つれづれに

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 プロ野球は、日本ハムの優勝で終わった。
実力の日本ハムと、勢いの広島の闘いだった。
一時間ほどみて寝入っていたので、翌日になって、
結果がわかる日々だった。 

 
ーーーーーー
2765, こころと脳の対話 -1
2008年10月30日(木)
   「 こころと脳の対話 」河合隼雄 茂木健一郎 著(潮出版社 )             
ー概要ー
  月刊誌上の3度の対談を再構成した本である。
  脳科学者・茂木健一郎が作る「箱庭」をユング派分析家・河合隼雄が分析。
  脳科学心理療法は現代人の苦悩を救えるなどを議論している。
第1回 こころと脳の不思議(ユングは人間の何を見ようとしたか
   ;学生時代の箱庭体験;安易に「言語化」することの怖さ ほか);
第2回 箱庭と夢と無意識(箱庭のなかの「生」と「死」
   ;「わからない」ことを大事にする;ニワトリが牛耳る不思議な世界 ほか);
第3回 「魂」を救う対話(脳治療の倫理的課題;脳科学に限界はあるか
   ;夢のなかで「意味」がつながるとき ほか)
  --
 まずは第一回「こころと脳の不思議」の《夢の意味を自分で考えてみる》から・・ 
箱庭の解釈が印象的である。私も時々、前夜みた夢を雑記帳に書きだすが、後で読み返す
と非常に面白い。これは箱庭の話だが、箱庭は意識と無意識の、少し意識よりの世界を
表現するという。私の事務所の部屋の横に、秘境ツアーで買って来た小さな人形がある。
それだけでなく、母が旅先で買ったものや、子供が小さな頃に買ったものもある。
考えてみたら、この棚そのものが、箱庭ではないか、脈絡は有って無いような。
母、私、そして息子の三代の小さな人形が百個位詰まっている。
 そこで時々、気の向くまま7~8個、白い用紙の上に並べてみようかと思っている。
そして、ジッと見ているうちに何か不思議な世界に、入り込んでしまうような気がする。
それはそうだろう、南アフリカ喜望峰で買ったサイの像と、ケニアのマサイ族と、
子供が買ってきたディズニーランドのミッキーマウスなどが、白紙の上で並べば、
そこに深層の何かが見えてきて当然である。
ーP・19
茂木 僕がやった箱庭は、いまでも覚えてますけれど、やっばリ砂でした。
  僕はそのころ、内向的というか、知らない人としゃべりがあまりできなくて。 
  あるとき、箱庭で、村でお祭りをやっていて、
  山にサルが一匹いて、木の上からそのお祭りを見ている、というのをつくったんです。
茂木 どういうことか、と聞かれたので.「僕はこのサルで、そのお祭りのなかにまでは
  行きたくないんだけど、でも一人で、こうやって楽しそうな様子を見ているのが
  好きなんだ」というようなことをいって。そのころの心象風景だったんですね。
河合 その、祭りを見ているサルですね。それは、客観的に祭リを観察している自分と
  いうのと、それから、サルで典型的なのは孫悟空ですね。将来、大活躍する可能性とか、
  あるいは仏道に入っていくような宗教性や精神性とか、そういうものを全部もって
  いる存在としてそこにいるんですよ。それで、いたたずらもするしね。
  それって、すごくおもしろいですね。
茂木  なるほど、その「サル」というところがポイントなんですね。
 ーP・23
河合 わかりやすくいうと、僕らが生きているということ自体、ものすごく無理
  をしているわけでしょう。それを無理しているだけではもたないかち、寝たときに
  調整するわけです、全体性のなかに。その全体性のなかに調整する動きを、脳の
  なかで視覚的に把握したものが夢ではないかと、僕はそう思ってるんです。
   だから夢を見るということ自体が.ものすごい大事なことなんですね。
  それは解釈しなくてもええぐらいなんだけれど、解釈したほうがおもしろいと。
  いろいろ役にも立つし。夢をつぶしたら、だんだんおかしくなってきますね。
  だから夢というものは.生きていくために必要なものだと僕は思っているわけです。
  それは一種の調整作用みたいなもの。 だからその人にとっては、ある程度盲点
  みたいなことを見せられることが多いので、夢を見た本人にはわからない場合が多い。
  自分ではね。
河合 だからおもしろいんですよ。人の夢はわかるんですけれど、
  自分の夢はわかりにくいです、やっぱり。
茂木 それはちょっと、目からウロコですね。じゃあ、夢分析というのは、
  他人がやらないとだめだということですね。
河合 自分ではわかりにくい。だから、明恵は天才ですね。すごい天才やと思います。
  本当に、世界に誇るぐらいの。遊木自分を外から見るという視点も、同時にもちえた。
河合 ええ。あるいは、それを誰かにしゃべっていたのかもわかりませんね。ユング
  いってますけれど、やっぱり誰かにしゃべったほうがいい。ただし、信頼できる人。
  で、その人はなにもいうてくれなくていいと・じっくり聞いてくれたちいいんやと
  いってますね。ユンクにも聞き役の、信頼できる女性がいたし、フロイトの場合も
  ちゃんと相手がいたわけですね。そういうふうに、やっぱり誰か他人の目が入らない
  と、自分だけではむずかしいですよ。ただ、僕らは長いあいだやってるから、
  もうだいぷできますけどね。自分の夢でもある程度はわかります。
茂木 その盲点というのは、どういうことなんですか。 たとえば、私は最近、イギリス
  に留学していたときの夢を見て、そして目が覚めたときの感覚というのは「最近、
  なんだかちょっと日本の社会と付き合いすぎてて、疲れてるんだ」
  ーーー
 解)「生きていること自体が、ものすごく無理をしている」そのことを理解すれば、
  遊びと、学びと、仕事と、真空、のバランスが必要ということが分かる。その一日
 単位の調整が夢というのも面白い。7年前の同日、夢について書いてあった。
       (「203」夢 2001年10月30日)
                               ーつづく
・・・・・・・・・・
2007年10月30日(火)
2401, こころの旅 ー5
                 ('-'*)オハヨ♪
  ―カリール・ジブラン『預言者
   「子供について」       -読書日記

