2008年02月08日(金)
2501, 無くてはならぬもの −8

おはよ〜(>ω<。)!!
人生を振り返ると全く、恥ずかしきことのみ多かりき!である。
自分の輪郭がハッキリして、その卑小性に独り嫌悪感に陥る瞬間が多くなる。
これが人生の秋口の心の風景なのだろう。早くいえば基礎教養は足りなかったのである。
俄然と読み始めたのが20歳位だったのが、遅かったためだろうか。
40年以上は、一日2〜4時間は読み続けてきた。しかし思春期の読書量が足りなかった。
それも、家庭文化のレベルということもあるが。しかし子供のころから葬式などで法話を聞き続けてきたし、
書画骨董の一流品を見続けてきたし、それでも両親や兄姉から色々な教えを受けてきたし、生き様を見てきて、
このレベルである。 独り溜息をつく日々である。 後は、どう自分と折り合いをつけるしかない!
ただおもしろかったが・・・・・この一点が救いである!
若き時の自分の声のように当時の沁みた言葉が、本を通して語りかけてくる。
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P−37
アンドレ・ジイドの『狭き門』という小説は諸君のなかにも読んだ人が多いだろうと思うが、
あの狭き門という題は聖書の有名な言葉からとったものである。イエスの言葉である。
「狭き門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。
そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。
そして、それを見いだす者が少ない」(マタイによる福音書七の13−14)
この「命にいたる門」ということも、ほんとうの自己を見いだす門という意味である。
私たちはすぐにあの夏目漱石の『門』という小説を思い起こすであろう。
あの漱石の『門』の主人公は、友人の妻を奪って自分の妻にするのであるが、
そのエゴイズムのなかで苦しんだあげく、鎌倉の円覚寺に行って坐禅をして悟りを
ひらこうとするのだが、どうしても救われないでまた門をあとにして舞いもどってしまう。

諸君は、ほんとうの自己を見いだすために、どのような門からはいろうとされるだろうか
門はたくさんあるようだけれども、他に道はないのかもしれない。
「求めよ、されば、与えられるであろう。捜せ、されば、見いだすであろう。
門をたたけ、さればあけてもらえるであろう」(マタイにょる福音書七の七)とまた
エスはいうのであるが、道を求めるという心を起こすことが先決問題であるだろう。
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P−38
「何事でも人からしてほしいと望むことを、人々にもそのとおりにせよ」
多くの人が、この黄金律を人生のモットーにして生きてきたことを告白している。
自分が幸福になるために、人から多くのことをしてほしいという思いである。
それなら、人々に対してもそのことをしてやるべきである。
人から親切にしてもらって嬉しかったら、人にも親切にしてあげるべきである。
この黄金律は、本当の人生の旅路において幾らでも応用のきくルールである。
だから黄金律と言われるのである。
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*「求めよ、されば、与えられるであろう。捜せ、されば、見いだすであろう。
  門をたたけ、さればあけてもらえるであろう」
*「何事でも人からしてほしいと望むことを、人々にもそのとおりにせよ」
*「自分を愛するように、隣人愛しなさい」
*「右の頬をはたかれたら、左の頬を出しなさい」などの黄金律が40年近く経って、
 その意味の深さが少しずつ理解できるようになったということだ。 でも、難しいが、
 ことあるごとに口にしていれば、少しは実行をするだろう。ボランティアか〜。 
 群れてでも、しないよりよいのか?群れる何処が悪いのか? 群れることは、それより悪いのか?

´ノω`) honnja !
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