」という基盤を支えとして、その上に構築されています。
そして「超越確実言明の束」とは<私>そのものです。それに、論理は自己言及できないということを考え合わせると、
 <私>という基盤の上に構築された論理が、<私>を否定するという構造は、矛盾していることになる。そして、
その結果として「<私>の否定」を意味する「死ねば楽になる」という考えは誤りであり、成立しないことがわかります。
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 以上だが、死ねば楽になるのは、身体の苦痛とそれに伴う絶望だけ。 精神の歪みが「死ねば楽になる」と妄想させる。 
それでも、死にたくなるのは解るけど! だから、死後に天国のイメージを作りあげたのだろうが・・  
その一つが音楽、そして絵画であろう。毎晩、クラシックを聞きながら「ア~よい一日だった!」と思いながら
寝入っているが・・それでも夜半にマイナスの気持ちが襲ってくる。 それが人間じゃない?
死ぬしかない時、「死ねば楽になる」と思えたら実際のところよいが、理屈は違うのです・・ まあまあ!
 Good.*^ヾ('c_'ヽ,,)*.bye