* キリスト教のアキレス腱
 大自然の働きを、神になぞらえて、共同幻想をつくりあげ、何とか人類は、
ここまできた。モーゼのつくり上げたアラーの神Xも、ユダヤ教キリスト教
そしてイスラム教の神とした共同幻想。しかし、この情報化社会では、共同幻想
の甘さが露呈してきた。 〜その辺りを哲学者は、以下のように表現している。
≪ 西洋といえばキリスト教である。はじめは数人の信徒しか持たなかった
キリスト教が、世界を支配するようになる。これは世界の不思議の一つである。
もっとも宗教というものは、たまたまタイミングがあえば爆発的に流行るもの。
仏教やイスラムにしても最初数人の開祖、信徒は数名であった。
 さて、キリスト教であるが、その教義にはもともと不自然なところがあった。
キリスト教一神教である。しかし、イエスを神とみたため、話がややこしい。
エスは「父なる神に呼びかけている。そうすると神は二人いるのか? 父なる
神とイエスが神なのか? いやいや、そうではないという。神はもちろんお一人
である。父なる神とイエスさまと聖霊は三つのものであるが、しかし、ほんとうは
一つであるという。これが「三位一体説」である。これまで誰もまともに説明
できた人間はいないのである。かのニュートンも、これには悩み、『聖書』を
徹底研究し、最後にはイエスは神ではないという結論に達するのであった。
 よく考えてみよう、もしイエスが神であるとすれば、「生まれた」というのは
おかしくない,か? 神が生まれるのか? 神は物事を生み出す原因であり、それ
自身は何からも生まれるものではない。生まれたとすれば、神を生んだもの、
つまり神以上にすごいものがあることになるのではなかろうか。
 あるいは、イエスが神で、神を生んだのがマリアとすれば、マリアのほうが
偉いのではないか?そういう意見も出てくる。イエスは死んでよみがえったと
いうけれど、しかしそもそも神が死ぬものであろうか?十字架の上でイエス
血を流し、苦しんでいるようであるけれど、しかし神が痛さを感じるものか? 
ともかく、三位一体説はかなり問題のある理論なのである。 しかし、めちゃ
くちゃであろうとなかろうと、イエスが神だ、とするのがキリスト教である。
エスは神ではない、とするとキリスト教の存在理由がなくなってしまう。
 しかし、根っこが問題ありの教義であるから、当然、これを批判する人間は
いつの時代にも出てくる。そうするとどちらが正統でどちらが異端であるか、
という争いがはじまる。キリスト教にはこの手の争いがつきないのである。・・≫
▼ キリスト教原理主義国家がアメリカ。ユダヤ教原理主義イスラエル
 アメリカ大陸でイギリスを中心に立ち上げた国がアメリカ。カナダは、
フランスが立ち上げた国。これと、欧州連合と、アラブのポチに対しての
戦いが、本格的世界大戦の様相を表しているのが現在の世界。その結果、
以下の内容に続いていく。
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5100,悪夢の21世紀 ー5
2015年03月02日(月)
   * 「ニヒリズムに落ち込む世界」 〜?
  ー 自由、民主主義の普及こそ混乱の元凶ー
 最近では、「アラブの春」の一連の独裁国家の打倒。その結果、現れ出た
のが、「イスラム国」。キリスト教原理主義アメリカが主導する世界に対し、
独裁者から解放されたイスラム教徒たちは、対抗するためイスラム原理主義
向かうのは自然だが、それにしてもモハメッドの頃の戒律厳守とは・・。
( 9 ) ≪ 欧米的価値観の勝利? 現状はそれどころではない。
 イスラムアメリカの対立が益々激化。民主化したはずのアラブは混迷に
中に迷い込み、新興国を巻き込んだ市場経済グローバリズムは、資源や
市場をめぐる果てしない競争へ突き進んでいる。しかし、自由、民主主義の
普遍性、市場競争の普遍性などの近代主義こそが混迷を招く張本人。
だから、事態はかなり厄介である。近代主義を押し進め、グローバル化
していることそのものが問題。だから、今日生み出されている様々な
危機的な事態を乗り越える方法が見当たらない。自由、民主主義、
人権思想、市場経済グローバル化や技術革新によって問題は解決しない。≫
(10) ≪ 人々の自由が拡大すれば拡大するほど、人々は益々自由を求め、
 その自由は相互に衝突する。それを調停するのは最後には「力」になる。
民主主義は問題を解決しない。民主主義そのものが、多数という「力」の原理。
イスラム教のような人民主権でなく「神権政治」を訴える宗教が出てくれば、
民主主義は有効性を失う。人々が豊かさを求めて市場競争をするほど、利害は
衝突する。グローバルな市場競争は、徐々に帝国主義的な様相を示してゆく。≫
(11) ≪ 今日の世界的な人口増加と新興国の経済成長を前にすれば、
 資源問題、環境問題、食糧問題の三点セットは、すでに世界的な問題。
世界的な問題とは、「世界」が我々の外にあるものではなく、我々も
そこに含まれ、いやがおうにも当事者になってしまっているという意味。≫
▼ 中東問題は、数千キロ離れた海の向こうのことだったが、ネット社会は、
 その生々しいテロや処刑を一瞬にして現前させる。この川崎中一殺人事件は、
明らかに、イスラム国の斬首の映像に影響されたもの。「目には目を、歯には
歯を」は、ハンムラビ法典や旧約新約両聖書に出てくる。我々は、これを
「やられたらやり返せ」という意味で使っているが、同害報復までの法で、
過度な報復を防ぐためである。「倍返しとかダメ」と。4000年前、すでにこの
ような、争いの拡大を防ぐ知恵があった。原理主義の衝突はニヒリズムを生む。
老いは、日々、ニヒリズムを強くする。しかし、生きているうち!いまのうち!
