2008年02月04日(月)
2497, 無くてはならぬもの −5
                   YΘ!!。_゜ヽ(*´∀`)ノ
  佐古純一郎著 「無くてはならぬもの」
 ? 何を信じて生きるのか   ー不信の中の絆ー

この本の中で著者佐古純一郎はー「理解しあうことがあってはじめて信じることができるのではなく、
信じることができてはじめて、理解しあうことできるのである」と述べている。
 P−164で、
人間が、犬と猫と根本的に違うのは、人間が人格的存在としてつくられたためである。
そのことに、どこまで人間はめざめているのだろうか。本能とか、社会における地位や身分とか、
その他いろいろな点で人は千差万別といえよう。しかしそんな差別は、実は何でもないことであり、
人は神様からつくられていることにおいて、まったく平等である。ー と述べている。

ところで、ここからは私の論になるが、信用を逆手にとって言葉を巧妙に操り、
人間の良心を悪用する輩が巷に闊歩している。それは巧妙であるが、所詮は中・長期的に
馬脚を現しているのである。 自分が騙していること自体に気づかないから始末が悪い。
その手法を一番してはいけない相手に対し巧妙に仕掛けるのである。
それも、己の行為が騙しという意識がないから、尚のこと始末が悪い。カントではないが、人間には良心が必要である。
宗教と倫理こそ信じるべき道標である。他人ごとでない自分自身のことでないか。
「これこそ愛である」などと思いは、すべてが勝手な思い込みでしかないのである。
人を愛するなど簡単には出来はしないのである!だから親の愛こそ必要となる。 しかし愛は心だけではなく、
力と知恵が必要となる。以下は、当時の自分の気持ちの中で最も突き刺さった部分である。
 P−183
じっさいは、私たちは善をしようと思う気持ちが切実であっても、そういう自分の意思をそむいて悪をしてしまう。
パウロはそのことを次のように告白している、「自分は善をしようとする意志はあるが、それを行う力がない。
・・・私はなんと惨めな存在なのだろう。だれか、この死の体から、わたしを救ってくれるだろう、」
ほんとうに自分の善をなす力のないみじめさを、このパウロのように、苦悶にまで深く掘り下げないのでないと、
宗教の世界にふれるということはできないかもしれない。宗教などいらないという人は、毎日の生活のなかで、
自分をごまかしているのではないか。自分には他人を愛する力がないのだということに、みじめさを感じるほど、
私たちは、真剣に他人を愛しようとしただろうか。
 ーー
 こういうことを先に気づくか、後で気づくか? 人生は、口先だけでは後で後悔の日々になる!
青春時代の苦悶は、いや人生は、パウロの言葉に収れんする。

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