ー「ルーツ大全」インフォペディア編 より
   ● グレルの語源
 <グレルの語源は平安時代の「貝合わせ」という遊びからきている。ハマグリの貝殻を二つに分け、ピッタリ合うものを
 探す遊びである。これが意外と難しくてナカナカあわない。ここから、しっくりこないことをハマグリの倒語、ハマ・グリ 
 ー>グリ・ハマとなり、そのうちグレだけ残って動詞化し「グレル」になった。この言葉、江戸時代には一般に使われていた。>
▼ 最近、あまりグレルという言葉を聞かなくなった。ここで知るまでは、愚連隊のグレからきていると思っていたが、
 愚連隊の愚連が、グレの当て語でったことになる。青少年期にグレタの者に、全うな?人生を過ごしたのは、少ない。
 人生の基本が出来てないのは、その後で立て直すのは難しいということ。10歳で人生の限界が決まってしまう説がある。
     〜〜
   ● へべれけの語源はギリシャ神話から
 べろんべろんに酔った状態を「へべれけになる」というが、飲みすぎて正体を無くした状態にピッタシである。
一説によるが、ゼウスの娘にちなんだへーべ・エリュケーションからきている。エリュケーションは、お酌をすると
いう意味になっている。オリンポスでは、へーベがお酌をするのが習わしで、若くて美しい美人。しかも、ゼウスの
娘なら、つい杯を重ねてしまう。 神々は前後の境なく酔いつぶれてしまう。「へーべ」「レリュケーション」すなわち
「へべれけ」という言葉が生まれた。他にも、「へ」と「べ」の区別がつかなくなり、へべれけが生まれたという説がある。
 ▼ 「へ」と「べ」の見境がつかない説もよいが、女神へーべの酌で神々が泥酔した説も面白い。飲み屋のネタに丁度良い。
  スナックに行くのは、へーべを求めて酔いたいためだ。へーべはいないが、へーべ風はいる。居酒屋で酔った後に
  行くのは、幻想を求めるため。 
 ・・・・・・
3870, 品行の悪いのは直るけど、品性の悪いのは直らねぇ!
2011年10月30日(日)
 映画監督の山本晋也の、ある雑誌の手記にあった言葉だが、言い得て妙である。 
  まずは、その概略を書いてみる。
≪ 小学校1、2年生の頃、友達と「鞍馬天狗」のかかっていた映画が見たくて、トイレの窓から友達4人と侵入したが、
支配人に捕まった。「先に入った友達がいるはずと、教えれば許す」という条件を出されたが、「友達はいません、僕一人です」と、
言い通した。そのため警察に突き出され、父親が引き取りにきた帰り道に、引っ叩かれた後に「ろくでもねえことをしやがって、
でも、お前さん、友達を売らなかったてぇのは、偉い。品行の悪いのは直るけど、品性の悪いのは直らなぇっていうからな。覚えてけ!」
「品行」という言葉の意味は、大人が使っていたので何となく分かったが、「品性」という言葉の意味は暫くわからなかった。
ただ、その中で、親父が友達を売らなかったことを褒めてくれた、雰囲気は伝わった。自分は成人映画を撮り続けて250本になる。
その上に、深夜番組で風俗レポーターを21年もやったが、一度として歌舞伎町で浮遊したことはない。それもこれも、親父の、
この江戸弁がきいている。 ≫ 
 ▼ 事業を40年近く携わってきて最後は、この結果に終わった。色いろあったが、法律はスピード違反なら10キロオーバーまで。
  綺麗ごとだけでは済まされないのが事業だが、その辺のことは守ってきた。 何事も契約は遵守。 自分の心にとってやましいことは、
  やらない信念は持ってきた。この倒産劇で多く非難をされたと思うが、自分では結果に対し納得しているので、冷静でいられた。 
  確かに品行は良いとはいえないが、品性が悪いとは思ったことはない。 いや、酒癖が悪いから、第三者からみたら最低の品性か。
  「国家の品格」、「女性の品格」とかいう類の本では、品性の部分では、ほぼカバーをしていた。
  そこでは自己確立が出来ているかどうかが、問われている。 人を悪し様に言っている人たち、陰口しか言えない人たちの、
  劣性などが羅列してある。 もっとも立場変われば、見方が全く違うもの。誰も自分にはあると思っているが、実はないのが品性。
  大たい2ランク上の自己評価をするから、お笑いになる。 自嘲? それもこれも比較の問題になる・・ 今さら品性と言われても!