赤ん坊を抱いたひとりの女が言った どうぞ子どもたちの話をして下さい

(それで予言者は言った)
あなたがたの子どもたちは あなたがたのものではない 彼らは生命そのものの 
あこがれの息子や娘である

彼らはあなたがたを通して生まれてくるけれども あなたがたから生じたものではない

あなたがたは彼らに愛情を与えうるが  あなたがたの考えを与えることはできない
なぜなら彼らは自分自身の考えを持っているから。

あなたがたは彼らのからだを宿すことはできるが 彼らの魂を宿すことはできない
なぜなら彼らの魂は 明日の家に住んでいるから。

あなたがたは彼らのようになろうと努めうるが 彼らに自分のようにならせようと
してはならない  なぜなら生命はうしろへ退くことはなく いつでも昨日の
ところに うろうろ ぐずぐずしてはいないのだ

あなたがたは弓のようなもの その弓からあなたがたの子どもたちは
生きた矢のように射られて 前へ放たれる 射る者は永遠の道の上に的をみさだめて
力いっぱいあなたがたの身をしなわせ その矢が速く遠くとび行くように力をつくす
射る者の手によって 身をしなわせられることをよろこびなさい
射る者はとび行く矢を愛するのと同じように じっとしている弓を愛しているのだから
 
