つれづれに

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 今日のYoutube


https://www.youtube.com/watch?v=X6svIcef5lQ
https://www.youtube.com/watch?v=L0LUEkqkcRo
http://video.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&p=マルチコプター空撮
 今朝のTVで、マルチコプターの撮った映像を放送していた。
今では、YOUTUBEの映像を、そのままTVで放送している。
早速、検索してみてみたが、面白いものがマシンも映像も、多くあった。
 こういうの、テロなどの悪用もありそうだが・・・

・・・・・・
2425, 自分を理解するための他者・コンピューター -1
2007年11月24日(土)
                     ヽ(★>з<)。o○[ォハヨ] 
  ーまずは、私の感想文からー                   
  人間は自分の弱さをカバーするため、そして知識を持ったために神をつくった。
  それは他の生物から見たら、人間にとって都合の良い空想の産物でしかない。        
  ある雑誌に載っていたレポートを読んで考えさせられてしまった。
  19世紀に始まる進化論が人間は動物でしかないと主張、それまでの人間理解を根本から
  大混乱させてしまった。そこで人間と動物の違いが問題になった。
  動物の中の人間を浮き上がらせている諸特性ーたとえば、計算合理性、言語能力、
  抽象化能力などが浮かび上がらせて、我われ人間の根拠となり始めたのである。
  
  しかし20世紀半ばから出現したコンピューターは、動物とは違う、人間を理解する
  新たな<他者>になったのである。それが、人間たらしめている特性を凝縮したもの
  ときているから問題は更に人間とは何かを考える問題提起になってきた。
  動物とは逆の立場のコンピューターから人間が照射されて、
  動物と人間の差異を見ると、そこに浮かび上がるのは何だろうか?
  さらに、人間とコンピューターが融合してきたため、人間とコンピューターとの
  差異も見えにくくなってきている。
  その意味で現在の人間は哲学的に見ても大きな曲がり角に来ているのである。
   さらにコンピューターは人間の能力の概念を変えようとしている。

 ーー
 「人間とは何かを逆照射する新たな他者  ーコンピューター」
                  黒崎政男(哲学者)   
  *自分を理解するために他者が必要*
いま見てきたことからも明らかなように、現代科学技術の最先端を意味する〈コンピューター〉
と、古代ギリシャ以来、古色蒼然と続いてきた〈哲学〉との関係を論じることは、
決して突飛な思いつきでも奇妙なことでもないことは明らかである。
哲学者たちが長い間考えてきたことを知ることは、人工知能にとって決して無駄ではないし、
また、現代科学技術の最先端で、何が問題になっているかを知ることは、
新たな発想のきっかけとなるだろう。さて、それにしても、コンビューターという
機械の研究と、人間の知識の研究が、かくもリンクするのはなぜだろうか。
それは、コンビューダーが、人間とは何かの問題を逆照射してくれる存在だからである。
われわれは自分を理解するために、他者を必要とする。
だから、19世紀から始まる〈進化論〉の主張が、人間の自己理解に大きな混乱と変動を
引き起こすことになったのは当然である。自分とは、動物ではないものであったはずなのに、
自分は動物だった、と知ったら、自己を浮かび上がらせるべき他者(つまり、自己を確定
すべき境界線)が消失することになるからだ。そこで、通常動物には欠けていると考えられる
諸特性因たとえば、計算合理性、言語能力、抽象化能力などが、われわれ人間の
アイデンティティの根拠となりはじめたのである。そして20世紀の半ばに出現してきた
コンピューターは、人間を理解するための新たな<他者>となったのである。
人間ではないものが動物だったときには、人間と動物とが共通に有している能力よりも、
知的・理性的側面が、人間固有の特徴として逆照射されていた。
しかし、コンピユーターは、この「論理的能力」を特化した存在であるので、
今日では、人間とは何か、を考える場合、その知的・論理的能力は、
人間固有の特徴としてクローズアップされにくくなってきている。
むしろ、動物と共通する能力のほうが、逆照射されはじめている、といえるだろう。
だが、コンピューターと動物という二つの〈他者〉から、同時に自己を隈界づけ、
確定しようとすると、この両者に挟まれて人間の自己理解は深い困難を抱えこまざるをえない。
動物という<他者>によってわれわれを逆煕射しようとすると、コンピューターと我われとの
差異が見えないし、コンピューターという<他者>によって動物とわれわれとの差異が
見えにくくなるからである。
                  ○(´・ω・)ノ ホン ヂャァネッ
・・・・・・・
2006年11月24日(金)
2061, 虐めについて
         (+>∀<+)ノ  おぁはは~ようさん!
‘虐め問題’の解決などあるはずがない、家庭内の不和が原因にあるからである。
自分にかかった血を学校の弱者に塗りつけるのが虐める方の理由である。
情報化により弱肉強食社会の傾向が強くなればなるほど、
家庭内へストレスが持ち込まれざるを得ない。
下流社会化の傾向の中で、そのストレスの捌け口が弱者に向かうのも当然である。

