* 3つの「でも」が行動を制約している
 「でも」「だって」「どうせ」という 3つのネガティブの言葉がある。
 その中でも、特に「デモ」が、クセモノで、人間の思考と行動の前に大きく
 立ち塞がっている。勝手に自分の周りに囲い、縛られている事に気づかない。
☆「でも」の後に、今はやれない! 
☆「だって」の後には言い訳、
☆「どうせ」には、自己否定の言葉が続く。
 これを多様する人たちが「世間人」。ショーンは、内なる最大の敵、
 「でも」を指摘する。 〜その辺を抜粋〜
≪ ネガティブ思考を心の中から追い出し、あなたがずっと望んでいた
 結果を出すための実践的な方法をこれから知ることになるからです。
 あなたも含め、人間には2つの共通点があります。
・ひとつは人間には感情があるということ。
・もうひとつは、多くの人間は、とても暗く、ネガティブ思考で、自分たち
 の行動を制約してしまうということです。 
実はこれによって、私たちは夢をあきらめたり、素晴しい愛をつかみ損ねたり、
豊富な資産を構築できなかったりしています。 その「でも」は、
 『言い訳のデモ』『恐怖のデモ』『自信のなさのデモ』から成立っている。
? まず、「でも」で始まる『言い訳のデモ』です。「でも、時間がないんだ」
「でも、お金がないんだ」このように言っている間は、言い訳から抜け出せない。
? 私たちの行動を制限する2つ目の「でも」は、「恐怖のデモ」です。
「でも失敗したらどうしよう」「恥をかいたらどうしよう」「でも皆をがっかり
させたらどうしよう」など「でも〜したらどうしよう」という形をとります。
? 最後のは、自信のなさからくる「でも」。それは、「でも私は〜じゃない」
という風に表現されます。「私は背が低いから」「私はきれいじゃないから」
「頭がよくないから」といったもので、自分には生まれたときから何かが欠けて
いるという思い込みが、この地球上で最も有害な考え方なのです。
 しかし、あなたが人生を変えるには、「でも」を捨て腰を上げねばなりません。
私たちが陥りやすいのは、「でも」に満足してしまうことです。言い訳に頼って
いる期間が長ければ長いほど、言い訳はどんどんふくらんで大きくなります。
実際、自分の人生をまさに丸ごとすべて言い訳で過ごしている人もいます。
言い訳の上にあぐらをかいている人は多いのです。それは様々な厄介事から
私たちを解放してくれるからです。「もちろん、私だってそうしたいのは山々
だけど、でも、私には無理」このように「でも」の上にどっかりと腰を下ろして
しまうと、あなたは退化し始めます。「でも」に腰かけている時間が長ければ
長いほど、あなたは弱くなります。それでも自分の求めるものは変わりません。
 では「でも」から抜け出す方法とは何でしょう。何をすればよいのでしょうか?
それは立ち上がり、確固たる態度をとることです。自分の人生や健康、成功、
人間関係に責任を持つのです。必要なのは、「自分の人生に責任を持つこと。」
そのためには立ち上がる筋肉を鍛えねばなりません。そして、立ち上がるため
には、立ち上がるレッスンが必要になってきます。≫
▼ 志を立てる、目標を明確にしておく、自身の生き方のミッションをを言明化
 しておく、日記を書き続ける・・ などで、この「デモ」から、自らを開放
しておかなければならない。その努力をしないと、(自らをを舟に喩えて)、
その舟底に「デモ」という牡蠣が多くヘバリ付き、重く、動きがとれなくなる。
 老年に至ると、この牡蠣が知らぬ間にへばり付き、その上に、足腰の弱体化が
加わり、万年の鬱症状態に引きづり込む。人生の行蔵に対して、日々、
「デモ」、あの時、違った判断をしておけばと後悔するのが、一番、きつい
「デモ」になる。で、その矛先が、他者の不幸に向かっていく。幸福を祝えば、
自らも、その一端を味わえるのに、その逆をしてしまう。無知は恐ろしい。
そういえば、行蔵のフラッシュに、「言い訳のデモ」を繰り返している日々か?