ーーー
解)
この詩は深い意味がある。 子供に対して全ての親が理解しておかなければ
ならない基本の姿勢である。子供に対する責任があるが、それはあくまで自立に
対するトレーナーであるべきで、相互依存のためではない。
ペット的に扱ったり、自分の私物とするのは言語道断。
自分たちを通して子供は生まれてきただけで、自分ではない。
愛情を与えることは出来ても、考えは与えることは出来ない。出来るのは考える、
そして自立できるように導いてやるだけ。
カナダでは、大学に入ると殆ど全ての学費は夏休み、冬休みのアルバイトで稼ぐという。
それが首相や財閥の子供であっても関係なく、もし、親が学費を出していたら、
軽蔑の最たる対象の人間と見做されるという。学生生活から既に自立への訓練になっている。 
親子を弓と矢の関係に例えるのは面白い、親と子供のあるべき関係を述べている。
しかし、これでは弓の的を決めるのは、射るのは、誰になるのか?という疑問がでる。
的は「自立」がということ? 己から遠くに飛ばす、自立させる考え方としては良いだろう。
それにしても、あの親亀(亀田)のエゴなんだろうか? その結果があの子亀達ということか? 
ここで書くことではないが、あまりにも宮沢リエ的?な内容である。             
                             (ゝ∀・`*)ノ))バイ゚
・・・・・・・・
2006年10月30日(月)
2036, 躁鬱病について -4
       (。^0^。)オッ(*^○^*)ハ~

 一昨日、図書館の棚を眺めていると、たまたま小川宏の「夫はうつ、妻はがん」
という本があった。丁度、うつ病について書いていたのでさっそく借りてきた。
経験者が在りのままを書いているので、一言一言が深い。きっかけは軽重あるが、そう
簡単に「うつ病」になるものでない、それぞれの人生の積み重ねの結果に生じるのが病。
この本を読んでいると、うつ病になるべくしてなったのが理解できる。病気になり
かけたら、体験者の本が一番よいが、そういう人は、その余裕や意欲が無い人が多い。
 まずは彼の談から・・・
 --
「夫はうつ、妻はがん」 
  ―夫婦で苦境を踏み越えて   小川 宏 (著)
 
 *「うつ病」完治は家族の絆あればこそ
 
 平成3年、私は不意に全身の倦怠(けんたい)感に襲われました。
 原因がわからず苦しい日々が続いたある日、ついに自殺未遂を起こしてしまいます。
 そして「うつ病」が発覚、3カ月の入院生活を余儀なくされました。
 その体験をテレビ番組で公表したところ思いがけず大きな反響を呼び、同じように
 悩んでいる方が全国に多くいることを知りました。 元々私は、30年来の糖尿病と
 それに伴う糖尿病性網膜症をはじめ、腎臓結石、気管支拡張病など病気とは縁の
 切れない生活をしてきました。そこにうつ病です。ストレス社会の現在、うつ病
 “心の風邪”とも言われ、誰がかかっても、おかしくない病となりましたが、
 社会の偏見を恐れて病院にかかることをためらう人は今でも少なくないようです。
 本書では、そんな方やご家族に向けて「うつ」を防ぐ方法や、かかった場合の対処法
 などを私自身の体験と取材を含めて書かせていただきました。
 私がうつ病にかかったとき、家族をはじめ医療関係の方々など多くの人に助けられ、
 人は決して一人で生きているのではないという思いを噛(か)みしめました。
 病気は生活上の苦しみであって、人生の挫折ではありません。
 妻も子宮頸(けい)がんに加え うつ病に……つらい日々はありましたが、
 そんな経験があったからこそ、いま生きる喜びを感じることができるのだと思います。
 うつ病は必ず完治します。私がその証しです。この本を読んで、うつで悩んでいる方や
 そのご家族をはじめとする皆様に、希望を見いだすヒントとなれば幸いです。
 モーニングショーの司会者だったこともあり、内容は読者の目をひきつけるような
 話題で一杯の本だ。 まあ次回を・・・・ 
                        -つづく
 ・・・・・・・・
2005年10月30日(日)
1671, 「全ての装備を 知恵に置き換えること」-2

「全ての装備を 知恵に置き換えること」は考えるほどに深い言葉である。
‘ハードを、ソフトに置き換える’‘色即是空、空即是色などが直ぐ思い浮かぶ!