振り返ってみれば、小学校、中学校で酷い虐めがあった。
虐めっ子は家庭内が壊れていたためか、その後の人生をみると不遇の人が多い。
逆に虐められていた方が、まともになっている方が多いのは面白い現象だ。
ただ潰されないことが前提だが。
こういう時代になったら、「ギブアップ・システム」をつくり、
虐められっ子の転校をしやすい環境をつくってやることも必要だ。

 数年前のことだが、中学校時代に殺してやりたいほど憎んだ男が、
40数年ぶりの同窓会で隣の席に座った。
隣に座るまで「殺してやりたいほどの憎しみ」を忘れていたから、
大したことはなかったのだろうが・・・
酔った勢いで、「お前は中学校時代に理不尽なことで頭を殴っただろう。
小中学校時代で殺してやりたいほどの男の7人のうちの一人だ」と言ったところ、
「あの当時、両親の不和で自分でも大荒れで、誰見境なく喧嘩をうっていた。
野球部でも、俺がいたため何人も辞めていってしまった。
ところで7人のうちの何番目?」とのこと。  {三番目!」
他のクラスだったが、そのネジレの酷さは私の耳にも入ってきた。
今さら指摘されることもないという風であった。

集団社会に住んでいれば、何処でも相性の合わない人が一人や二人はいるもの。
四苦八苦の中にも「怨み憎む人と出会う苦しみ(怨憎会苦)」があり、
娑婆にいる限り避けて通ることはできない。
だから、小中学校時の虐めも、娑婆ー社会に出たときの火の出るような虐めに対する
予行演習でもあるといえるが・・・ 袋叩きにしたいのあまりにも多い。
誰も加害者であり、被害者でもあるのが娑婆である。
  でも人生は、嫌なことの数百倍、よいことがある。探し求めればだが!
   --
ところで、朝日新聞の一面に〈いじめられている君へ〉
「すばらしい瞬間必ず来る」が連載されている、なかなかよい。
短い人生論のようでもある。 その一つをコピーしておこう。
 
 ーあさのあつこ さん 2006年11月14日ー
 
 「おれはおまえの文章が好きだ。才能があるぞ」。
中学校のとき、先生は私の作文をそんなふうにほめてくれました。
作文の内容は忘れましたが、先生の言葉の内容だけはよく覚えています。
何となく「もの書き」になりたいと思っていた私は、「夢を捨てなくていいんだ」と、
自信を持つことができました。

 そのころの私は、勉強も運動も真ん中の下くらい。
「ほかの人とちがう人でありたい」と考えているのに、
「ちがいを出すにはどうすればいいの」と迷っていました。
「あまりちがいすぎてもこわいな」とも思っていて、
「だれか答えを教えて」という気持ちでした。
先生がほめてくれたのは、そんなときです。

もし前日に私がいなくなっていたら、こんなすばらしい瞬間に出会えませんでした。
こうした瞬間が来るのは明日かもしれないし、10年後かもしれません。
でも、君たちより何十年も長く生きてきた大人として、これだけは言えます。
「すばらしい瞬間は必ず来ます」

 中学野球が舞台の小説「バッテリー」を読んだ若者から手紙をたくさん
受け取りました。「元気が出た」「明日、学校へ行ってみます」。
そんな手紙を受け取ると「自分がだれかを支えている」と、
とてもほこらしく感じました。
「もし、私がいなかったら、その人を元気づけるものが一つ減っていた」と。

 人は生きていれば必ず、だれかに支えられるだけでなく、だれかを支えています。
もし、あなたがいなくなれば、あなたに支えられるはずだった大勢の人を
悲しませることになるのですから。
                (*^ワ^*)i バイバイ
・・・・・・・・・
2005年11月24日(木)
1696, 辺境へ -2

