つれづれに

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 今朝、霰の音で目が覚めた。初冬の到来である!
長年、雪国に住んでいても、冬は厳しい。 特に早朝の寒さは堪える。

 今日は、シネマの日。 『ハンガーゲーム』のシリーズの完結。
あまり評価は高くないが・・


・・・・・・
2793.ユダヤ人成功者たちに秘かに伝わる魔法の言葉・・2
2008年11月27日(木)
? ユダヤ人 成功者たちに秘かに伝わる魔法の言葉 -2

 「自分を大切にするものは、他人も大切にできる」とするなら、
「自分を大切にしないものは、他人も大切にしない」ことにある。
こういう人間、本当に多いよな~、と思っていたが、じゃあ、御前さん
はどう?と言われると、酒飲みすぎて、命を縮めているじゃないか。
そして酒の勢いで他人を傷つけているじゃないかい?と言われれば、
成るほど、納得する。「自分の意志の主人となり、良心の奴隷となれ」
ユダヤの諺)は、至言である。

 ーーー
ユダヤ人成功者たちに秘かに伝わる魔法のコトバ 」-2 
                           読書日記
【第一の法則】
  自分を大切にするものは、他人も大切にできる。

「自分が ありのままの自分でいられるような人生を 謳歌するためには、
楽家なら作曲し、 画家ならば絵を描き、 詩人であれ1ざ詩を書くのだ。
自分の命にそった生き方を選ぶことが、人間にとって、
もっとも自然な姿なのである」        エイブラハム・マズロー
 ー
「無理して人と違う自分を演じようとする必要はない。
良い結果を出そうと頑張れば それだけでじゅうぶん人とは違う自分を
演出できるのだ」アーサー・フリード
 ー
「盲人の国では片目の男は王様だ」       ユダヤ人の友人のことば
 ー
「自分を信じるのだ。 自分の力は、自分が思っている以上に あるものだ」    
                       ベンジャミン・スポック
 ー
「自分に対して とことん正直になること、
   それが心身に良い影響を与えるのである」  ジークムント・フロイト
 ー
「いつも自分一の外側に、カや自信の源があると信じて捜してきました。
 でも、本当は自分の内側から にじみ出てぐるものなのです。いつだって 
 自分の中にこそ、強さや自信の源はあるのです」アンナ・フロイト
 ー
「世の中を敵にまわして戦う時は、世の中につけ!」  フランツ・カフカ
 ー
「よく、あの人はまだ自分を探し終えてない、などという人がいるが、そもそも
 自分とは 探すものではない。 みずからが創り出すものである」ユダヤの諺
 ー
「みんなにイイ奴とは、誰の友達でもない」  ユダヤの諺
 ー
「自分の意志の主人となり、良心の奴隷となれ」   ユダヤの諺
 -
「わたしのモットーは、心に生じる罪悪感を決して疑わないこと」
                       フランツ・カフカ

・・・・・・・・・
2007年11月27日(火)
2428, 自分を理解するため他者・コンピューター -2

才ノヽ∋―_φ(≧ω≦*)♪
 
人間と動物とが共通に有している能力よりも、知的・理性的側面が、
人間固有の特徴として逆照射されたが、今度は特有の特徴を凝縮した
コンピュータから人間に向けて照射したら何が浮かび出るのだろうか。 
この数日、コンピューターから人間を照射した、動物と人間の差異は
何か?を自分の頭で色いろ考えてみた。 
・喜怒哀楽の激しい感情、
・欲望の過大性、
・自らの知恵で環境を変える能力、
・考えることを考えるー哲学をする能力、
・新たな他者としてのコンピューターを使い、支配する能力、
・言葉を持ち、それを書き写す能力、 
・自らの意思を持つ能力、
・自らの神を創造する能力、
を持ち、それ故に自ら自然界を道連れに消滅する宿命を持った動物である。
 まだまだ幾らでもあるが、私が今考えた「動物と人間の境い目」である。
 そうこう考えると、やはり動物とは違う存在である。
 
 更に人間は、この新たな他者を爆発的に発展させ、自らの周辺の環境
に融合しだした。これが良いにつけ悪いにつけ、次の大きな問題になってきた。 
世界が一変しだしたのである。
  -前回のレポートの続きである。
   ーー
 *現実感を変えるバーチャル・リアリ一アイ ーコンピューター
                         黒崎政男(哲学者)
そして、今日では、コンピューターと哲学をめぐる聞題群はさらに広がっている。
1980年代から始まったコンピューターのパーソナル化は、予想を超えた速度で
進行し、コンピューターはあっという間に個人的生活の内部にまで浸透した。
コンピューターは、もはや、われわれに脅威を与える他者という遠い距離に
留まるのではなく、完全に環境としてわれわれを取り巻くようになった。 
そしてさらに、コンピューターとわれわれの関係はさらに密接になっていき、
〈われわれの外部としてのコンピューター〉
という性格さえ危ういものとなっていく可能性が出てきた。
つまり、現在さまざまな形で間題となっている〈バーチャル・リアリティ〉である。
われわれわれは、今やそれをわれわれの身体の一部として、あるいは頭脳に
一部として組み込もうとしているわけである。