 それが、また面白い。まあ、暇も好いものだ。肯定的に「デモ」は使える。
<「でも」面白かったから、いいや>が、私が多様している内語の一つ。
<「クソ」、面白くない> より、後味が良い。これも受け止め方の妙。
<あの時、思い切って決断しておけば良かったのに!>は、意外と少ない。
 後悔、後に立たずで、一期一会で、生きてこられたのが、救い?
いや、「デモ」の内語で、人生の面白みを半減してきたのか? 両面ある?

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5302,『自分を超える 5つの法』とは  〜『自分を超える法』ー⑦
2015年09月20日(日)
             ー『自分を超える法』ピーター・セイジ著ー
   * コピーライティングの基本
 個人HPを14年5ヶ月、「はてな」ブログを開設をして8年になる。
ほぼ休むことなく続いてきたのは、マイナスの数倍のプラスを実感するため。
上京してまで、『資産防衛セミナー』に通った内容を大口借入れの銀行担当に
見られ?、貸剥しされそうになったり、ビュアーの悪意の視線を実感しても、
それも大事な視線と割切り続けてきた。その内容を後から読み返すと、自分の
枠が、クッキリと見えてくる。そして、「だから何だ?」「なぜ拘る?」
「遠くから見れば所詮、砂利の石ころ!」と、我を振り返る。
 〜その辺りから〜
≪・「文字離れの時代」など言われることもありますが、とんでもない! 
今日ほど、メール・ブログ・FaseBook・メールマガジン・HPなどで、
文字を読んだり書いたりする時間が長くなっている時代は、ありません。
つまり、もはや、すべての人にとって「コピーライティング(文章を書くこと)」
は、最重要の項目であり、「成功に欠かせない要因」となっている
  ☆ コピーライティングの基本ポイント14
1.ポジティブに
2.相手にしてほしいことを伝える
3.特定の人に向けて書く
4.サービスを提供し、リスクを回避する
5.より多くを語るほど、より多く売れる
6.自慢しない
7.見出しの目的は、興味のある人々を見極めること
8.好奇心を誘う
9.具体的に
10.あなたのストーリーをすべて話す
11.写真を賢く使う
12.商品(文章)は最良のセールスパーソンである
13.テストで証明する
14.効果が出ている文章は変えてはいけない
――
・あなたがよいコピーを書きたいのであれば、自分の広告を読み直し、
書き手ではなく、「読み手として自分自身に次の3つを問いかけること」。
●【1】 だから何なの?
●【2】 そんなこと、どうでもいいでしょう?
●【3】 私にどういう関係があるの?
・「1年で1億稼げる」より「1週間に192万円稼げる」と表現する
   広告における一番の問題は「信頼性」です。
・「ベネフィット」を明確にすると、よい反応が得られる(中略)
「このノートパソコンは12インチと、小さいサイズだ」というのは特徴で、
ベネフィットは、特徴のあとに「だから、……」をつけたときに出てくるもの
を指します。つまち、「だから、このノートパソコンは、カバンに入りやすく、
持ち運びしやすい」というのがベネフィット(利益)です。
・成功者のコピー(真似)をしたいという人は成功者をコピーをしたい
のではなく、成功者が得ている結果をコピーしたいだけなのです。
あなたは、「誰かになる」必要はありません
・人の行動を起こすスキルは、もっとも高い報酬がもらえるスキルです
▼ 昨年の秋に、日野啓三著『創造する心ー書くことの秘儀』の感想文を
 書いていた(下にコピー)。 学生時代の日記を読み返すにつけ、書き残す
価値、意味を考えさせられる。それが人生の境目であれば、そこに存在して
いた自分の心が、そのまま焼きついている。もっともっと、書き残しておけば
良かったが、後の祭り。その点で、ブログは重要な働きがある。

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4937,閑話小題 ー娑婆は苦しいと思うが・・・