  この本で紹介している星野道夫の「人を通して風景を見る」という言葉がよい。
  写真も、同じことがいえる。 やはり現地人の入った写真は背景をひきたてる。
   そのことに最近になって、やっと気がついた。 人生も同じである。
    全く、今まで何をしていたのか?      ヽ(゚Д゚;)ノ!!
     旅行記はおおよそ、飾らない真実の言葉で綴られている。
     写真と共に読むと、その場に吸い込まれてしまう。
  OO                              
   ∥┓  ((  
  (_)  匚P 
   ━┻                       ((φ(-ω-)カキカキ
  最後の章の[忘れえぬ人々ーあとがきにかえて]の中の、著者の言葉がよい。        
 ー 世界をあちこち歩いたことで、たくさんの経験を積み、
  さまざまなことを考えさせられる機会を得た。
   しかしなんといっても、ヒマラヤを旅をする中で得られたもの、
    ひと言では表現できない「気」のようなものが自分の中に、
     あるいは取り囲まれるように存在するのを感じる。
     ヒマラヤの高みは天に近く、心安らかになり、容易に俗世間を思うことが出来る。
     麓にはその山を敬う人々が暮らし、心優しくたくましい。
     そんな世界を歩き、体験した中で、とてもいい[気]を感じる。
     下界では絶対に出会えない心洗われる風景、永遠なる宇宙の時間の流れ、
    すべてを許すことのできる大きな心、世界には多くの宗教があるが、
   それらの底にある根源が少しだけ実感できたようだ。
  自分の目で見て、体で感じた自然や秘境の大きさは、
  いかに人間が小さく儚いかを教えてくれて、地球にいる自分の姿勢を正してくれる。
                シ──(-ω-)(-ω-)(-ω-)──ン
    ひと言ひと言が、ズシリと胸の奥に響いてくる。
   この言葉の数分の一を味あうために、旅行に出ている。
  秘境の地に行けほど、人々が優しく、文明の地ほど、人がけばけばしいのは、
   如何いうことか? 都会は、その典型として現出している。
    人類は何をしてきたのだろう。                  
                     (^_^)/~~
 ・・・・・・・・
 2004年11月24日(水)
 1331, 相撲に思う

数年前までは、
・学生相撲 対 序の口からの叩上げ相撲の対戦であったが、
 現在では
・外国勢士 対 日本勢、 ー異種格闘技
・古参力士 対 新鋭力士 対戦を見ていると、その分類に7割は入る。

 無双山が引退に追い込まれたが、現在の大関と元大関のほぼ全員が
 一~二年後には引退に追い込まれているだろう。
 魁皇横綱挑戦というが、相撲の世界に存在しているかどうかである。

 モンゴルなど元ソ連圏の力士が、小さな相撲業界を占拠はじめた。
 相撲を、日本的ルールの多国籍の格闘技としてみると違って見える。
 相撲は八百長が当たり前の旧態依然の世界であった。
 談合を確認するために、それぞれの親方が土俵の周りに居座っているとも
 解釈することもできた。それにしても、新鋭力士の台頭が新鮮にうつる。
 今年になっての新入幕力士は10人もいる。
 昨日のワインの話ではないが、今年はワイン同様あたり年である。

 以前、昭和38年生まれが台頭した大当たりの年もあった。
 今は、それが外国勢のハングリー精神旺盛な若者というのが特徴だ。
 外国人を相撲に開放するのは問題というが、もし彼らがいなかったら
 全くつまらないものになっていた。これも時代である。
 それにしても、お客があまりにも少ないのが気になる。
 平日で3~4割も入っているかどうかである。
 それも年に一度の地方場所でだ。 大型TVの普及もあるのだろうが。
   世界各国にTVの放映すればよい。

・・・・・・
2003年11月24日(月)
964,「アルビレックスの優勝」

 今日13時から新潟で、地元のアルビレックス新潟と大宮アルデージャの
一戦が行われた。アルビレックスが1-0で勝ってJ2の優勝を決めて、
サッカーのJリーグの一部昇格を決めた。
TVで見ていたが、息をのむ緊迫した盛りあがった試合であった。
勝った瞬間のスタジアムの熱気がTVでも感じることができた。
一年で再び2部に落ちないことを望むが。

