* つれづれに 〜『ま、これでもいいか!』
 土地を含めた2億の資本で創業、30数億の箱物事業を楽しめた実感があるため、それぞれを立ち上げ、
軌道に乗せた段階で元を取っていた実感がある。これは、実際に経験しないと、理解できないだろうが。
『それにしても面白かった!』という感覚は、後味を良くする。それと、「立つ鳥、後を濁さず」もある。
傍から見れば濁していたのだろう。 最初の依頼時に「綺麗に事業を終えたい」に対し、弁護士が言ったのが、
「綺麗汚いは有得ない。あるのは、良い倒産、悪い倒産だけ!」 終えて振返ると、まさに、そのとおり。
 前もって最悪の事態に整えていれば、目先は好調だが、備えのない事業体より、遥かに良いと思うが? 
危機管理のある中小は、私の知る限りで一割もないのでは。いや、今さら遅いのか。 としても、
『事前の一策は、事後の100策より勝る』で、やれることは、しておくべきでないか。
ここで、円安になってきたのは、日本の政治体制の甘さが表立ってきた要因もある。更なる消費税2%アップが、
消費低迷で、怪しくなってきた。 以前の事業で、この3%の消費税アップと、灯油等の値上りは、厳しいはず。 
会社も、家庭も、支出を更に絞めてくるためだ。アベノミクスで、公共事業は潤っているようだが、この不況下、
甘い仕事は少なくなっている。この三年半の間、経営に疎い家内の口癖は「事業を早々、断念して良かった!」。
SC内の店の転廃業や、スーパーの店頭に値動きから、その厳しさが分かるという。分かったようなことを
書いているが、実際、ソフトランディング出来たのは、紙一重。 事業など、まして創業など、すべきでない!
『元手の2億を地道に5億にするより、30数億に膨らまして楽しみ、使い果した人生も悪くない』と、独り
嘯いている私も、バカそのもの・・ そう思うしかないし、その甘塩っぱい感覚の日々。 箱物事業には、
有余ったオマケ(時間)があった! そのオマケを最大限に楽しんだ収穫が、『ま、これでもいいか!』である。
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4570, 変えてみよう! 記憶とのつきあいかた ー5
2013年09月20日(金)         
  * 万能薬としての「語り直し」   「変えてみよう! 記憶とのつきあいかた」高橋 雅延 (著)  
 実際に、その立場にならないと見えてこないことが殆どである。だから、上に立つものほど多くの経験を要する。
一線から退いてみて、事業目線からみた社会と、そのバイアスから解き放されてみえてくる社会とは大違い。
人それぞれが自分に都合の良い物語を作っている。「盗人にも三分の理」と、最初から見切ればよい。
「記憶は嘘をつく」というが、元々、記憶する以前の事象を都合良く解釈している。その記憶を変えるためには、
語り直しをするしかない。早稲田に二部(夜間)があった学生時代に、寮の隣部屋の友人に彼女が出来た。
ところ、急にアルバイトを始めて苦学生に変身したのである。 彼女に二部在学の言い訳のため、これも、語り直し?