ーさらに、この本のポイントになる文章を抜粋する。
「レベルの高い難しいクライミングをいくつもこなした後、何がしたいかを問われた
ある男は言ったそうだ。歩きたい、と。道の方角へずっといつまでも歩いていたい、
そういったんだ。」 この言葉が彼のこれまでの人生を築き上げてきた哲学に思えた。
実践からくる彼の言葉は一言一言重く深く響いてくる。禅坊主の、シンプルと似ている。

ー著者の言わんとする一節があったー
人類がアフリカで誕生して以来、先祖は移動を繰り返してきた。 山を登り、川を越え、
海を渡り、空を駆け、厚さにも寒さにも適応し、今ではジャングルや沙漠、氷河にさえも
人の息吹がある。人間はあらゆる環境に生き延びる野生を持ち、その土地を生き抜く
強い生命力を備えている。あるき続けることによって、肉体も精神も変化をし続け、
その過程であらゆるものはそぎ落とされて、最後には本当に必要な知恵だけが残る。 
人は旅の中で見て、聞いて、考える。厳しいフィールドに身を置いている時に感じる
幸せも、異文化の中で生活している時に感じる幸せも、それは変化を求められること
への喜びなのかも知れない。 自分はまだまだ歩き続ける。
自分にとって、生きるということは旅をすることだ。 それは揺るぎない。

 ーーーー
「全ての装備を知恵に置き換えること」
            石川 直樹 (著)       
石川 直樹
1977年東京生まれ。
高校時代にインドを一人旅して以来、世界中を旅するようになる。
北極から南極までを人力で踏破する地球縦断プロジェクト「POLE TO POLE」、
世界7大陸最高峰登頂の達成など極限を目指すとともに、人類学、民俗学などの領域に
関心をもち、行為の経験としての移動、旅などをテーマに文章・写真作品を発表している

・・・・・・
2004年10月30日(土)
 1306, 究極の観光旅行
  (以下、字数の関係でカット、2008年10月30日)

・・・・・・・
2003年10月30日(木)
939, ゲーム理論 -1

 一昨夜、コンサルタントの林さんと酒を飲んで「ゲーム理論」の話題が出た。
ほとんど忘れたこともあり、「ゲーム理論」をインターネットで検索して調べてみた。
また本を読み直してみた。 なるほど勉強になる面白い理論である。
一般的にゲームというと、「目標を決め、途中に難関を置き、それを乗り越えながら達
成するプロセスを、第三者か自分自身と競う事を楽しむこと」であるが「ゲーム理論
というと少し違ってくる。

ー要点を書いてみるとー
「『勝つ』ためには‘損切り’をして『負け』をへらす!」が一番のポイント。
ゲームと仕事に勝つための4原則は
・『勝利』より『損切り』を重視する
・裏切りによる勝利は長続きしないことを知る
・相手も自分と同様に利益を求めていると知る
・あらゆることが起こり得ることを知る である。

ゲーム理論では「相手の存在』が不可欠である。 ゲーム理論は数学理論をもとにしている。 
その大前提は、『自分』と『相手』がいて、それぞれが「合理的・利己的」に「最適な状態」
を目指すことにある。かけひき上手を競うのが「ゲーム理論といってよい。
 ゲーム理論で考えられる世界は、100人が100通りの答えを持ち、相手の存在と立場を
見ながら戦略的に手を打つ。「生き残り」という至上命題のための戦略、科学体系がこの理論。
 ーゼロサム社会では勝者以外は全て「敗者」である。 いまのような不況は「ゼロサム社会」
とよばれる。ジャンケンのように誰かが勝つと誰かが負けるという二つの和がゼロになる条件下
のゲームを指す。
 ゼロサム社会での特徴は、現状の均衡点どちらにふれても誰かが損をする。
別名、利益の再配分の逆の「損の再配分」といえる。 この結果は「社会の硬直化」だ。
ものごとが決着しなくなり、社会が保守化し、誰も自分の既得権益のみを守ろうとする。

