ーあわいの力 「心の時代」の次を生きるー安田登(著)
  * お能の世界とは 
 この本を読んで、長岡高校の講堂で『能』を観た時、その幽玄の世界に
魅入ったことを思い出した。以来、TVで何度か観たことがあったが、知って
いることは、シテと、ワキの存在ぐらい。 ネット辞書によると、
<芸能としての起源は、飛鳥〜奈良時代に遡る。観阿弥世阿弥金春禅竹
から現代まで約7百年。江戸幕府の終焉とともに衰退したが、明治中期に、
その状況を憂える文化人や資産家の尽力によって復興へ向かい始めた。
猿楽に代わる「能楽」という用語も広まった。 現在、ユネスコ
「人類の口承および無形遺産の傑作宣言」を受け、2001年「世界無形文化遺産
として登録されて、少し演能が盛んになり、神社やお寺での薪能なども増えた
ように見受けられる。>とある。登場人物の役割を序文に簡潔に説明してある  
≪・能には、シテとワキという二人の主要な登場人物がいます。
 シテは面をつけ舞台で華やかに舞い、ダイナミックに飛んだり跳ねたりする。
 能といわれて普通の人が思い浮かべるのは、このシテでしょう。
・ワキは、面をつけることもなければ、派手に立ち回ることもない。
 装束も地味で、目立った活躍をすることもありません。
 ほとんどの時間、舞台上でじっと座っている。
・シテを演じる役割の人をシテ方、ワキをの役割の人をワキ方といいます。
 能の世界は、シテ方の人は一生シテを演じ、ワキ方の人生ワキを演じます。
 能楽師の家に生まれた人は、生まれたときから決まりますが、私のように外の
 世界から入ってきた者の場合は、その道が決まるのは、能の世界に入るとき。
 シテの師匠に弟子入りしたら一生シテ方だし、ワキ方の師匠に弟子入りしたら
 一生ワキ方です。ワキ方が、「今日はちょっと面をつけてみたいな」とたまに
 シテ方を演じるようなことはありません。
・私は、高校教師をしていた25才の時、ワキを演じる師匠の姿に魅せられたのが
 きっかけで弟子入りをして、ワキ方になりました。ですが、どうもこの
 「ワキをわざわざ選ぶ」というのは、一般の人たちだけでなく、能の世界に
 いる人たちからもときどき不思議がられます。「なぜワキ方なんか選んだのか」
 などと聞かれたりします。「ワキなんか」か、とは失礼ですが、シテ方には面、
 笛方には笛、鼓方には鼓という「お道具」がある。しかし、ワキ方は何もない
 じゃないか、そう言うのです。・・・ ≫
▼ 小中学校の同級生の一歳年上の兄が能楽のシテで、地元紙に、『続けている
 内に、シテの役割の人か、現実の自分が混同するようになった』と、その幽玄
の世界の魅力を書いていたが、談志の『芝浜』に似ている。最近、若い女優が
インタビューで、一年間、地方で、あるヒロインを撮影した感想を述べていた。
『自分と、演じている役割との間にある皮膜を如何に薄くするか、に苦心した!』
〜〜
4700,閑話小題 ーシネマの観客は、私一人!
2014年01月26日(日)
  * 映画館貸切?の念願成就!
 映画館を、一人貸切ってみたいと思っていたところ、奇しくも、
その思いが成就。一度、上映の直前まで一人だったが、数分前に5〜6人が
入って来てガッカリしたことがあったが・・ 一昨日は、4〜5百人の会場に
私が一人だけ。 その感想は、映画に集中できるのがベスト。
内容は、宇宙もの『エンダーのゲーム』で、期待してない分だけ、面白かった。
若者のゲームの物語に参加して、手軽に自分の枠を超えて宇宙に
開放される感覚がよい。一晩、飲みに出歩いたと同じぐらい?
とすると、一割以下のコストは価値がある! 