その意味で、人問とコンピューターとの結びつきは、もしかしたら、
着実に進行しているのだろう。それは、脳に直接機械を埋め込むという、
ミンスキー教授が言うような原始的な方法によってではないかもしれない。
われわれの環境が、電子的に媒介された映像などで満たされていくとき、そして、
人々のコミュニケーションがほとんど電子的な媒介によって営まれるように
なったとき、われわれの現実感の変容という形で、それは進行していく。
コンピューターは、人間とはなにか、を逆照射してくれるあらたな他者として、
今日、きわめて意味深い存在者なのであるが、今後、人間は自己規定をどの
ように遂行していくのだろうか。あくまで、人間性にこだわっていくのか、
それとも、そんな課題は放棄してしまうのか。興昧は尽きないのである。
 --
10年先、いや5年先さえ、想像すらつかない変容が待ち受けている。
 それを見るだけでも現代に生まれた良かったと思っている。
                    ヽ(。・c_,・。)ノ バイ
・・・・・・・・・
2006年11月27日(月)
2064, あたりまえなことばかり -15
           o( `▽´ )Ψオハヨウ!           
7歳の頃、一番上の兄が死んだ時に姉に「死んで兄ちゃん、どこに行ったの?」
と聞いた。そのときの姉の答えは、「白い馬になって、空の上の昇っていた
いったのよ」であった。数日後、兄が白い馬になって空に昇って行った夢をみた。
子供ながらに、その時の両親と兄・姉の悲しみは敏感に感じ取っていたのだろう。
こういう経験を重ねて、死は怖いもの悲しいものという先入観が植え付けられた。
亡くなってから何度か「どこかに行っていた兄が帰ってきた夢」をみた。
空の彼方からというより、そのつど事情が変わっていた。
兵隊から帰ってきたり、旅行より帰ってきたり・・・
    
人は元気で長生きをしなくてはならない。世界も、自分も変わっていく。
それは遥かに予測や想像をこえている。いま、ここは全てである、しかし
その全ての背後に得体の知れない世界がある。それを知りえるには、変化して
いく自分の世界と経験の蓄積の範囲でしかない。
    
ーーーーーーーーーーーー
他者の死はなぜ悲しいのかー?
ーーーーーーーーーーーー

言語と論理に即して考える限り、「死は存在していない」。
自分の死は言うに及ばず、他人の死すら「見つからない」。
しかし、だからこそ、「他者が死ぬ」とはいったいどういうことか悩ましい
なぞとなる。死は存在しないが、死体は存在する。
他者の死体の存在によって、現実の出来事になる。

死の境によって動いていた体が動かなくなる。この変化の意味、これが
理解できない。理解できないまま、死体は然るべき手順で処理され、無くなる。
死体として存在していたものが、もう触れることも出来なくなる。
我われが他者の死を理解したと思うのは、やはり物理的肉体の消滅、
その確認ということだ。逆にいえば、物理的確認がなければ、我われは
「その人が死んだ」ということを、どこまでも理解できないことになる。

人類における葬式、葬送の儀式とは、この、理解できない他者の死を、
理解しようとするための方策に他ならない。文化的社会的なけじめを与える
のでなければ、我われは「その人が死んだ」といえない。繰り返しになるが、
死は存在せず、死は言葉としてしか存在していないからである。

子供が、他者の死を理解できないで、たとえば「オジイチャンどうしたの?」
と聞いたときの答えが
 親「死んだのよ!」  子「死ぬってどういうこと?」
 親「いなくなることよ」 子「今どこにいるの?」
 親「お空よ!」OR「天国よ!」
おそらく多くの子供が、この答えに納得する。何かが腑に落ちるのである。
無になることが理解できない存在者としての我われにとって、
このような回答は何かが自然なのである。

これが大人になったときにも、基本的に変わらず「彼岸」もしくは「あの世」
と名を変えて無自覚的に変わってないのである。「死者への語りかけ」、
しかし、多くの我われにとって他者の死を「他者の死」として一般化する
ことは出来ないだろう。