2014年09月20日(土)
   * つれづれに 〜厳しさを増す娑婆
 土地を含めた2億の資本で創業、30数億の箱物事業を楽しめた実感がある
ため、それぞれを立ち上げ、軌道に乗せた段階で元を取っていた実感がある。
これは、実際に経験しないと、理解できないだろうが。
『それにしても面白かった!』という感覚は、後味を良くする。
それと、「立つ鳥、後を濁さず」もある。傍から見れば濁していたのだろう。 
最初の依頼時に「綺麗に事業を終えたい」に対し、弁護士が言ったのが、
「綺麗汚いは有得ない。あるのは、良い倒産、悪い倒産だけ!」終えて振返ると、
まさに、そのとおり。 前もって最悪の事態に整えていれば、目先は好調だが、
備えのない事業体より、遥かに良いと思うが?危機管理のある中小は、私の知る
限りで一割もないのでは。今さら遅いとしても、『事前の一策は、事後の
100策より勝る』で、やれることは、しておくべきでないか。ここで、
円安になってきたのは、日本の政治体制の甘さが表立ってきた要因もある。
更なる消費税2%アップが、消費低迷で、怪しくなってきた。以前の事業で、
この3%の消費税アップと、灯油等の値上りは、厳しいはず。会社も、家庭も、
支出を更に絞めてくるためだ。アベノミクスで、公共事業は潤っているようだが、
この不況下、甘い仕事は少なくなっている。この三年半の間、経営に疎い家内の
口癖は「事業を早々、断念して良かった!」。SC内の店の転廃業や、スーパー
の店頭に値動きから、その厳しさが分かるという。分かった
ようなことを書いているが、実際、ソフトランディング出来たのは、紙一重。 
事業など、まして創業など、すべきでない!
『元手の2億を地道に5億にするより、30数億に膨らまして楽しみ、使い
果した人生も悪くない』と、独り嘯いている私も、バカそのもの・・ そう思う
しかないし、その甘塩っぱい感覚の日々。箱物事業には、有余ったオマケ(時間)
があった! そのオマケを最大限に楽しんだ収穫が、『ま、これでもいいか!』。
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4570, 変えてみよう! 記憶とのつきあいかた ー5
2013年09月20日(金)         
 * 万能薬としての「語り直し」   
        『変えてみよう! 記憶とのつきあいかた』高橋 雅延(著)  
 実際に、その立場にならないと見えてこないことが殆どである。だから、
上に立つものほど多くの経験を要する。一線から退いてみて、事業目線から
みた社会と、そのバイアスから解き放されてみえてくる社会とは大違い。
人それぞれが自分に都合の良い物語を作っている。「盗人にも三分の理」と、
最初から見切ればよい。「記憶は嘘をつく」というが、元々、記憶する
以前の事象を都合良く解釈している。その記憶を変えるためには、語り直しを
するしかない。早稲田二部(夜間)があった学生時代に、寮の隣部屋の友人に
彼女が出来たところ、急にアルバイトを始めて苦学生に変身したのである。 
彼女に二部在学の言い訳のため、これも、語り直し? まずはー次の箇所から
≪ 自分が親になって初めて親の苦労がわかるとか、教える立場になって
 初めて教える者の大変さがわかる、などと言われることがある。どちらも、
親となり教える立場にいる私自身にとっては、心の底から納得できることだ。
つまり、その人の立ち位置によつて、同じできごとでもちがって解釈できる
のである。そのため、過去のどんなできごとも、必ずちがってみることが
できることを、肝に銘じておくことが必要だ。その上で、ある過去のできごと
について、その意味づけを変えるためには、そのできごとを、それまでとは
違うことばで語り直さなければならない。世間には「時間が癒す」という
言いまわしがある。そこで、見過ごされがちなことだが、「時間が癒す」のは、
