読書日記 ~『無知の科学』だってさ! -4

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          <『知ってるつもり――無知の科学』
        スティーブン スローマン,フィリップ ファーンバック(著)>
   
    * 知識の錯覚 「私たちは嘘をいきている」
 読むほどに、実は思いの外、私たちは無知であることに気づかされる。
それを学生時代に知り得たため、読書習慣を自らに課してきた。で、この程度。
しかし、情報機器の進化は、人間の脳の能力を遥かに凌ぐようになった現在、
逆に自らの「知っているつもり」を認めて、謙虚にへり下る態度も必要か!

  ~ 以下は要約した個所である。
≪ 私たちは驚くほど無知であること、自分で思うより無知であることを
 見てきた。また世界が複雑であること、私たちがみるより、遥かに複雑である
ことを見てきた。ならばなぜ、これほど無知な私たちが世界に圧倒されないか?
知るべきことのほんの一端しか理解してないのに、まっとうな生活を送り、
分ったような口をきき、自らを信じることができるのか。
 それは私たちが「嘘」を生きているからだ。物事の仕組に対する自らの知識を
過大評価をし、本当は知らないくせに、ものごとを理解していると思い込んで、
生活をしていることで、世界の複雑さを無視しているのである。実際にそうで
ないにもかかわらず、自分には何が起きているかわかっている、自分の意見は
知識に裏付けられた正当なものであり、行動は正当な信念に依拠したものである
と自らに言い聞かせる。複雑さを認識できないがゆえに、それに耐えることが
できるのだ。これが知識の錯覚である。 大人になるにつれて、探求を止めて
しまったことが、物事が複雑であることを忘れてしまったことに起因している
のかもしれない。「その先は、実は知っているが…」と、空白をつくるが、
実は、その中には何も入ってない。まず自らを誤魔化すことが、人間の甘さ。≫

▼ そこでスマートフォンなるものが普及してきた。これを活用すると、凡人が
 天才の能力に近い人種にスケールアップすることができる。 世界中の脳が
ネットで繋がり現実社会を覆ってしまった。このお陰で、逆に何も知らなくても、
超小型pcに音声入力で検索すると、世界中の脳に繋がり、ベスト・アンサーの
情報が入手可能になったのである。 それが逆に、『知っているつもり』の
無知人間に陥ってしまう危険性が大きくなった。自分の縁る基地の軟弱化である。
 このブログを例にとると、外部脳と、自分脳とが、何時の間にかシースルー化
している。過去に書いた、文章を現在の私が読むと、その内容自体が、外部脳
と自分の脳の混合でしかないことに気づく。それをまた外部脳が読んでいる。
フワフワした脳を公衆に晒すことを継続することで、自らを変えているつもり
だが、そう甘くはない。私たちは「共同幻想」の世界に生きている。幻想という
嘘の世界に生きているが、誰も、そのことに気づいていない。その事実を話すと
変人扱いされるため、知っている風をして黙っているしかない。しかし、誰もが、
スマートフォンを手に入れ、情報基地を持ってしまい、知ったつもりの人間が、
互いに繋がってしまった。無知同士が互いに繋がると如何なる? この世界的
動乱が、この結果である。
 ランドアーという科学者は、1980年代に、コンピュータサイズを測るのと
同じ尺度で人間の記憶量を評価することを思いたった。現時点で評価すると、
ノートパソコン一台には長期保存用として250~500ギガバイトのメモリー
ついているが、0・5ギガバイトだと。 人生70年の間に、一定速度で、学習を
続けるとしても1ギガバイトである。これが10倍としても、大して変わりはしない
微々たる量でしかない。これは、あくまで記憶量の問題で、脳は複雑で、PCの
記憶媒体の質量とは比較できないが… それでも、昨今の情報機器の進化をみる
につけて、人間の脳は、進化する情報機器を前に、その限界がみえてくる。
 …としても、この情報機器の進化と、情報革命の諸現象は、あまりに面白い!
知ったかぶりね、知ったかぶりですか。情報化とは、浅くも深くにもなる、
その人の程度によって… 猿でないのに何でまた、掴んだまま手を離さない?