  * 近所の喫茶店
 二度目になるが、一昨日の午前中、近くのチェーン店の喫茶店
『米田コーヒー』に行く。一〇時過ぎから一時間半いたが、11時までは
トーストと卵がサービスでつくためか、広い店内は満席。何か落ち着くのは
何だろう? ほぼ老夫婦か、中年女性づれ。それが昼飯かわりになって
夕方まで腹持ちがした。100席+別席で150席。値段は400円なら、
価値がある。コーヒー・パンレストランという風。
  * ウィリアム・ブレイク の詩が良い!ー『無垢の予示』より         
 人の定めとしての喜びと傷心、希望と絶望、幸と不幸・・ まさしく、
これらを「正しく知ったとき」、私たちはこの世を無事に進んでいける。             
 ――                             
 一粒の砂に世界を見/ 一輪の花に天国を見る/ 
 手のひらに無限を/ ひとときに永遠をつかむ
・・・・・
4333, 自己とつきあうということ −3
2013年01月26日(土)
        「自己の探究―自己とつきあうということ」和田 渡 (著) 
 * 自己の主題化とは、変化する自分を距離を置いてみる自分を見つめること!
≪ われわれは万年筆や鉛筆といった事物と異なり、不断に生成し続ける存在
 であり、同時にその途上にあって、しばしば自己へのかかわりを課せられる
ような存在である。われわれは、事物や植物や多くの動物のように自己の存在を
意識することなく生きることはできず、自己や自己の生にかかわりをもちつつ
存在することを余儀なくさせられるのである。年齢的な変化とそれに伴う生成の
途上で、自己に関連することで言えば、自分がどのように変化しているのかを
問うこと、自分がどのような位置にいるのかを確認すること、自分がどのような
方向に進めぱよいのかを探ることなどは、誰にも避けられないであろう。
自己が自己を問うということは、自己をひとつの問題として意識することであり、
自己のなかに問うに値するものを見いだすということである。それはまた、自己
といった課せられた問いとして積極的にひき受けることでもある。
そして、その問いを実りあるものにするためには、自己のおかれている状況や
変化に対して注意深く見つめていなければならない。 自己の主題化とは、
状況のなかで変化した、あるいは変化しつつある自己の姿を一定の距離を置いて
何度も眺め変す試みである。しかし、それにとどまらず自己の変化を観察する
自分自身をも距離をおいて捉えなおす試みでもある。自己が生成の途上にある
かぎり、この試みは何度もくりかえされ、そのつど異なった自己の姿が
あらわれてくるであろう。・・・ ≫
▼ この随想日記の楽しみは露悪的、自虐的に自分を曝け出すことである。
 それは、自分を上から目線で見つめることになる。それを続けていると、
書いた数年後に、上から目線の自分を、さらに上から見ることが出来るようになる。 
だから、自虐をしている自分を見下している己もまた、自動的に見ている自分が
出来ている。毎年の同月同日に、10数年分の、これを毎朝、読み返している。
その時々の視線と視点が、デズニーのキャラを見ているようで、それがまた面白い。
 それは自分自身だけでなく、その対象にした人、出来事をも上から目線でみる
ことが出来る。だから、極限の喜怒哀楽の現象も、冷静に再体験することが出来る。 
晩年に、多くの人が自分史を書くのは、自分の人生を主題とした物語として、
書き残すため。他からみたら大したことでないが、本人からしたら人生は自分が
ヒーローである。 変化する自分を予め物語としての粗筋と、生きる指標を
決めておくとおかないで大きく違ってくる。最期は、‘面白かった!’