  ・・・・・・・・
3505, フューチャリスト宣言 ー3
2010年10月30日(土)
  「フューチャリスト宣言」梅田 望夫 , 茂木 健一郎 (著)
  * 楽しくてしょうがないというやつしか勝てない
  ー まずは、茂木の日米の教育の基本的考え方の違いから ー
 茂木:日本の教育では基本的に「範囲」があって、『正しい範囲』を押さえた人が、最終的に大学入試に受かる。
ところがアメリカの高等教育は違う。・・・アメリカの教育は最初から偶有性(何が起こるか分からない)の海の中に生徒たちを
放り込むしかない。とにか「自分の好きなことを勝手にやりなさい」と。しかし個々人が好きな方向にとんがるとは言っても、
やはり何らかの基準がないと困るので、ナショナル.ミニマムとしてSAT(大学進学適性試験)がある。基本的に放し飼いなので、
最低限のベーシックな問題しか出さない。日本の大学入試みたいに、囲い込まれた世界で人工的な受験技術を磨く必要は
まったくなくて、それぞれが勝手な方向に突き進んでいるので、共通項としてはミニマムにならざるをえない。
ともかく、僕は公式的な正しい範囲なんて本来ありえないと思っています。だから、日本の教育の本質は「談合」であると思う。
・・(略)つまりアメリカでは、とんがらせる方向というのは人によって異なる。たとえば人によっては、それこそ高校の時から
量子力学まで進めるかもしれないし、歴史を深く掘り下げたいという人もいるかもしれない。それに対し、日本は、ここまでの
範囲しか勉強をしてはダメといって、人工的に競争をさせようとする。 どちらが良いかは、アメリカが良い。
・・・(略)それでも「とんがっていいんだよ」ということが、最近では感覚としてみんなに受け容れられてきた気がしてきた。
 ▼ アメリカの教育システムがベストという訳ではないが、私がミッション系の大学に入って感じたことは、小学校、中学校、
 そして高校から一貫教育できた連中の自由闊達さに、まず驚かされた。他の都会育ちもいるが、地方の連中が、あてがわれた
 受験勉強(大学進学適正試験)に多くのエネルギーを奪われているうちに、彼らはジャズバンドに、ゴルフに、服飾に、遊びに、
 自由の空気を満喫していたのである。現在考えてみて、その差があまりに大きかった。当時は、それほど感じなかったが。
 それで「とんがるように生きてきた」が、このザマ。 先が歪んでいたから?・・・でも、とんがると、娑婆は面白くなる。
 その自由闊達が社会に出たとき、そのまま世渡りにプラスになっている。それぞれ一長一短はあるが、
 グローバル化は、「とんがり」が求められるのである。 実は、心の奥は毎日が面白くて仕方がない? いや、そうでもない?
 「面白くなき世を、面白く」の意味が、歳を重ねていく上でシミジミと分かりかけてきた、ということ!
 ・・・・・・・・
3130, 閑話小題 ーつれづれにー
2009年10月30日(金)
   * PDP・TVとDVD購入から7年経過の感想
  購入7年経過の感想といえば、50インチの大きさと画面の明るさと鮮明さが良かったことである。
 特に映画と相撲やボクシングなどの迫力が圧倒的になる。それと海外各地の紹介番組も、現地に居るような錯覚にさせる。  
 ただし、長時間見ていると疲れる。 購入メーカーのパイオニアがPDP・TVより撤退をしたが、製品としては合格。
 7年経っても、現在の薄型TVに見劣りをしていないところは、さすがに日本のメーカーである。
 TVと録画機は8年を目安にしているので、TVはあと一年だが、三年位は持ちそうだ。
 その時は、液晶の65インチのつもりだが、そろそろ液晶とは違う画期的なTVが出はじめている。
  で、現在、薄型液晶を買おうと迷っているなら、50インチ以上をお勧めする。結局は画面の大きさだが、
 部屋の広さもあるから一概にはいえない。メーカーは、どこも同じようなものだが、敢えていうならソニーか、シャープ。
  * 経済の二番底が近くあるのか?