  まずは ー次の箇所から
≪ 自分が親になって初めて親の苦労がわかるとか、教える立場になって初めて教える者の大変さがわかる、
などと言われることがある。どちらも、親となり教える立場にいる私自身にとっては、心の底から納得できることだ。
つまり、その人の立ち位置によつて、同じできごとでもちがって解釈できるのである。そのため、過去のどんな
できごとも、必ずちがってみることができることを、肝に銘じておくことが必要だ。その上で、ある過去のできごと
について、その意味づけを変えるためには、そのできごとを、それまでとは違うことばで語り直さなければならない。
 世間には「時間が癒す」という言いまわしがある。そこで、見過ごされがちなことだが、「時間が癒す」のは、
単に時間が過ぎ去るからではない。時間が過ぎ去る間に、人はそのできごとについて何度も考え、悩み、さらには
新しいことをする。このことによって、元のできごとの意味づけ、語りかたが変わるからなのだ。
 私は、くも膜下出血で倒れる二年前に、アキレス腱断裂により、ニカ月間、松葉杖の生活を送ったことがある。
どこに行くにも、何をするにも、苦労ばかりの辛い日々だった。しかし同時に、あのとき数々の苦労を重ねる中で、
障害をもつ人の気持ちが少しは実感できた。その意味で、後からは「よい経験だった」と語り直している。
もちろん、くも膜下出血の体験も同じだ。あのできごとがなければ、それ以前の私と同じように、命や人生について
深く考えることもなく、生きていただろう。そう思うことで、今となっては「あの体験こそ、自分にとって
かけがえない宝物だ」と、胸を張って語り直すことができる。 
 最後に、フランシス・マクナブという臨床心理学者の言葉を引用しておく。できれば、何度も繰返し味わってほしい。
「記憶をつくり変えたり、それを遠ざけたりするのは無理なことである。 略)…しかし、つねに私たちは、自分の苦悩、
自分自身の内的経験、自分自身の精神の経過を処理しているわけである。それは過去とよばれる客観体ではなく、現在と
よばれる主観的経験である。変える必要があるのは、誰か他の人間ではない。最も大きく影響されるのは、私たち自身。
記憶をぬぐい去ることはできないが、記憶の有りようを変えることは可能であることを、私たちは知っている。」 》
▼ 私も色いろあって、思いもよらない結果、オセロの白が、全て黒になったようなもの。
 そこで現在、過去の要素を元に、物語を語り直しを独りしてきた。これこそ、「日々是好日」から、
「ヒビ、これ口実」の辻褄合わせ。その辺りの自分の心の浅ましさがいじましい。それも、自覚をしていれば良いが、
全く自覚なしでやるのが人間。 
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4195, 呪いの時代 ー12
2012年09月20日(木)                     
   * 「片づかなさ」の人間性     ー第8章 これからを生き延びる智恵
 贈り物を貰った場合、何かを返さない限り気持ちの中に、「片づかなさ」が残る。これが人間社会とサル社会との差。
私はビジネスの場面で、それを徹底してカットしてきたが、私的場面でも何時の間に持ち込んでいたようだ。
これが最近、つくづく間違いだったと反省していること。結局、人との付き合いは贈り贈られで成り立っている。 
それにしても「贈り物」とそれに対する「反対給付(お返し)」が、人間たる由縁とは。 以下は ーその辺の抜粋ー
≪ 人類学者マルセル・モースはその著書『贈与論』のなかで、贈与論の主題を端的にこうまとめています。
「受け取った贈り物に対して、その返礼を義務づける法的経済的規則は何であるか。贈られた物に潜むどんな力が、
受け取った人にその返礼をさせるのか」
 モースも、マリノフスキーも、レヴィ=ストロースも、「贈り物」とそれに対する「反対給付」が人間集団を形成
する本質的なカだとみなしている点では共通しています。贈り物をされると「お返し」をしないと気持ちが片づかない。
人間性とは、すべての装飾を剥ぎ取って言えば「贈り物をもらうと、お返しをしないと『悪いこと』が起きそうな気がする」
という「負積感」のことです。いや、ほんとに。だから、この「負債感」を持たないものは人間ではない。そう言い
切っていいと思います。「贈り物」というと、僕たちはふつうお中元お歳暮のようなかたちのあるもの、価値のあるもの、