と実感できるかだ。
・・・・・・
3958, 他人を責める「新型うつ」について ー4
2012年01月26日(木)
    * 「他責的」な新型うつの病理
 ー 次の部分が、「新型うつ」の病理を解明しているー
≪ 大衆にある「よりよく機能したい」という欲望を満たしてくれるかのような
 幻想を覚える「ハッピードラッグ」を求めて、医師のもとを訪れる消費者、
いわば「抗うつ薬信者」ともいうべ患者が増えたのである。
なぜ、この欲望はこんなに強くなったか? まず、消費社会が購買意欲をかき
立てるために「あきらめるな」「すべて可能である」といったメッセージを送り
続けた結果、あきらめきれない人が増えた。断念せずにすむ手っ取り早い方法が
開発されたことが宣伝されればされるほど、以前であればあきらめを受け人れ
ざるをえなかった人も、あきらめきれなくなった。とりわけ、「こうありたい」
という自己愛的イメージにとらわれている人ほど、「自分はこんなもんじゃない」
という思いが強いので、自分を「底上げ」してくれる手段にすがって、あきらめを
何とか回避しようとする。当然、自己愛の強い人ほどあきらめきれないが、現在、
こういうタイブが増えている。少子化の影響もあって、子育ての失敗が許されなく
なり、親の期待がもろに子供の肩にのしかかるようになったからである。
親の期待とは親の自己愛の再生にほかならず、敗北感や不全感にさい悩まれて
いる親ほど、自分自身が放棄せざるをえなかった自己愛を、よりいっそうわが子
に投影する。 子供は、親の期待に応えなければ愛してもらえないと肌で知って
いるので、親から投影された自己愛を引きずったまま成長していくわけである。
子供が多くの時間を過ごす学校という場で、自己愛的イメージを徐々に断念
させて現実の自分を受け人れさせる、つまり「身の程を知る」ようにさせる
システムが機能しているかというと、現状は正反対。何しろ、「やれぱできる」
「誰にも無限の可能性がある」といった類の幻想を盛んに吹き込んでいるから。
こういう幻想を吹さ込まれ続けて「なりたい自分」のイメージだけが肥大して
いくと、現実の壁にぶつかって自己愛的イメージと現実の自分のギャップに
直面したとき、ふくらむだけふくらんだ自己愛の風船をどうやってしぼぽせたら
いいかわからず、落ち込んでうつになる。おまけに、現実の自分が
「これだけでしかない」のは、オ能、努力、意欲が足りなかったせいなどとは
決し思えない、いや思いたくないので、他人にせいにして責める。
これが「他責的」な新型うつの病理である。≫
▼ 私も八人兄姉の末っ子で、両親から特に大事にされ育ったため、
 心のどこかで常に親の期待に答えようと意識していた。青年期は、その葛藤の
中で常に、「自分はこんなものじゃない」と、自分の「底上げ」を心掛けていた。
27歳で父が亡くなった時、創業の激務もあったが、何かから解き放たれたような
気持ちがあった。 当時は高度成長期、誰もが坂の上の雲を目指していた。
先日、青年期に読んだ「精神論」について書いたが、「誰も無限の可能性がある」
の刷り込みだったか、右上がりに必要だったのか? 偶然だが、下記の去年の
文章が関連している。 アメリカそのものが、深刻なノイローゼである。
・・・・・・・
3593, 誰も書かなかったアメリカ人の深層心理  −1
2011年01月26日(水)
  「誰も書かなかったアメリカ人の深層心理 」 加藤 諦三 (著)
 普段、マスコミなどから受けるアメリカと、著者が、ここで述べている
内容とは大きな隔たりがある。度々、アメリカに滞在した普通の目線で
平均的なアメリカ人を描写し、合せ鏡で日本人を見ている。
 日本人が誤解しているアメリカ像が、現在の日本社会を疲弊させている
という論には納得する。 ーアマゾンの内容紹介よりー
≪ なぜリーマンショック後、平気で多額の報酬を受け取ろうとするのか?  