 9月に入ってから、地場から聞こえてくる経済の様子が変のようだ。 しかし新潟駅周辺は9月下旬の国体と
 身障者のスポーツ大会、5連休の観光客のために賑わっていたが、10月半ばから一挙に元に戻ってしまった。
 このところ半年に一度は、こういう雰囲気にはなるが、銀行や会計事務所の話や取引先の話を聞くと、
 今度は本当に追い詰められてしまったところが多いという。 年末年始は大荒れ、の予測が前からあったが、
 その余震が9月から始ったということだ。 当方は、冷夏のマイナスを9月、10月で何とか取り戻したので、
 何とか二月決算の数字は予定通りの目安はたっているが・・・。 年末・年始は二番底に?。
  * 「足腰の痛み」か〜 
 NHKのクローズアップ現代の10月27日(火)放送「あなたの関節は大丈夫?」〜ロコモティブシンドロームの脅威〜
 を食い入るように見てしまった。  その内容とは《(NHKのHPより) 手すりにつかまらなくては階段を上れない、
 横断歩道を青の間に渡りきれない…。 足腰の痛みなど自覚症状がほとんどない人も含め、骨や関節に問題を抱えている人が、
 全国でおよそ4700万人もいるということが、厚生労働省研究班の調査から明らかになった。原因は、ヒザや腰の関節を支える
 軟骨がすり減っていたこと。こうした運動器の障害はロコモティブシンドロームと呼ばれ、"寝たきり予備軍"と受け止められている。
  (以下、字数の関係でカット、2008年10月30日
 ・・・・・・・・・
2765, こころと脳の対話 −1
2008年10月30日(木)
「 こころと脳の対話 」  河合隼雄 茂木健一郎 著  (潮出版社 )             
ー概要ー
  月刊誌上の3度の対談を再構成した本である。脳科学者・茂木健一郎が作る「箱庭」を
  ユング派分析家・河合隼雄が分析。脳科学心理療法は現代人の苦悩を救えるなどを議論している。
第1回 こころと脳の不思議(ユングは人間の何を見ようとしたか
   ;学生時代の箱庭体験;安易に「言語化」することの怖さ ほか);
第2回 箱庭と夢と無意識(箱庭のなかの「生」と「死」
   ;「わからない」ことを大事にする;ニワトリが牛耳る不思議な世界 ほか);
第3回 「魂」を救う対話(脳治療の倫理的課題;脳科学に限界はあるか
   ;夢のなかで「意味」がつながるとき ほか)
  −−
 まずは第一回「こころと脳の不思議」の《夢の意味を自分で考えてみる》から・・箱庭の解釈が印象的である。
 私も時々、前夜みた夢を雑記帳に書きだすが、後で読み返すと非常に面白い。
 これは箱庭の話だが、箱庭は意識と無意識の、少し意識よりの世界を表現するという。
 私の事務所の部屋の横に、秘境ツアーで買って来た小さな人形がある。
 それだけでなく、母が旅先で買ったものや、子供が小さな頃に買ったものもある。
 考えてみたら、この棚そのものが、箱庭ではないか、脈絡は有って無いような。
 母、私、そして息子の三代の小さな人形が百個位詰まっている。
 そこで時々、気の向くまま7〜8個、白い用紙の上に並べてみようかと思っている。
 そして、ジッと見ているうちに何か不思議な世界に、入り込んでしまうような気がする。
 それはそうだろう、南アフリカ喜望峰で買ったサイの像と、ケニアのマサイ族と、子供が買ってきた
 ディズニーランドのミッキーマウスなどが、白紙の上で並べば、そこに深層の何かが見えてきて当然である。
ーP・19
茂木 僕がやった箱庭は、いまでも覚えてますけれど、やっばリ砂でした。僕はそのころ、内向的というか、
  知らない人としゃべりがあまりできなくて。 あるとき、箱庭で、村でお祭りをやっていて、
  山にサルが一匹いて、木の上からそのお祭りを見ている、というのをつくったんです。
茂木 どういうことか、と聞かれたので.「僕はこのサルで、そのお祭りのなかにまでは行きたくないんだけど、でも一人で、
  こうやって楽しそうな様子を見ているのが好きなんだ」というようなことをいって。そのころの心象風景だったんですね。
河合 その、祭りを見ているサルですね。それは、客観的に祭リを観察している自分というのと、それからサルで典型的なのは
  孫悟空ですね。将来、大活躍する可能性とか、あるいは仏道に入っていくような宗教性や精神性とか、そういうものを
  全部もっている存在としてそこにいるんですよ。それで、いたたずらもするしね。それって、すごくおもしろいですね。
茂木  なるほど、その「サル」というところがポイントなんですね。
 ーP・23
河合 わかりやすくいうと、僕らが生きているということ自体、ものすごく無理をしているわけでしょう。
  それを無理しているだけではもたないかち、寝たときに調整するわけです、全体性のなかに。
  その全体性のなかに調整する動きを、脳のなかで視覚的に把握したものが夢ではないかと、僕はそう思ってるんです.