 追:偶然だが、一年前の内容が丁度良く、文脈でつながる… 
・・・・・・
6265,閑話小題 ~「これ以上はいけない」と宣告する境界線 -2
2018年05月09日(水)
             《『街場の読書論』ー歩哨的資質についてーより》
   * 歩哨的資質ですか!
 聖地や秘境との邂逅の場で、何やしらかが、「これ以上、立入るな!」と
無言の得体のしれない何かを感じたこと屡々。その時々に私の知っていること
など、ほんの僅かで、圧倒的未知の世界の一部から得る啓示に慄然とする。
<「存在しないもの」と「存在するもの」のフロントラインにおけるふるまい>
とは、分かりやすい表現である。人間は未知とのフロントを守護する歩哨ですか。
 考えさせられる内容のため、全文を数回に分け紹介しながら考えていく。
――

毎日新聞社高野山金剛峯寺で開いているセミナーで一席おうかがいしてきた。
 「公共性の再構築」という演題だったのだが、それは3・11以前に出した
ものなので、もう少し踏み込んで「社会制度の作りなおし」というテーマで
70分お話しする。
このところ繰り返し述べている「存在しないもの」と「存在するもの」の
フロントラインにおけるふるまいということをまた申し上げる。

私たちの世界は「存在しないもの」に囲繞されている。
 宇宙の起源を私たちは知らないし、宇宙の果てに何があるか
(というより「何がないか」)も知らない。
 時の始まりを知らず、時の終わりを知らない。
 『ヨブ記』で主はヨブにこう問う。

 「わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。
わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。
あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。
あなたは知っているか。
だれがその大きさを定め、
だれが測りなわをその上に張ったかを。
その台座は何の上にはめこまれたか。
その隅の石はだれが据えたか。
 (・・・)
あなたは海の源まで行ったことがあるのか。
 深い淵の奥底を歩き回ったことがあるのか。
 死の門があなたの前に現れたことがあるのか。
あなたは死の陰の門を見たことがあるのか。
あなたは地の広さを見きわめたことがあるのか。
そのすべてを知っているなら、告げてみよ。」(『ヨブ記』38:3-18)
ヨブはこの問いの前に絶句する。

私たちは私たちの生きているこの世界の「外部」についてほとんど何も知らない。
 私たちは私たちの手持ちの度量衡では考量できないもの、手持ちの言語では
記述できないものに囲繞されている。
私たちが理解できる世界と、理解を超えた世界のあいだには目に見えない境界線
がある。 「存在するもの」と「存在しないもの」のあいだには目に見えない、
手で触れることもできない境界線がある。けれども、その境界線を守護するのは、
私たちが「人間の世界」で生きてゆくために必須の仕事なのである。
 誰かが境界線を守護しなければならない。
 『ヨブ記』においては主がその仕事を担っている。
 主はこう言う。

「海がふき出て、胎内から流れ出たとき、
だれが戸でこれを閉じ込めたか。
(・・・)わたしはこれをくぎって境を定め、
かんぬきと戸を設けて、言った。
 『ここまでは来てもよい。しかし、これ以上はいけない。
あなたの高ぶる波はここでとどまれ』と。」   (『ヨブ記』38:8-11)

「存在しないもの」に向けて「ここまでは来てもよい。しかし、これ以上は
いけない」と宣告する境界線がある。 高野山奥の院に足を踏み入れたときにも
「フロントライン」に近づいた感覚がした。
 弘法大師がそこでとどめた「高ぶる波」の微かな波動が感知された。
 聖域というのは、そこで完結している場所ではなく、何かとの「境」なのだ。
 機能的には「かんぬきと戸」なのだ。  
                      ~つづく  ≫

▼ カナダに初めて行って、ロッキーの景観に圧倒され自失茫然とした。
 その時の内なる声、「もしかして、これを見ずして死ぬところだった!
とんでもない! 
 夜半8時過ぎの薄暮のなか、バンフのレイクルイーズの周辺を家内と散策した
時のこと。家内が疲れ果て帰った後、更に独りで湖畔を歩いていると、何やしら
リスやカワウソ、ビーバー、鹿?などが威嚇する鳴き声。それでも女性一人が、
次々と帰ってくるのに励まされ歩いていると、今度は雷音が、「もう帰れ!と
言わんとばかりに聞こえてきたため、Uターンをして帰った。
世界的カーレーサーの明言、『限界までは誰でも行ける。問題は、その先、
どの位行けるか!』。 イスラエルケニアタンザニア、シリア・ヨルダン
など秘境、異郷ツアーで味わうのは、その歩哨の感動体験の感覚。
<これらを見ずして、誰が死ねようか。見なければ、体験しなければ、それは
存在しないことと同じ。聖域とは、聖地とは、大自然の懐とは、そういうところ!>