 アメリカ人は、本当は何かを考えているのか。 経済格差の国・アメリカと、
幸福格差の国・日本。世界一楽観主義の国・アメリカと、悲観主義の国・日本…
長年、アメリカ・ハーバード大学で准研究員として活動を行ってきた心理学の
第一人者の著者が、そのベースにある彼らの宗教観や家庭観などから紐解いて、
初めて綴った目からうろこのアメリカ人論。
〈レビュー1〉 この本ではマスコミなどで流布されている米国像とは異なる、
 米国の一般の人々の社会における価値観、その元になる宗教、特にプロテス
タンティズムについての考察を通じて、日米社会の違い、さらには現代の日本が
抱える最重要課題、日本における人々の社会への不信感について論じている。
そうした不信感が人々のきずなを失わせ、米国とは大きく違う日本社会に
 米国流の競争システムを導入する問題を指摘している。実際、この10年で
大きく日本社会は壊れてしまったのではないか。 では日本における心の問題を
社会レベルでどのように解決していけばいいのだろうか。著者は宗教の重要性に
ついて述べているが、日本では宗教は儀式化しており、生きる知恵を授ける
存在になっていない〉 
▼ 著者は、ここで哲学者のアドラーの言葉を借りて、アメリカの金融資本
 主義者の殆どが深刻なノイローゼ患者という。そのほんの少しの患者を、
一般のアメリカ人と解釈するのは間違っていると。 彼等は子供のときから
スポイルされ、幼児の頃から他人のなしとげたものを如何に搾取するかの訓練が
出来ている。そして、そのノイローゼ患者は、大衆に影響を与える。
この人たちが、心の基準のない日本人に与えた影響は深刻である。
日本人が経済的豊かさにあるに係わらず、幸福と感じないのは「心の基準」
を見失っているからでないかと指摘する。人が社会性を生み出すのは、
カレン・ホルティのいう「積極的感情」である。それが日本になくなって
いるのが、現在の日本である。日本の少子化と高齢化もあるが。 ーつづく
・・・・・・・
3228, フリー −5
2010年01月26日(火)
 「フリー <「無料」からお金を生みだす新戦略>」クリス・アンダーソン著 
 * フリーワールド ー誘発された陳腐化ー(p271)
≪ 中国では、不正コピーが音楽消費の95パーセント占めているといわれる。
 といって、ミュージシャンは動じない。彼等は多くの人が聞いてもらえるほど、
そのコンサートツアーのギャラが高くなるから、別に困らない。困るのは音楽
会社だけ。経済学には「海賊版パラドック」という用語がある。ファッション業界
を下支えする根本的なジレンマから生まれている。 つまり、「消費者は今年の
デザインを気に入らなければならない。そのうえに、直ぐにそれに不満を持ち、
翌年のデザインを買いたいと思う必要がある。技術商品と違って、アパレル
メーカーは翌年の製品が優れているとは主張できない。見た目が違うだけ。
 そこで、消費者に熱を冷まさせる理由が必要となる。その解決策は偽物が多く
出回ることで、高級だったデザインが大衆向けのコモディティになることなのだ。
そうすると、そのデザインの神秘性が失われ、目の肥えた消費者は何か特権的で
新しいものを探さなければならなくなる。これが「誘発された陳腐化」と呼ぶもの。
 コピー商品の登場で、そのファッションが流行に敏感な人のものから大衆のもの
へとすばやく移り、敏感な人は何か新しいものを見つけなければならない。
中国では敏感の人とは。新興の富裕層と、中流階級で、10億の大衆はまだ、
その偽物を持つことで高級品の市場に足を踏み入れたばかりである。本物と
偽物の異なるセグメントをターゲットにし、互いに相手の役に立っている。 ≫
▼ 偽ブランド品はメーカーにとって不可欠な存在だったのだ。
「偽ものが出回るほど、一般の人が憧れる商品としての価値の 証明になる」
上に、更に「誘発した陳腐化をうながしてくれる」。 悪役が善玉を引き
立ててくれる上に、善玉の次なる善行を引き出す役割になっている。
 ・・・・・・・・
2853, 格差世襲  −1
2009年01月26日(月)
 ー 貧困とは溜めのない状態 ー
格差について、一昨年の今時分に(2007年01月25日(木)階級社会ー不平等社会
を考える)で取り上げたことがある。他にも読書日記で幾つかの本を取り上げた。
ところが先日、図書館で半年前の08年8月30日号「週間ダイヤモンド」
を見つけた。 ー「下流」の子は下流? 格差世襲 ー の特集である。
普段の会話ではタブーに近い内容が次々と出てくる。格差といえば差別である。
自分が上位に立っているときは何とも感じないが、下位にたたされて差別で
屈辱を経験した時に格差社会の実態を知ることになる。差別からくる屈辱は
傷になり、恨みは何時までもまとわりつく。般若の面は差別の屈辱に対する
怒りの顔。この特集では、いろいろな視点から格差を調査しているが、