実用性のあるものを思い浮かべます。でも贈り物はそれには尽くされません。というか、贈り物というのは
「価値あるもの」を贈ることではないからです。そうではなくて、「これは贈り物だ」と思った人がそう思った瞬間に価
値は生成する。そういうふうに順逆の狂ったかたちで贈与という儀礼はつくられる。例えば、挨拶というのはある種の
贈り物。「おはよう」と誰かに呼びかけられる。僕たちはそれを聴くとこちらも「おはよう」と言わなければならない
という強い返礼義務を感じます。負債感と言ってもいい。同じ言葉を返さないと気持ちが片づかない。
挨拶した方もそうです。挨拶したけど返礼がないということになると、気持ちが片づかない。片づかないどころか、
心に傷を負います。どうしてでしょう。たしかに、「おはよう」というのは
「今日一日があなたにとってよき日でありますように」という『予祝』の意味をもつ言葉です。 ≫
▼ 家のインコ、餌を与えると、取って置きの「枝の連続回転芸」をする。それも食べている合間に思いついた
 ように挟んで芸をする。これも餌という贈り物に対する「お返し」に思えるが、動物的直感ということか。 
朝の恒例のサイクリングで、すれ違いざまに「おはようございます」と言われ、返事を、しそこなった後に残る
気まずさは、何時までも残る。与えるは、アンドという意味がある。与え与えられることで、アンドという
結びつきが積み重なっていく。「負債感」が少ない人が、あまりに多いが、自分はどうだろう。
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3830, 毒を溜めない! 日々
2011年09月20日(火)
 30年ほど前から腰痛対策のため早朝のウォーキングを始め、20年前からは平日一時間、日祭日二時間を
目標にしていた。しかし二年前に、電動アシスト自転車に切り替え、信濃川の長岡大橋〜大手大橋一周に切り替えた。 
続けていると自分の全身から毒素が抜けていくのが実感できる。 たまに休んだ翌日に歩いた後、二日分の毒素が
抜けたの分かる。 その毒は活性酸素だろう。近年、肉体的に毒素を体内に入れない、溜めないことを目指す
女性誌で馴染みになっている「デトックス」がある。 そこで、ー「デトックス」をネット辞書でみるとー
【 デトックスは「解毒」や「浄化」という意味で、人間の体内にたまった重金属や、余分なミネラルなどを取り
 除く健康法。体調がよくなる、肌が若返る、生活習慣病の予防となる、などの効果があるといわれている。
従来の健康法はサプリメントなどによって足りない栄養素を補うという足し算方式だったが、これは余分なものを
取り除く引き算方式。人間の体内には、食品や水道水などを通じて鉛やアルミニウム、ヒ素などが細胞のタンパク質
などとくっついて蓄積されており、これらはわずかな量でも体に悪影響を及ぼすことが、最近の研究でわかっている。
脂肪を分解する酵素の働きを妨げるため、ダイエットがしにくくなることも指摘されており、これらを体内に
ためないためには、効率よく排出する食事に心がける必要があるという。ゴボウやコンニャクなどに含まれる
食物繊維は、余分なミネラルが体内に取り込まれるのを防ぐ働きがある。
タマネギやリンゴ、コリアンダー、ニラ、ニンニクなどは、重金属をとらえて体外に排出する。】
▼ 早朝の運動で体内に溜まった毒素を出すと、ストレスの半分は軽減する。 それとは別に肉体に溜まった
 重金属や、余分なミネラルを取り除くことも大事なことも分かる。白砂糖と缶コーヒーは毒と聞いていたので、
この10数年間は殆ど口にいれてない。それからして缶ビールも良くないはず。半年前の転換期から一番
気をつけたのが、ストレスによる精神的毒素。一つ間違えば命取り。その為に運動量を二倍と考えて、
「スポーツジム」通いで、二時間の運動をプラスすることにした。週二日のジムの休みは、市営の施設内のジムに
通い、休みは月1〜2回にしている。 毒は精神統合失調症とか、ガン、糖尿、女性はリュウマチを誘発する。
 さらに毒は老化と病を前倒しにする。 スポーツジムの八割は、未病より、既病の人の方が多い。 
むしろレジャーランドと割り切って、未病対策で来たほうがよいようだ。 人は自分では気づかない毒が
精神も肉体も歪めている。 ストレッチを続けていると、つくづく腰の(全身の重圧で)歪みが分かる。
老化は足腰から弱るようだ。 歳をとるにつれ全身が黒ずんでくるが、これ老化? 既に毒の塊?
