2008年01月30日(水)
2492, 無くてはならぬもの −3
* ? 惜しみなく愛の悦び! 自己を愛するがごとくー 愛の実存的条件
  ー                          ヽ(★>з<)。o○[ォハヨ]
 P−72
他者を愛するといいながら,けっきょく私たちはいつでも自分を愛しているのではないだろうか。
もっときびしく言うならば、人間はけっきょく自分を愛することしかできないのではないだろうか。
人間にとって愛は多かれ少なかれ悲劇的性格をおびているが、それは私たちが自分しか愛することができないからだろうか。
そこで私は、あの、イエスの決定的言葉に立たされる。「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」
エスは決して、「自分愛さないで」隣の人を愛せよとはいわなかった。
「自分を愛するように」隣人を愛せよといったのである。そんなことが私たちにできるだろうか。
「私の苦悩の殆ど全部は、あのイエスという人の、己を愛するように、隣人を愛せ、という難問一つにかかっている
といっても言いのである」といったのは太宰治であった。太宰はそのことを次のようにあっさり告白する。

ー キリストの汝らは己を愛する如く隣人を愛せよ、といふ言葉をへんに頑固に思ひ込んでしまつてゐるらしい。
しかし己を愛する如く隣人愛するといふことは、とてもやり切れるものではないと、この頃つくづく考へてきました。
人間はみな同じものだ。さふいう思想はただ人を自殺にかりたてるだけのものではないでせうか。
キリストの己を愛するが如く汝の隣人を愛せよといふ言葉を、私はきっと違つた解釈をしてゐるのではなからうか。
あれはもつと別な意味があるのではなからうか。さう考えた時、己を愛するが如くといふ言葉が思ひ出される。 
やはり己も愛さなければならない。己を嫌つて、或ひは己を虐げて人を愛すのでは、自殺よりほかはないのが
当然だといふことを、かすかに気がついてきましたが、然しそれはただ理屈です。
自分の世の中の人に対する感情はやはりいつもはにかみで、背の丈を二寸くらゐ低くして歩いてゐなければ
いけないやうな実感をもつて生きてきました。こんなところにも、私の文学の根拠があるやうな気がするのです。
「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」というキリストの戒め、深く耳を傾けるほど、太宰ではなくとも、
私たちは苦痛に追いやられるかもしれない。なぜならそれは殆ど不可能と思われるからである。
それならキリストは、私たちに不可能なことを実行せよと戒めているのだろうか。
そういうように受け止めることが、既にイエスの心と違った解釈をしているのかもしれない。
私はこのイエスの言葉の中に、愛の実存的条件の奥義が秘められているに思うのである。

当時、聖書を読んでいたから、キリストの「汝を愛すように隣人を愛せ」の、まずは汝を愛すること
価値=意味の重要性に気づいたのだろう。奇麗事など元々キリストは言ってはなかったという佐古の指摘と、
エゴではなく、自分を愛するとは如何いうことか? これが、それからの人生の問いでもあった。
                     (`・ω・。)っノ  バイ!
・・・・・・・・