・「育った家庭によって、機会の不平等が生じている」という「格差世襲
 の残酷な調査結果を示している。
・「まるで溜めのない貧困層」、それに対して「溜めに包まれた富裕層」
 「貧困とは‘溜め’のない状態」と現実は教えてくれる。
その典型が何も考えない若い人の成り行きの「??婚」。何の経済的な裏づけの
ない人たちの結婚である。ここに夫婦格差が生まれる。その子どもには両親
以上の教育が施すことなど、出来ようがないのである。その結果、下流の子は
下流になるしかない。「溜めのない貧困層」といえば、大阪・堺市生活保護
受給者の四分の一が、親の世代も生活保護を受けていた。母子家庭にいたって、
四割が‘生活保護二世’。また母子家庭の26・4パーセントが十代の出産を
経験。まさに貧困の連鎖の構図がここにある。 逆に溜めのある人は、溜めの
ある人と群れるケースが多くなる。一例として最近、医者同士の結婚が多い。 
女性が医学部に多く進学するようになった結果である。また医者社会での結婚
のチャンスも多く、二人の給料の総額は莫大になる。1995年以降に自分でのし
上がってきたベンチャー経営者や、専門職を中心にした新世代の富裕層は、
お金より自分の知恵や経験を子どもに相続させたいと考えている。
多額のお金を相続させるより、子どもの教育に金の糸目をつけないのが特徴。
無形の財産を与えることで、子どもにも自分の力で成功を勝ち取るように
教えている。「地位獲得競争ゲーム」に、無形の「出来レース」を与えている
ことになる。世界の億万長者のトップのビル・ゲイツ、ウォレン・バフェット
とも、資産は子どもに残すことをせず、大半を寄付をすると公言。−つづく
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2008年01月26日(土)
2488,  iMacの感想!        
 Mac製品の売り場を何度か通って、何時かは使ってみたいが何か壁があった。 
それは外国メーカーと、少数派の壁だったろうか、それとも周囲に一人も使って
いる人がいなかったため?だったのだろうか。しかし今度思い切って買ってみた。  
   (字数制限のためカット 2012年1月26日)      
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2007年01月26日(金)
2124, 死んだ人に、もう会えない?     <(_ _)> おはようございます!
 義母が昨年の12月01日に亡くなって、もう49日以上が過ぎ去った。
家内を慰める言葉として、哲学者のエピクロスの「<われわれ>が生きている
とき、死はそこになく、死がそこにあるとき、<われわれ>は生きてはいない。
だから死はわれわれに何のかかわりもない・・」の意味を説明し、補足として、
「一人称の本人の死は存在しないし、三人称の死は他人ごとでしかない。
二人称の死も実際のところ本人じゃない。死に慌てている、そして死に対し
無知な自分がいるだけ。死はあくまでも他人の昇天と周囲の悲しみを見て
感じつくりあげた観念でしかない。 実際は死んではいない」といったところ、
家内「でも、会うことが出来ないじゃないか」と素直な気持ちを吐露した。 
それに対し、スラスラ出た言葉が、「でも、それはこれからのこと。
唯心論じゃないが、思い出の中で会える。自分の大部分は過去で出来ているし、
過去は都合の良いように変えることも出来るが、間違いなく存在していた。
その存在こそ絶対であるし、消すことも無くなることもない。もし死んだと
しても、実は死んではいないし、もう会えないということより、母親その人と
会えたことの方が奇跡だし、その方を考えた方が良い。悲しいのは解るが、
死とは何かじっくり見つめ学ぶ機会と考えた方が良いんじゃないか」悟った
ような答えであったが、考えてみたら哲学者の池田晶子の言葉のうけ売り言葉。
 しかしスラスラと出たのは事実。『死』は人生の最大の関心事である。
それも自分の母親の死は自分の死を考える機会になる。両親が亡くなって、
その直後の数ヶ月を過ぎてからは寂しい思いはなかった。亡くなることに
よって心の中心に深く住むようになった。そして心の底から感謝ができるよう
になった。しかし、これは義母−二人称の死の話だが、実は自分のことでもある。
まさに死そのものより、「現在、いまここ、にある自分の存在」の意味と同じ
ことをいっているのである。死を考えるということは、自分が「いま・ここ」
に、そして生きてきたことの不思議を考えることである。 亡くなる=無になる
ということは有り得ない。「無にどうしてなるのか? 無いものに成るなど、
ありえないこと!」全くそのとおりで疑う余地は全くない。
それが存在することの不思議につながる。「何故いま・ここに、自分が
こうして存在しているのだろうか?」不思議で不思議で、まずそこから
出発しないと・・存在とは何か?そして、その消滅とは?