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3465, 純粋持続 −3
 2010年09月20日(月)
 私が行った47回の旅行は、それぞれが今だ終わってない気がする。それぞれが続いているから、旅先をTVで
放送をみる時、その延長として見ることができる。記憶の中で現在も鮮明に残っていて、TVの旅番組で再び見る
新たな記憶がプラスされていく。それはロマンチックな感傷で語るのでない。それぞれの旅が心の奥底に
「純粋持続」している実感がある。その意味で「純粋持続」の意味がよく分かる。初めての一ヶ月間の欧州旅行の
同行の友人の二人と先日、東京で会い、43年前の思い出話になった。そして、それが昨日の出来事のように思える。 
この43年間で同じ旅行先に立ち寄ったり、旅番組の放送でみたりして、その間も私の旅は続いていたのである。 
ほぼ毎日、これまで47回の旅先をBS/TVで放送している。それを見る度に純粋持続の純粋記憶に、それが重なる。 
それらは空間化された日常時間とは別口の〈趣味の世界〉の引き出しに加えられる。だから、ベルクソンのいう
〈純粋持続〉が実感として受け止められるのである。純粋記憶として鮮明に残すため、写真の整理と、感想文にして
《随想日記》や、ブログに載せる。それは記憶、記録というだけでなく、【魂に記録される純粋記憶】になる。 
それも余白の多い、現在も持続し書き込みをいる瞬間像の記憶である。そこを見入ると空間化された日常が消え去り、
純粋持続の時間に入ってしまう。趣味に没頭している時間こそ純粋持続である。 好きな仕事に没頭している時間も
純粋持続になる。だから仕事を好きになるまで追求すべし、という論がたつ。そのためには孤独を愛し、
自己の確立をしておかないと心奥の純粋持続は維持できない。
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3090,「官僚内閣制」が終焉
 2009年09月20日(日)
  * 明治以来の政治形態の実態は「官僚内閣制度」
「日本の統治構造―官僚内閣制から議院内閣制へ」飯尾潤著 に刺激の強い内容が書かれている。
菅直人のブログにも「2重の政権交代」(2009年9月15日)と題して「今の政権交代自民党から民主党への
政権交代と官僚主導の官僚内閣から国民に選ばれた政治家主導の国会内閣への2重の政権交代。明治時代に内閣制度が
生まれて初めての大改革。この実現に全力を挙げたい。」と書いている。
これまでの実態は議院内閣制度ではなくて官僚内閣制度であった。
  * 9月17日の産経新聞の正論のコーナーで屋山太郎が、その辺の実態と弊害を次のように述べている。
《 その官僚政治の元凶は財務省、その中の主計局である。官僚政治は省の中の省である財務省に仕切られてきた。
  (字数の関係でカット2012年9月20日)
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2725, サブプライム・ローン販売の現場
 2008年09月20日(土)
 「金融偽装」ー米国発金融テクニックの崩壊 伊藤博敏著 
 以前にサブプライム・ローンを扱っていたNHKのドキュメントで、ローン販売していた人の証言を映していた。
以前に図書館で見つけた、この著書の以下の場面と、ほぼ同じ内容。このように世界中に、証券会社の契約社員達に
より販売されたのである。
P−18
販売プロセスは、綿密に仕組まれた詐欺のようなものである。しかも米国の住宅ローンビジネスは分業化して
いるから責任者不在で、詐欺を働いていても、誰も罪の意識を感じなくてすむ。例えば住宅ローンを組む際に、
購入者が接するのは住宅ローンブローカー。こうしたブローカーは歩合でセールスを雇い複数の住宅ローン会社の
商品を斡旋、セールスにはローン残高のー%を報酬として支払う。それだけにセールスは必死だ。審査が緩いのを
いいことに、自己申告で収入と仕事を記載させ、借り手に不利な重要事項は教えず、最初の金利は安くして支払い
可能なローンと思わせて売りまくった。サブプライムローンが好調な時には、年収100万ドルのセールスがざらにいた
という。こうして、最初の2年は金利が6%で残り十数年が十数%といった無茶なローンを組ませた住宅ローン会社は
証券化で「貸し手責任」から解放され、証券化した金融機関は格付け会社や債券保証会社の信用供与で責任を逃れる。
この「負の連鎖」の特徴は、誰にも責任が及ばないことだった。この実体経済を揺るがす金融商品は住宅ブームを