 ゲームに勝とうとするには、「負けを減らす」ことだ。
勝つのではなく、負けた場合の損失を減らすのは消極的に見えるがゲーム理論では最も
重要なことである。「ミニマックス戦略」というこの戦略はこの時代最も重要である。
株式の世界では「損切り」といわれる手法だ。 ギャンブルがうまい人は、自分の利益が
出たときだけ、大穴勝負をする。それも勝ちの一部だけを賭ける。大穴はほとんど外れる。 
それでも利益があがる。一般的には、負けが込んで追い込まれて最後の勝負を確率の低い
大穴にすべてを賭けてしまう。 すべてを失ってしまうのだ。人生は一つの大きなゲーム。
そして事業もだ。 人生の利益とは何であるか、愛か、知識か、力か、お金か、誠実性か? 
事業もしかりである。 拡大か、利益か、社会貢献か?
事業を創業することは、まさしくゲームである。 ゲーム以外の何ものでない。
                   -つづく
・・・・・・・・・
565,、ある逸話ーインドで見たこと
- 2002年10月30日(水)

インドの空港で帰国の時である。修行僧のいでたちの男、杖一本をつきながらやって来た。
素足で身に付けているののはパンツ一枚である。それで飛行機に乗ろうというらしい。
急を聞きつけた警察が数十名が周りを取り囲んだが誰も手を出せない。
空港の制服の女の人が間に立って説明をしているが、どうしても折り合わないのだ。
パスポートも持たないでパンツ一枚で国際線に乗ろうとしているのだ。恐らくカースト制で
身分が高いのだろう、素裸の男の態度がでかい。大声で入国査察官を怒鳴りつけているのだ。
恐らく「神の指示で乗れといわれたのに何故乗せぬ」と言っているようであった。
最後の結末をみないで飛行機に乗ったが、インドの社会を最後まで見せ付けられた出来事であった。
インドは普通の感覚では考えられない身分社会なのだ。牛が堂々と街を我が物顔で歩いているのだ。 
宗教上で神聖な生き物なのだ。以前にも書いたが、20?のある階級は餞民で人間とみなされ
ないのだ。交通事故死でも警察が取り合わないという、牛なら騒ぎになるが。
実際その経験談を読んだ事がある。一度はこういう社会を見てみるのも必要な事だ。
  -4年前に書いた文章をコピーしておきます。
   ---------
10/11  インド旅行記 ー私のみた北インド 
“ インドとは...”など滞在一週間のツア-では表現できない。
 面白いほど多様な国である。まず印象を列記してみよう。
     (以下、字数の関係でカット、2008年10月30日)

・・・・・・
「203」夢ー11  2001/10/30
 
 五~六年前にみた夢で忘れられないのが、自分の葬式の祭壇を見たことだ。
学生時代住んでいた部屋であった。久しぶりに寮の自分のいた部屋を覗くと、それがあった。
恐らく‘あの時の自分がもう終わってしまった’というシグナルだったのではなかろかうか。 
何か変な奇妙な印象が残っている。 どんどん変わっていく中で変わらないのが過去だけだ、
しかし夢でさえ、もうあの時の自分は消滅したといってくる。 それから一年に一度位
見ていた寮の夢をほとんどみなくなった。
 ーまたこんな夢もみた。
中東?の兵隊の自分が絞首刑になる夢である。7~8年前か。それを当人になっている自分と、
それを上から見ている自分がいた。その瞬間もう一人の違う自分に移り、やはり絞首刑を
経験する夢である。いやに茶色の埃っぽいイメージが残っている。その前に確か廃墟の建物を
訓練で数人と昇っていた。非常にリアルな、前世の自分の過去霊をが夢に出てきた?感覚。
これとは全く違うと思うが、瞑想をしていると、突如「タジージーダ」という人の名前?
が突如出てきた。「なんだこれは?」と今でもそれが何かわからない。
情報のシャワーの中で、脳が勝手にある単語を吐き出したのだと思われる。