単に時間が過ぎ去るからではない。時間が過ぎ去る間に、人はそのできごと
について何度も考え、悩み、さらには新しいことをする。このことによって、
元のできごとの意味づけ、語りかたが変わるからなのだ。 私は、くも膜下
出血で倒れる二年前に、アキレス腱断裂により、ニカ月間、松葉杖の生活を
送ったことがある。どこに行くにも、何をするにも、苦労ばかりの辛い日々。
しかし同時に、あのとき数々の苦労を重ねる中で、障害をもつ人の気持ちが
少しは実感できた。その意味で、後からは「よい経験だった」と語り直している。
もちろん、くも膜下出血の体験も同じだ。あのできごとがなければ、
それ以前の私と同じように、命や人生について深く考えることもなく、
生きていただろう。そう思うことで、今となっては「あの体験こそ、自分に
とってかけがえない宝物だ」と、胸を張って語り直すことができる。 
 最後に、フランシス・マクナブという臨床心理学者の言葉を引用しておく。
できれば、何度も繰返し味わってほしい。「記憶をつくり変えたり、それを
遠ざけたりするのは無理なことである。 略)…しかし、つねに私たちは、
自分の苦悩、自分自身の内的経験、自分自身の精神の経過を処理しているわけ
である。それは過去とよばれる客観体ではなく、現在とよばれる主観的経験。
変える必要があるのは、誰か他の人間ではない。最も大きく影響されるのは、
私たち自身。記憶をぬぐい去ることはできないが、記憶の有りようを変える
ことは可能であることを、私たちは知っている。」 》
▼ 私も色いろあって、思いもよらない結果、オセロの白が、全て黒になった
 ようなもの。そこで現在、過去の要素を元に物語を語り直しを独りしてきた。
これこそ、「日々是好日」から、「ヒビ、これ口実」の辻褄合わせ。
その辺りの自分の心の浅ましさがいじましい。それも、自覚をしていれば
良いが、全く自覚なしでやるのが人間。 
・・・・・・
4195, 呪いの時代 ー12
2012年09月20日(木)                     
 * 「片づかなさ」の人間性     
               ー第8章 これからを生き延びる智恵
贈物を貰った場合、何かを返さない限り気持ちの中に、「片づかなさ」が残る。
これが人間社会とサル社会との差。私はビジネスの場面で、それを徹底して
カットしてきたが、私的場面でも何時の間に持ち込んでいたようだ。
これが、つくづく間違いだったと反省していること。結局、人との付き合いは
贈り贈られで成り立っている。 それにしても「贈り物」とそれに対する
「反対給付(お返し)」が、人間たる由縁とは。以下は ーその辺の抜粋ー
≪ 人類学者マルセル・モースはその著書『贈与論』のなかで、贈与論の主題
 を端的にこうまとめています。「受け取った贈り物に対して、その返礼を
義務づける法的経済的規則は何であるか。贈られた物に潜むどんな力が、受け
取った人にその返礼をさせるのか」 モースも、マリノフスキーも、
レヴィ=ストロースも、「贈り物」とそれに対する「反対給付」が人間集団を
形成する本質的なカだとみなしている点では共通しています。贈り物をされると
「お返し」をしないと気持ちが片づかない。人間性とは、すべての装飾を剥ぎ
取って言えば「贈り物をもらうと、お返しをしないと『悪いこと』が起きそうな
気がする」という「負積感」のこと。いや、ほんとに。だから、この「負債感」
を持たないものは人間ではない。そう言い切っていいと思います。
「贈り物」というと、僕たちはふつうお中元お歳暮のようなかたちのあるもの、
価値のあるもの、実用性のあるものを思い浮かべます。でも贈り物はそれには
尽くされません。というか、贈り物というのは「価値あるもの」を贈ることでは
ないからです。そうではなくて、「これは贈り物だ」と思った人がそう思った
瞬間に価値は生成する。そういうふうに順逆の狂ったかたちで贈与という
儀礼はつくられる。例えば、挨拶というのはある種の贈り物。
   (字数制限のためカット 2015年9月20日)