2006年11月11日(土)
2048, あたりまえなことばかり −4
     b(^o^)dおっ W(^O^)Wはー♪
                      ー 読書日記
「生死を問う?ー何のためにいきるのか」は哲学上の大テーマである。
このコーナーでも何回も取りあげてきたが、私が一番好きなのは、フランクルである。
「人生に何を求めるか?ではなく、人生が何を私に求めているか?を問うてみよ」である。
 せっかく地球に生まれたからには「良く遊び、良く学び、そして良く働くこと」シンプルに言えば、これに尽きる。
 彼女ー池田晶子の生死については解ったような解らないような・・
 さわりの部分にこうある、「生死に対する、これはという答えなどないが、人は言語を所有するために、
 存在するしかない存在についての意味や目的を問うてしまう。言語のせいです。動物は言語を所有していないので、
 ただ生まれたから生きている。言語を持ってしまったから、問えない問いを問う不幸、十全には生きられない。
 問いを持ってしまったのだから、問うしかないから、問わざるをえない。『何のために生きるのか』」
 生を考えるとき、その対極にある『死』を知らなくてはならない。 しかし、死など解るはずがない。
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「あたりまえなことばかり」
? 生きているとはどういうことか −?

「なぜ生きるのか」と問うても、「生きていることはどういうことか」とは、
人はあまり問わない。意味、目的を問う前に、まずは生きているとはどういうことか知りたい。
このことを知った上で、そこから初めて生存の意味や目的を問うべきである。

    生存を知る前に、死を知っていなくてはならないが、死とは生きていることじゃない!
    と答えるしかない。死を知らないくせに、そのくせ知ったつもりでいる。
    普通、死は恐い、恐怖、不安であり、いずれは死ぬという前提で人生を送っている。
    他人の死ぬのをみて自分に当てはめて類推しているに過ぎない。自分が死ぬという経験は絶対にありえない。
    もう一つの勘違いは、死体を見て、それで死を見たと思うんですね。
    ここが大事なことですが、死体は死ではないことに気づくと色いろなことがわかってくる。
    死体は物質ですが、死そのものは物質ではない。それでは「死とは何か」の一般的な答えは、「無になる」ことです。
    そこで納得するが、ここも大事なところですが、無というものは無いから無なわけです。
    無は存在しない。存在しか存在しない。したがって、「死ぬことは無になること」という言い方によって、
    そこで言われている無というものは無い。すなわち死はない、ということになります。

にもかかわらず、なぜ無い死を在ると思って人は生きていくのか。 その視点を手に入れると、
死があると思って生きているこの世の光景が、可笑しく見えてくる。無いものを在ると思っているのですから。
思い込みですね。世の中のすべてが、錯覚の上で動いている、これは面白い。
ですから、死が存在しないと気がつきますと、「人生」という言葉の意味するところがまるっきし変わってくる。
やがて死ぬ、どうせ死ぬとは言えなくなる。なぜなら死は無いのだから、人生の意味はまるっきし変わってくる。
理屈はそうかもしれないが、でも毎日人は死ぬではないか、と反論するでしょう。
確かに毎日、人は死んでいきます。 でも、死ぬのは常に他人です。 だれも自分が死んだことは無い。
死は他人の死しか経験できない。 それが現実である。これに気づくと非常に不思議な気になる。

   生きる死ぬ、人は便宜的にそう言っているに過ぎないらしいと気づく。 つまり、動いているものを生と呼び、
   動かないものを死と名づけているに過ぎないと。 生き死には言語的な名づけ、つまり言葉に過ぎない。実体ではない。
   無としての死なんてこの世に何処にも存在していない。 一種のカラクリみたいなもの<存在のカラクリ>と私は呼んでいる。
   無は存在しないかぎり、すべては存在しているわけです。 存在しか存在できないという事実に気づくわけです。
   例えば論理的に死なないということに気がついたら、じゃあ死なない自分とは誰なのか。
   ふだん自分であると思っている、その自分は実は自分ではないんじゃないか。そういう問いが現れてきます。

世の中ほとんどが生死のカラクリにだまされて動いている。 例えば脳死の問題。
あれは議論として不可能なことを議論している。死がどこからかということを決められると思っている。
しかし、無いものをどうして決められるのですか。また時間の概念も変わります。死に向かって直線的に流れると、
漠然と思っているが、だけど、その死が存在しないとなると、時間はどう流れるのか。 
死に向かって生きているわけではないんです。 「生きる」という意味も変わってきます。
「死というものがわからない」ということがわかる限り、生というものもわからないわけです。
つまり、生死というのは現象に対する相対的な名づけに過ぎないと気づきます。
ーーー
    内容はダンダン面白くなっているが、字数の関係でここで切る。
    エピクロスは、「人が生きているかぎり死は存在しないし、死が存在するときには人は存在しない」と看破した。
    言葉を持った人間が死という言葉を持ったために、死という言葉の影に脅えているに過ぎないということを
    よくよく納得しないと、生きかたを間違ってしまう。    
    でも、言葉でわかったつもりでも、「生きているうち、死んでしまえば、それまでよ!」と思ってしまうから困ったものだ。
    しかし、死ぬという言葉自体が生きている人間が死体をみて、いや抜け殻を見て名づけた言葉である。
    しかし仏教では「生老病死」というんじゃないか?でも、あれ宗教じゃないか! いや元々は宗教ではなかった。
    死という字がよい、一の下に夕ヒである。夕陽が地平線の下に消えるのが人生の終わり!何ともロマンッチクである。
    この辺に答えがあるのじゃないか?いや、一は生きている方が勝手に思っていること?当人は、その線の一は無い!のか?        
        空即是色、  色(!)即是空( )
       (0) (一)                  
              (・)(・)
              オッパイにしか見えないけど!              
              目が点?
              自分のこと?ー( )が自他の境で、点が真我
              それとも生と死?ー点が生で、( )が世界
              その程度のもの?生死とは。
            (人・・)(・・人)い〜みな〜い〜ん!
              元々あるわけ無いんじゃ・・
    まあまあ ( ̄▽ ̄)■]~~~  珈琲TIME♪

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