「一人称の死」「二人称の死」「三人称の死」とは、フィリップ・アリエス
による卓越な分類だが、 ふつうに我われにとって問題となり得るのは、
「二人称の死」としての他者の死であって、「三人称の死」としての
それではない。通りすがりに見知らない人の死は、人は泣くものではない。
泣くのは見知っている人である。

我が死んだ子、記憶の中の死んだ子は、決して成長することはない。 
肉体として存在せず、しかし、記億としてありありと存在する子供と、
生成する関係を共に生きることができずに、人は悲しむ。悲しみとは、
子供の死というより、むしろ記憶の所有だろう。その人の肉体の消滅
とともに、なぜその人の記億もまた消滅してはくれないのか。
 --
「お空の彼方」ー良い言葉である!お空の彼方からきて、お空の彼方へ
行くのだろう。熟睡も「お空の彼方」なのだろう。 たまに、帰って
きたくなくなることもあるが!いやないか? ここがお空の彼方だものな~              
                (*^_^*)\バイバイ      
・・・・・・・・
2005年11月27日(日)
1699, 人生の価値について -1    -読書日記 
      『人生の価値について』西尾幹二著 新潮選書
 
 この本では、どうしたら人生に成功するかという、いわゆる人生での
成功の秘訣や、いかに生きがいを見つけるかといったことは書かれておらず、
生きがいとは何か、成功は価値に等しいのか、が述べられている。
成功失敗、幸福も不幸も、希望も絶望も、生も死も、結局は同じものの二面性
にすぎないという。「人生は偶然に支配され、何が起こるか分らないからこそ、
生きるに値する」という、宿命を認めているところは本人の人生体験を重ねて
深いところを見据えている。 104節からなる各々の文章が、どれを読んでも
解りやすい文章で読者を深いところで納得させている。♪~♪~(( 匚P                 
ー90節の「希望について 」が、心に残った。
 
重病患者ばかりが入っている病棟に入院したときの著者の記述が鋭い。
著者がそこで不思議に思えたのは、明日にも死ぬかも知れない人々にも
「社会生活」があることである。 余命幾ばくもない患者たちが、日常の
ささいなことに心をとらわれていることである。明日の命も知れぬ人が、
ナイター中継に夢中になっていたり、同じ病室の人に悪く思われないように
気をもんでいたりすることなど、「死」という大きくて困難な問題を直視
しないようにしていることを知る。
    Σ(゜Д`;)ア…ア…アッハァァァァァァァァ?!!  死にたくない!
このような経験から感じたのは 日々の小さな出来事に敏感になることで、
困難で恐ろしい(死)を考えないですむようにする人間のたくましい実態である。 
パスカルはこんなふうに言っている。
「人間と言うものは、どんなに悲しみに満ちていても、もし人が彼をなにか
気を紛らわすことへの引き込みに成功してくれさえすれば、そのあいだだけ
幸福になれるものである」   Σヽ|゜Д゜|ノ┌┛☆死
 また102節の「人生の長さについて」もよい。
「人生は快楽や楽しみごとや不安や緊張や困難で、いっぱいに満たされて
いるのが通例である。だから時間は素早く過ぎていく。しかしそういう物を
何かの偶然で突如欠いてしまうと、時間はとたんにだらだらと怠惰に流れ、
退屈という新しい苦痛が発生するのである。 
時間はそのさなかではむやみに長く感じられる。」
                          (′O`)hima~
「今過ごしつつある時間を長く感じることを人間は一途に嫌悪し、これを
避けようとするのだ。できるだけ時間を短く過ごすことが生の確証であり、
生きがいの充足をしていると思っている。」 
著者は「あらゆる人間の行動はすべてその人の暇つぶしである」と述べている。
  この人間の行動というものの中には仕事や家事、学術的な研究まで含まれる。
暇であるという状態は、その人に自己の生の無意味感を与える。それを感じたく
ないがために、我々は何かを行っていなくては生きていけないのである。
何かこの辺を読むと人生とは何ぞやとか真面目に考えるのが馬鹿馬鹿しくなる。
                         