(以下、字数の関係でカット、2008年10月30日
・・・・・・・・・・
2007年10月30日(火)
2401, こころの旅 ー5         ('-'*)オハヨ♪
  ―カリール・ジブラン『預言者
      「子供について」       −読書日記
赤ん坊を抱いたひとりの女が言った どうぞ子どもたちの話をして下さい
(それで予言者は言った)
あなたがたの子どもたちは あなたがたのものではない 彼らは生命そのものの あこがれの息子や娘である
彼らはあなたがたを通して生まれてくるけれども あなたがたから生じたものではない
あなたがたは彼らに愛情を与えうるが  あなたがたの考えを与えることはできない
なぜなら彼らは自分自身の考えを持っているから。
あなたがたは彼らのからだを宿すことはできるが 彼らの魂を宿すことはできない
なぜなら彼らの魂は 明日の家に住んでいるから。
あなたがたは彼らのようになろうと努めうるが 彼らに自分のようにならせようとしてはならない
なぜなら生命はうしろへ退くことはなく いつでも昨日のところに うろうろ ぐずぐずしてはいないのだ
あなたがたは弓のようなもの その弓からあなたがたの子どもたちは
生きた矢のように射られて 前へ放たれる 射る者は永遠の道の上に的をみさだめて
力いっぱいあなたがたの身をしなわせ その矢が速く遠くとび行くように力をつくす
射る者の手によって 身をしなわせられることをよろこびなさい
射る者はとび行く矢を愛するのと同じように じっとしている弓を愛しているのだから
 解)
この詩は味わい深い意味がある。 子供に対して全ての親が理解しておかなければならない基本の姿勢である。
(以下、字数の関係でカット、2011年10月30日)
・・・・・・・・
2006年10月30日(月)
2036, 躁鬱病について −4
                       (。^0^。)オッ(*^○^*)ハ〜
 一昨日、図書館の棚を眺めていると、たまたま小川宏の「夫はうつ、妻はがん」という本があった。
丁度、うつ病について書いていたのでさっそく借りてきた。経験者が在りのままを書いているので、一言一言が深い。
きっかけは軽重あるが、そう簡単に「うつ病」になるものではない、それぞれの人生の積み重ねの結果に生じるのが病。
この本を読んでいると、うつ病になるべくしてなったのが理解できる。 病気になりかけたら、体験者の本が一番よいが、
そういう人は、その余裕や意欲が無い人が多い。
  まずは彼の談から・・・
「夫はうつ、妻はがん」 ―夫婦で苦境を踏み越えて   小川 宏 (著)
  *「うつ病」完治は家族の絆あればこそ
 平成3年、私は不意に全身の倦怠(けんたい)感に襲われました。
 原因がわからず苦しい日々が続いたある日、ついに自殺未遂を起こしてしまいます。
 そして「うつ病」が発覚、3カ月の入院生活を余儀なくされました。
 その体験をテレビ番組で公表したところ思いがけず大きな反響を呼び、同じように悩んでいる方が
 全国に多くいることを知りました。 元々私は、30年来の糖尿病とそれに伴う糖尿病性網膜症をはじめ、
 腎臓結石、気管支拡張病など病気とは縁の切れない生活をしてきました。
 そこにうつ病です。ストレス社会の現在、うつ病は“心の風邪”とも言われ、誰がかかっても、
 おかしくない病となりましたが、社会の偏見を恐れて病院にかかることをためらう人は今でも少なくないようです。
 本書では、そんな方やご家族に向けて「うつ」を防ぐ方法や、かかった場合の対処法などを私自身の体験と取材を含めて
 書かせていただきました。
  (以下、字数の関係でカット、2008年10月30日
 ・・・・・・・・
2005年10月30日(日)
1671, 「全ての装備を 知恵に置き換えること」−2

「全ての装備を 知恵に置き換えること」は考えるほどに深い言葉である。
‘ハードを、ソフトに置き換える’‘色即是空、空即是色などが直ぐ思い浮かぶ!