追:【そんなことこそ大変だろうが、拘ることもないさ。中心を穴が空くほど
 凝視して、捨身になれば、一瞬でも解放されるよ、自分という柵から! 
折角、宇宙の彼方から観光旅行で、『光』を見に来たのだから。
 縛ってるのは自分以外、誰も居ないよ。 分かってはいないのは私自身。】

・・・・・・
「読書日記・映画鑑賞日記」のコーナー
2007/05/11
2229, 人生張っています -2
                (σ・з・)σオハYO!!
            『人生張ってます』-読書日記
 対談を終えてのインタビューの感想がまた面白い!
   ーー
 さすがの中村うさぎも、毒気を抜かれて「まだまだ、うさぎは青かった」と。
「私はそれなりに地雷を踏んできたなと思っていたが、世の中には私の
踏んでない地雷がいっぱいあるものだと、勉強になりました」と脱帽。

 30歳前後位で、女はみんな迷ったり模索するじゃないですか。
その時に暴走しちゃったらするんだと思うんですね。
私の買い物もそうかもしれない。
5人の場合も折り合いがついてないのかもしれないが、
「私はこっちの道を行くと決めた」というのがあって。
こんな人にはなってはいけない。

「あなたはあなたなりの道が用意されているわけで、それはあなた自身が決め
ないといけないんだ」ってこと。誰かから決めてもらって押し上げてもらって
押し上げられた人は誰もいない。ある程度のところで決断して、捨てるものは捨て、
受け入れるところは受け入れて、自分の売りとか生きていくキャラの方向性を
決めないと。「これが私なんだ、こんな私はどうよ?」という腹のすわり方は、
読者も見習ってほしい。

 私のそういう瞬間は、第一次、第二次があるとして、第一次は離婚でしょうね。
あの旦那をわたしの人生から簀巻きにして放り出したところで、これでいいや
と思ったんです。それから浪費癖ですね。開き直ったんです。
「浪費作家・中村うさぎ」という名が売れるとは、想像もしてなかった。
ドン底にはまった時に、そのドン底がネタになるんですね。
ネタにしようとやっているわけではない。
    
 ーー
解)以上であるが、冷静かつ真面目に彼女等と自分を見据えている。
それよりも、すざましいウンコ話をパソコンに打っている自分が面白い?
秘境旅行は、一度の旅行に一通りの人生のトラブルが圧縮して立ちふさがる。
その一つが『デモノ・ハレモノところきらわず』である。

食事と飲み物と、時差の関係で、何時何処で、もようしてくるかわからない。
今まで、一度も失敗が無かった方が奇跡である位、何度も危機一髪の事態に陥る。
そんなことを恐れていたら、秘境旅行などできやしない。何とかなるものである?
だから、このエゲツナイ話が身に沁みるのである。
書き写すかどうか迷ったが、今さらである。
読まない方が良いですよ!と 言いながら・・・