  ・・・・・・・・
  2004年11月27日(土)
 1334, 「おカネの発想法」ー読書日記

父が末期ガンで死期を悟った時、私に意味深のことを言った。
「紙に一千万と書いて、この一千万と通帳の一千万と自分にとって
何が違うだろうか。今さら一千万の現金を手にとって使おうとしても
何に使えない」 と。 死を目前にした父にとって、いくら現金があろうが、
それが何にもならない。お金も、元気なうちに使わなくては価値がない。
「使えるから価値があるので、使えないのは価値がないのと同じである!」
と言いたかったのだろう。好きな事業をしてきて、地方としては戦前・戦後と
二つの時代に渡って成功をしてきた人である。そして、道楽も幾つか持ち人の
数倍も人生を楽しんでいた。「全く同じ人生を、いま一度生まれてきた繰り返し
たい!」が、父の最期の口ぐせになっていた。父は事業の恐ろしさを知り
尽くしていたので、最悪のヘッジとして不動産や、証券や、古道具や、現金
にして溜め込んでいた。 しかし死を目前にして、何だったのか疑問を
持ってしまったようだ。反面、事業をしていると、資金は命の次に大事である
とを思い知る。会社の血液である。「ある日突然、思いもよらない時代の激変
が起こって裸になってしまう!」ことが、経営の宿命である。 そのため、
経営はそれに備えて置かなくてはならない。 しかし、あるところまで生きて
きたら、生き方そのものを転換をしなくてはならないことを、その時に
父から教えてもらった。
 ーーー

ーーこの本の印象に残ったところを抜粋してみる。

ーあなたは、おカネである金貨を大きな袋に詰め込んで船に乗り込んでいます。
ところが、乗っていた船が激しい嵐に襲われて、船を捨てて避難しなくては
ならなくなりました。そこであなたは、金貨の袋を腰にくくりつけて海にとび
こみました。海底に沈んでいきながら、あなたは人生を振り返りこう思い悩みます。
私はお金を所有していたのか、それとも、お金が自分を所有していたのだろうか、
・・・と。お金は所有するものであって、所有されるものではありません。
お金に振り回されないためにも、お金を所有することの向こうにあるはずの
リアルなコミュニティの重要性に気づくべきです。
 ーー
ーヤップ島の石のおカネの話と我われの通貨とどこが違うというのか。ヤップ島
には、車輪のついた乗り物がなかった。したがって、道路も整備されていなかった。
そこで、、1898年にドイツ政府がコロリン諸島をスペイン政府から買取り、所有権
を引き継いだ時、荒れ果てた道を修繕するように通達を出しました。ところが、
全然修繕が進みません。そこで、ヤップ島の通貨として指定したドイツマルクで
金を取ろうしたが、島民達は、笑うだけで自ら修繕しようとしません。
そこで一計を案じました。
通達を出した村や町に役人を送ると、価値ありそうな現地の通貨の「フェイ」に
「×印」をつけて、政府所有にしたのです。この政策がウソのように効果をあげ、
ドイツマルクに対して、何とも思わなかった島民は「フェイ」を失ったことを
悲観して、ひっしに働きだした。 修繕が終わると、政府は「フェイ」に書かれた
「×印」を消して回りました。島民たちは自分達の財産が戻ってきたことを心から
喜んだという。ヤップ島のひとを笑うのは自由だが、本当に笑えるだろうか。
というのは、私達がお金と信じている預金通帳のデーターも、本質的には
「フェイ」に書かれた「×印」と大同小異だからだ。

・・・・・
2003年11月27日(木)
967, PDPテレビをいれて一年、の感想

 一年前の随想日記を振り返って読んでみて、PDPテレビをいれて一年経った
ことに気づいた。丁度その頃、会社の近くにDVDのレンタルショップ
開店したため毎週のように借りて見ていた。オーバーにいえば、そこの見たい
映画を殆ど見てしまった、といってよい。普通のTVがハイビジョン並みの画面。
それと画面の大きさが一番のポイント。映画館にいっているようで、綺麗で
迫力がある。その為、劇場中継や音楽番組や自然紀行などの番組がすばらしい。 
次の世代は「実際見るよりより綺麗な画像」になる可能性があるという。 
人間の眼よりも世界を鮮明にとらえてしまうのだ。
プロの使うカメラの世界は、ずっと前にその段階まで入ってしまっている。
これからは映像の世界がそうなるというから、想像を超えた世界になるだろう。
PDPの値下がり幅がもっと進むと思っていたが、それほど下がってない。
しかし「カタ落ち」では1インチ一万円(50インチー50万)に近づいている。
価値はあるかと問われれば、「充分ある」というのが答えである。

「36インチのブラウン管のハイビジョンと変わらないのでは?」といえば、
そうではない、それなりの価値はある。来年から爆発的に売れ出すであろう。
3年後、1インチ5千円あたりが落ち着きどころだろう。それよりも一緒に
買ったDVDがよい。ハードに録画を貯めておくのが非常に便利である。
DVDに録るということは皆無である。どんどん録って、見て面白くない
のは消去できるからだ。あのビデオの物理的な煩わしさから開放されたのが良い。