演出したいという金融当局の思惑によって生まれていた。そこには「マエストロ(名指揮者)」とまで呼ばれて
尊敬を集めた米国FRB(連邦準備制度理事会)のアラン・グリーンスパン前議長もいたという。
P−24   (字数の関係でカット2009年9月20日)
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2007年09月20日(木)
 2361, 閑話小題
 ー新潟駅にビック・カメラが出店ー
来年12月にオープンする新潟駅内のビルに「ビック・カメラ」がオープンと新聞に発表されていた。 
現在「ヨドバシ・カメラ」がオープンしているので駅再開発の前に、このビルに移転するのではと
予測をしていたが、何とヨドバシの競合相手の「ビック・カメラ」になった。 
(字数の関係でカット09年09月21日)
 ー阿部首相の退陣についてー
 (字数の関係でカット1011年9月20日)
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2006年09月20日(水)
1996, 悪筆ー3         才八∋ウ_〆(∀`●)
 =もっと「きれいな字!」が書ける本=               読書日記             
 (字数の関係でカット2008年9月20日)
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2005年09月20日(火)
 1631, 愛か、夢か、それが望めないなら仕事を!     
この連休前に借りてきたDVDの『フライト オブ フェニックス』の一場面の、ある男のセリフである。
砂漠の真ん中で墜落した飛行機から一人絶望のうえに脱出しようとした男が、助けに行ったリーダーに向かって
言うセリフ。「この状況では愛など関係ない、ならばせめて夢を与えて欲しい。それも無理なら仕事を与えて欲しい!
 ただ死を待つのはもう耐えられない!」 極限の言葉である。それに対して、「あくまで援助隊を待つべし」
という方針だったリーダーは、その考えを変える。この言葉は人間のあるべき姿を全てを言いあらわしている。
・人間の一番だいじなことは、「愛」    −暖かさ
・次に「夢」を持つこと          −方向
・そして、それを可能にするための「仕事」 −力ー愛と夢を支える力ー現前の気晴らし? である。
リーダーとしても、人間にとってもこの順位は変わらない。 どれも、決して侮れないことである。
極限では、この一つも見出されないのが人間の姿である。極限の中にこそ、これを見出せるかどうかが試される
のだろう。何気ない映画の一言にドキッ。 ー検索で調べた荒すじをコピーしておきます。
 閉鎖された石油採掘所のスタッフと廃材を運ぶ運搬機が、巨大な砂嵐に遭遇し砂漠のど真ん中に不時着する。
毎度お決まりの仕事を無難にこなすだけだった貨物機操縦士のフランク(デニス・クエイド)は、自分たちの
状況が最悪なのを察し、助けを待つしかないと悟る。 (字数の関係でカット2011年9月20日)
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2004年09月20日(月)
 1266, 仲人制度が消滅?
新聞に出ていたことだが、「結婚式で仲人を立てたカップルは4・6?と、前年より3?近くも減少。
20組に1組以下になった。 首都圏では、僅か1?しかなく、制度としてほぼ消滅した。
  (字数の関係でカット2010年9月20日)
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2003年09月20日(土)
 899, 《V・E・フランクル》について
十数年前にフランクルの「夜と霧」を読んで感銘した。そして数年前、春秋社の以下の
彼のシリーズをむさぼり読んだ。  ー以下は、字数の関係でカットー2007年09月20日
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525,光ファイバー

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[151] 世間様  2001/09/20
「世間とは現実にドップリつかった馬鹿4^5人のこと。」 
浪人を重ねるうち悟ったことである。それは諦めと醒めた視点から感じた。
(字数の関係でカット2010年9月20日)