こういう話は、タブーなのだろうが、この本は誰もが嬉々として
話しているところが怖い!ところだ。
  ー内容は、明日のお楽しみ?に!
  三人分の対談者の内容を書き写してある!
                ☆^(*≧ω≦)ノ~~~βyё βyё♪
・・・・・・
5898,閑話小題 ~病は覚醒装置である
2017年05月09日(火)
   * 病は覚醒装置である
 二年前に、中村うさぎの手記の感想文を10回にわたって、いや、その前にも
幾つか書評を書いていた。女流無頼漢を地でいく内容が面白い。私のような半端
アウトサイダーではない。だから心は傷だらけ。その血を文字に替えて書くから
内容はシリアス。一昨年の内容をブログ内検索をかけると、
 <「うさぎちゃん」が、心肺停止になって考えたこと!ー①2015/08/26
ーその時、言葉は私の「神」となる(新潮45/6月号)中村うさぎ著>である。
その直後にTVに出ていたが、最近は殆ど見かけることが無かった。
ところが先日、図書館で、新潮45。2月号に、彼女の手記があったが、現在、
死にかけた病を抱えたまま車椅子生活を過ごしているという。
知人に事故で車椅子生活を余儀なくされた人がいるが、心の内は如何ばかりと
思っていたが、それそのままを中村うさぎ女子が、代弁しているような内容。 
 社会といえば、経済社会が、その位置を大きく占める。倒産といえば、経済
社会では落伍者として葬りさられる。著者が語る言葉そのままが、現在の私の
奇妙な立場の気持ちそのままを表している。~その一節より
【 私がもっとも苦手とするのは私の悪口を言う人々ではなく、私に一方的な
 幻想を抱いてそれを押し付けてくる人々だ。私の幻想を必要とする他者に、
私は一切の責任を負う気がない。だって、それは私が作った幻想でないからね。
あなたが自分で作り上げた虚像なのよ。そんなものを振りかざして私に勝手に
期待を抱かれても、困る。あなたに私を規定される筋合いはこれっぽちもない。
……(略) 病と、それに伴う喪失は、何だかんだ言いながらも社会の中に
ポジショニングされる自分を捨て切れなかった私にとって、痛烈にして効果的
な平手打ちだったのだと今では思う。いきなり身ぐるみを剥がされた時は、
まるで追剥に遭った気分だったけど、結果的には、裸にされたことで、私は
自分を取り戻せたのである。病は、私の覚醒装置だったのだ。】
 ー
▼ 6年前から現在に至る間に、小躍りをした様ざまの人が病や事故で倒れた。
 それからして、「私のエネルギーは? 彼らを排除する脳力を持つ?」
「私の覚醒装置が他者に働いた場合、彼らは「まさか」に遭遇する」という
物語を作り上げて怪奇現象?としてを眺めている。 同世代の倒れた人は、
遥かに深刻な内なるブラックスワンがいずれ自分に舞い降りるとは思わない。
己の死や重大事故が身近にあることに気づいていない。病も倒産も、確かに
覚醒をさせてくれている。数日前に書いた「素朴な実在主義者」の「純粋悪」
の汚水が年齢を重ねるにつれ満ちてくる。 生・老・病・死は、一体である。
 ~その幾つかより~  (読み返してみて、「これじゃ病気なるわ!」)

――――
2007/06/02
2251, ビョーキな人々探訪記  -1
才ノヽ∋―_φ(≧ω≦*)♪
             ー読書日記ー
      「変? ビョーキな人々探訪記」 著者・中村うさぎ
 
またまた「中村うさぎ」である。
買い物依存症の中村が、他の依存症の人と語る、際どい話である。
この変な人が、それに劣らないほどの変な人の病巣を浮き上がらせる。
やはり両親、特に父親との愛情不足の問題がある。
色いろ反省することが多い。
両親から愛情をたっぷり注がれたわりに子供には?等々・・・
ーまずは、その目次からー

 * 私たちって「変」ですか?うさぎと語る12人
ー目次
和田秀樹―「買い物依存症」になって考えた。人間はなぜ、心の病に罹るのか?
原田宗典躁鬱病VS依存症。どっちがバカで、どっちが辛いか?ま、いい勝負だが。
本橋信宏覚醒剤やめますか、人間やめますか?それとも人間やめたくて
     覚醒剤をやるんですか?
島村洋子―お互いのすべてを肯定する快感! だから恋愛って、素晴らしいと思う
横森理香―お人形さん願望と自己実現願望。エステサロンは女の業の吹き溜まり。
団鬼六 ―鬼畜のブランド買いVS鬼六のサディズム!さて両者の接点は?
尾崎弥生―やめられない、止まらない。餓鬼のごとく貪る、過食の恐怖…!
宮台真司―少年犯罪と依存症。他者への攻撃行動と自分への破壊行動は、
     正反対の存在か?
月乃光司―引きこもりからアルコール依存症へ。
     自意識の病は人を限りなく転落させる。
松本侑子―男であること、女であること。それって、そんなに大事なことなのか?
沢村拓也―ホストにハマった中村うさぎをベテランホストは救ってくれるか!?
苫米地英人ーなぜ、やめられない。なぜ、破滅したがる。
      依存症の不思議に、脳機能学が答える!
 ーーーー
この本の書評をいざ書くとなる難しい?
どこから書いてよいのやら、とまずは深呼吸をしないと、
それで上記の上から、気の向いたまま面白いところを抜粋してみよう。
下手な精神病理の話より、ずっと話の奥行きが深い。