で、二年前の内容が、偶然だが続く! 
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4368, 歳を取りそこねる人たち ー2
2013年03月02日(土)
       「老いへの不安 歳を取りそこねる人たち」春日武彦 (著)  
「老いると独自の当惑や釦の掛け違いによる問題、恥や失望や悔しさが待ち
受けている」というのが本当のところ。そして最期は死ぬのである。
その中で幸福であるために、幸福とは何かを常に自省しなければならない。
  * 幸福のふたつの文脈
≪ 近頃の私は、幸福が二つの文脈から成り立っていると実感するようになった。
・ひとつは日常における安寧とか平和とか、つまり波風の立たない平穏の毎日
 である。それは往々にして退屈に感じたり、無価値に映る。だが、大病を
 患ったり危機の状況に追い込まれると、つくづく【当たり前の日常】
 の有難さに気づく。現代社会における大問題として、年齢を重ねたなりに
 淡々として、維持していく筈の【当たり前の日常】が、老人にとって
 手の届かない危惧が挙げられてないだろうか。
・幸福におけるもうひとつの文脈は、それこそラッキーなこと、嬉しいこと、
 楽しいこと、満足感を得ること―― そのよう躍動的で高揚感をもたらす事象
 との出会いであろう。こちらは個人差が大きく、ある人にとって十分喜ばしい
ことが、別の人にはむしろ物足りなさや悔しさを惹起することなど幾らである。
 こうしたことも、歳を重ねて肩の力が抜けてくれば、それこそ春の訪れを
 告げる日差しの変化とか、隣人から土産にもらった鯵の干物の美味さとか、
 窓の向こうに見える教会の屋根の赤い色と自宅で飼っている金魚の赤色とが
 まったく同じ赤であったことに今さらながら気付いた軽い驚きであるとか、
 学生時代に読んだ小説を再読してやっとその素晴らしさを悟った喜びとか、
 そういったもので十分に幸福の文脈を形成し得るに違いない。ガッツポーズ
 をしたくなるような晴々しい出来事に遭遇しなくとも、さりげなく幸福の滴を
 感じ取ることができる。それが年寄りになることの醍瑚味だと信じてきた
 (へいや、今でも信じている)。… ≫
▼ 幸福とは、当たり前の日常を受け入れる「受容」と、驚き、楽しみ、
 満足感をえる「新鮮な事象との出会い」にある。自虐的な性格もあり、
倒産すら楽しんでいた自分がいる。ならば、老いていく自分を楽しむには、
これは最適。 ー次のアマゾンのレビューが解りやすいー
《 老いるとはいかなることか、そのかたちの探求を試みる。自己の人生の
 なかで出会ってきた様々に個性的な老人たちや、小説に描かれた味わい深い
老人たちを参考にしながら、その探求の過程において示されるのは、著者の
考える素敵な老いや適切な「年寄り」のかたちも若干はあるが、ほとんど、
みっともなかったり、哀しかったり、ときには常識をはずれさえするグロテスク
な老いの姿。他者と生き別れ死に別れた孤独のなかで、死の可能性が充実した
ゾーンへと入っていく時、空間の戸惑いのなかで、人間が抱えている厄介な
ものが唐突にあらわになる。老いるとは、あらゆる出来事に対する達観した
精神の獲得といったようなものではなく、人生が与えてくる難儀さに傷つけ
ながら、なんとか過ごしていくことではあるまいか。》
 肉体も精神も老いぼれ朽ち果て、無になる。それで良いではないか。 
ただ、噂話や愚痴を言い合う老人の群れに入らないことだ。
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