2007年01月26日(金)
2124, 死んだ人に、もう会えない?
             <(_ _)> おはようございます!

義母が昨年の12月01日に亡くなって、もう49日以上が過ぎ去った。
家内を慰める言葉として、哲学者のエピクロスの「<われわれ>が生きているとき、死はそこになく、
死がそこにあるとき、<われわれ>は生きてはいない。だから死はわれわれに何のかかわりもない・・」
の意味を説明し、補足として、「一人称の本人の死は存在しないし、三人称の死は他人ごとでしかない。
二人称の死も実際のところ本人じゃない。死に慌てている、そして死に対し無知な自分がいるだけ。
死はあくまでも他人の昇天と周囲の悲しみを見て感じつくりあげた観念でしかない。実際は死んではいない」
といったところ、家内「でも、会うことがもう出来ないじゃないか」と素直な気持ちを吐露した。
それに対し、スラスラ出た言葉が、「でも、それはこれからのこと。唯心論じゃないけれど、思い出の中で会える。
自分の大部分は過去で出来ているし、過去は都合の良いように変えることも出来るが、 間違いなく存在していた。
その存在こそ絶対であるし、消すことも無くなることもない。 もし死んだとしても、実は死んではいないし、
もう会えないということより、母親その人と会えたことの方が奇跡だし、その方を考えた方が良い。
悲しいのは解るが、死とは何かじっくり見つめ学ぶ機会と考えた方が良いんじゃないか」悟ったような答えであったが、
考えてみたら哲学者の池田晶子の言葉のうけ売りの言葉。 しかしスラスラと出たのは事実。

『死』は人生の最大の関心事である。それも自分の母親の死は、自分そのものの死を考える機会になる。
両親が亡くなって、その直後の数ヶ月を過ぎてからは寂しい思いはなかった。
亡くなることによって、心の中心により深く住むようになった。そして心の底から感謝ができるようになった。
しかし、これは義母−二人称の死の話だが、実は自分のことでもある。まさに死そのものより、
「現在、いまここ、にある自分の存在」の意味と同じことをいっているのである。死を考えるということは、
自分が「いま・ここ」に、そして生きてきたことの不思議を考えることである。   
亡くなる=無になるということは有り得ない。「無にどうしてなるのか? 無いものに成るなど、ありえないこと!」
全くそのとおりで疑う余地は全くない。それが存在することの不思議につながる。
「何故いま・ここに、自分がこうして存在しているのだろうか?」不思議で不思議で、
まずそこから出発しないと・・存在とは何か?そして、その消滅とは?
                       ☆~~ヾ・ェ・)o尸~ マタネ~♪
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