  (以下、字数の関係でカット、2009年10月30日)
・・・・・・
2004年10月30日(土) 1306, 究極の観光旅行
  (以下、字数の関係でカット、2008年10月30日)
・・・・・・・
2003年10月30日(木)
939, ゲーム理論 −1
 一昨夜、コンサルタントの林さんと酒を飲んで「ゲーム理論」の話題が出た。ほとんど忘れたこともあり、
ゲーム理論」をインターネットで検索して調べてみた。また本を読み直してみた。なるほど勉強になる面白い理論である。 
一般的にゲームというと、「目標を決め、途中に難関を置き、それを乗り越えながら達成するプロセスを、第三者か自分自身と
競う事を楽しむこと」であるが「ゲーム理論」というと少し違ってくる。
ー要点を書いてみるとー
「『勝つ』ためには‘損切り’をして『負け』をへらす!」が一番のポイントと思われる。
ゲームと仕事に勝つための4原則は
・『勝利』より『損切り』を重視する
・裏切りによる勝利は長続きしないことを知る
・相手も自分と同様に利益を求めていると知る
・あらゆることが起こり得ることを知る である。
ゲーム理論では「相手の存在』が不可欠である。 ゲーム理論は数学理論をもとにしている。 
その大前提は、『自分』と『相手』がいて、それぞれが「合理的・利己的」に「最適な状態」を目指すことにある。
かけひき上手を競うのが「ゲーム理論といってよい。
 ゲーム理論で考えられる世界は、100人が100通りの答えを持ち、相手の存在と立場を見ながら戦略的に手を打つ。
  (以下、字数の関係でカット、2009年10月30日)
・・・・・・・・・
565、ある逸話ーインドで見たこと
                - 2002年10月30日(水)
 インドの空港で帰国の時である。修行僧のいでたちの男、杖一本をつきながらやって来た。
素足で身に付けているののはパンツ一枚である。それで飛行機に乗ろうというらしい。
急を聞きつけた警察が数十名が周りを取り囲んだが誰も手を出せない。
空港の制服の女の人が間に立って説明をしているが、どうしても折り合わないのだ。
パスポートも持たないでパンツ一枚で国際線に乗ろうとしているのだ。
恐らくカースト制で身分が高いのだろう、素裸の男の態度がでかい。大声で入国査察官を怒鳴りつけているのだ。
恐らく「神の指示で乗れといわれたのに何故乗せぬ」と言っているようであった。
最後の結末をみないで飛行機に乗ったが、インドの社会を最後まで見せ付けられた出来事であった。
インドは普通の感覚では考えられない身分社会なのだ。牛が堂々と街を我が物顔で歩いているのだ。 
宗教上で神聖な生き物なのだ。以前にも書いたが、20?のある階級は餞民で人間とみなされないのだ。
交通事故死でも警察が取り合わないという、牛なら騒ぎになるが。
実際その経験談を読んだ事がある。一度はこういう社会を見てみるのも必要な事だ。
  −4年前に書いた文章をコピーしておきます。
   −−−−−−−−−
10/11  インド旅行記 ー私のみた北インド 
“ インドとは...”など滞在一週間のツア−では表現できない。
 面白いほど多様な国である。まず印象を列記してみよう。
  (以下、字数の関係でカット、2008年10月30日)
・・・・・・
「203」夢ー11  2001/10/30
 五〜六年前にみた夢で忘れられないのが、自分の葬式の祭壇を見たことだ。学生時代住んでいた部屋であった。
久しぶりに寮の自分のいた部屋を覗くと、それがあった。恐らくもう‘あの時の自分がもう終わってしまった’という
シグナルだったのではなかろかうか。 何か変な奇妙な印象が残っている。 どんどん変わっていく中で変わらないのが過去だけだ。
しかし夢でさえ、もうあの時の自分は消滅したといってくる。 それから一年に一度位見ていた寮の夢をほとんどみなくなった。
 ーまたこんな夢もみた。
中東?の兵隊の自分が絞首刑になる夢である。7〜8年前か。それを当人になっている自分と、それを上から見ている自分がいた。
その瞬間もう一人の違う自分に移り、やはり絞首刑を経験する夢である。
いやに茶色の埃っぽいイメージが残っている。その前に確か廃墟の建物を訓練で数人と昇っていた。
 非常にリアルな、前世の自分の過去霊をが夢に出てきた?感覚であった。
これとは全く違うと思うが、瞑想をしていると、突如「タジージーダ」という人の名前?が突如出てきた。
「なんだこれは?」と今でもそれが何かわからない。情報のシャワーの中で、脳が勝手にある単語を吐き出したのだと思われる。