 * 買い物依存タワーハッカー
まずは和田秀樹の「買い物依存タワーハッカー説」より。
後楽園のタワーハッカーに乗るたび、とてつもなく恐怖と後悔を味わう中村。
だが猛スピードで落ちた後に押し寄せてくるのは、これまたとてつもない陶酔感と
異様な達成感で、全身が鳥肌立つほど興奮してしまうのだ。
これは「死の恐怖」に直面した脳が、恐怖をやわらげるための脳内麻薬を
ドッバーと分泌するからではないか。
そして、中村が浪費するたびに味わう恐怖と快感は、このタワーハッカー
同じ現象が起きているせいではないか、と。

和田:「アルコール依存症」と「大酒飲み」の一番の違いは、
 ひとりで飲むか、誰かと飲むかの、ということなんです。
 いつも誰かと一緒に飲んでいる人は、依存症にまずならない。
中村:わかります。その気持ち。私は誰かと一緒に行く買い物はダメなんです。
 ひとりじゃないと絶対にヤダ。
和田:依存症状態になった人は、自分の内面に深く入り込みますから、
 ひとりではまっていくのです。

和田:何より、自己洞察の世界に入っていますから。これだけ自己分析が
 できるというのは、重症ではないと思います。普通なら、自分が見えなくなって
 しまうのが依存症の基本ですから。直そうと思っている時点で、充分治る可能性は
 あると思います。
 
 ーーーー
「秘境旅行依存症」というのがあるなら、少し「買い物依存症」に似ている。
この浪費で味わう事前の恐怖と達成感の快感は、タワーハッカーの現象に似ている。
いやまだあった、ニュージーランド南アフリカでのバンジージャンプは、
この数百倍?の恐怖と達成感である。
それと「アルコール依存症」は一歩手前までいったと思ったが全く関係ない。
一人、黙々と飲むのが、特徴のようだ。 私が経験したのは、単なる大酒のみである。
ただ、守ったのは一人酒のハシゴ、この味を覚えたらアル中になる予感がしたからだ。
              see you again!(*ゝェ・)/~☆Bye-Bye♪
・・・・・・
「読書日記・映画鑑賞日記」のコーナー
2007/05/09
2227, 人生張っています -1
             (*´・ω・)ノおはよー
           (((。・-・)从(・-・。)・*:
                    ー 読書日記                   
中村うさぎ」については、もういい加減にしろ!と思いながら、
図書館で見つけると、ついつい借りてしまう。
エゲツナイ!の一言である。「人生張っています」は露悪という言葉など、
はるかに超えている。
「無頼の女たち」5人と語った対談は、互いの最悪を引き出したエログロものである。
こういう話は、世間様の枠から遥かに出ていて中途半端なお笑いより面白い!

花井愛子、岩井志麻子マツコ・デラックス西原理恵子斎藤綾子とくれば
「たしなみ」など、ありえるわけがない。
「はみだし者」の世間の価値観におさまらないオバケのような妖怪女が
普通人の「常識」と違う「異世界」の話を展開している。
個性的な女同士のバトル的、際物的な、ぶっ飛びの話題ばかり。
中村うさぎが普通の人に思えてくるから不思議である。
女のシモネタの羅列も、ここまで明け透けの話すと、なるほど納得する。

西原が「私から悪いところ取ったら私がなくなっちゃうじゃない」
という言葉がよい。自分自身を丸ごと引き受けて生きている言葉である。
まずは冒頭の
       ー無頼な女たち宣言ー
 「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子には
  まくらする所がない」 (マタイによる福音書第八章20節)
  諸君、我々には、あらかじめ用意された居場所などない。それ故、
  人はさまようのである。自分の居場所を求めて・・・・
  無頼な女たちとは、ねぐらを持たない行き方を選択した女たちだ。
  その道は自由で、孤独で、そして果てしない。
  人は彼女たちを笑い、彼女たちを恐れ、彼女たちに憧れるだろう。
  多くの物を背負いながら、何も持たないかのように歩いていく、
  その軽がるした足取りに。
  ーー
 人生とは何じゃらかんじゃら?などクソクラエである。
 世間?そんなもの何処にあるの?
 生きたいように生きて何が悪いの?
 変態? それじゃあんたはどうなのよ?
 新幹線の中で薄気味悪い笑いを浮かべながら読んでいるが、
  誰かが見たら不気味だろう!
                  ーつづく
 ☆^(*≧ω≦)ノ~~~βyё βyё♪