夏に招待券を貰って新潟スタジアムに初めて行ってみた。やはり現場に行くと迫力は違う。
これで来年は一部昇格で、新潟もサッカー人気で盛り上がり、景気には少しは良い材料に
なるだろう。新潟は公共事業の削減で、北海道・長野に続いて落ち込みの厳しい地域である。
来年は長岡を中心にして更に落ち込みが厳しいだろう。
その意味では、少しは明るい材料になればよいが。

サッカーは、あまり興味が無かったが、去年のワールドカップが新潟で開催を
されたこともあって少し関心が向いてきた。そしてJ.1に昇格である。
来年はこれを契機に、今の二倍の感心が向くのではなかろうか。
オリンピックの年ということもあり、面白い年になりそうである。

去年新潟で一軒だけあった「サッカーファンに絞り込んだパブ」に行った。
大きなTVプロジェクターにサッカーの試合の場面が映し出されていた。
店内は新潟アルビレックスの旗が飾られていた。しかし、近く閉店をするといっていた。
ファンはお金の無い層で成り立たなかったとか。
その前が、夜のホステスを対象にした店で、23時から朝の8時まで営業をしていたという。
バブルがはじけてホステスが来なくなって「サッカー専門パブ」に変えたが、
やはり駄目だったとか。 色いろあるものだ。

・・・・・・・
590, 愚か者と馬鹿者
- 2002年11月24日(日)

宗教学者の対談の中で、愚か者と馬鹿者の定義をしていた。
・愚か者とは社会一般の常識しか知らない者。
・馬鹿者とは一般社会を離れて見ている者。
そう見ると、世間様は愚か者の世界そのものだ。

見るところ80?が愚か者? 愚か者の目で見たら、
超越している人は正しく馬を鹿という文字どうり馬鹿者だろう。
「馬鹿になれ!」とかいうのは愚か者に対する宗教者の視点である。
教養はその視点を時間をかけて積み上げた経験と知識をいうのか。
私などは愚か者に馬鹿が加わった馬鹿愚者である。
それすら気が付かない愚か者よりマシなのか、それ以下なのか??

社会常識を元々知らない事と、知った上で離れてみる視点を持つことは別だが。
愚か者はその識別さえできない。
私の知人のある匂いを持った愚者の群れは一番嫌う人種だ。
嫌うという事は、自分もその匂いを持っているという事だ。
何か誰にもいえることだから、誰もが考えてしまう問題だ。
男はつらいよ」の映画のある場面に印象的な場面があった。
ある地方の少し頭の軽い男に誰かが「この馬鹿!」といった。
言われた男が「馬鹿に馬鹿というのが一番馬鹿だ!と母ちゃんが言っていたぞ!」
 よく考えてみたら、自分が一番愚者だった!!??
  気がついているか、いないかの差だろうが!                  

・・・・・・・
11月24日 (日曜日) 
          1968年
10時に起床。
ある部屋で、朝っぱらからダンスの模擬講習会をしていた。
面白そうなので早速参加をする。ジルバとルンバとブルースを一通りマスターはする。
15時に市川さんが部屋に来る。その話をすると「自分にもダンスを教えてくれ!」
ということで、今度は私の部屋で講習会みたいになる。

そういえば昨日スナックで飲んでいたとき、三年の植本くんが
「(同じゼミの同期の)田島さんが、私について評価をしていた」
といっていたと教えてくれた。
「堀井はいつも人を冷静に見て平等に公平に評価をしてくれる」といっていたという。
また反面「自分が傷つくのが恐くって構えている。それが堀井の壁になっている」
ともいっていたとか。 なるほど鋭いものだ。

そういえば深井にも同じようなことを言われた。
「絶対にわき道にそれることはない。ノロノロと中速の速さで、
事故も無く、一定の速さで進む。しかし高速道路を見つけ得ないだろう」と言われた。
一年・年下の駒村孝道にも
「ものごとを考えすぎだ。若いのに考えて判断できる歳ではないのに。
行動をした後に考えるべきだ」とも言われた。なるほど一理がある。
高木の言うとおり「なすがまま、その場におぼれること」も重要だ。

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ー卒論について
11月になって、風邪をひいたり、ハイキングとか試験で全く進まなかった。
他のゼミの同期が卒論に対して全く進んでないことを言い訳にしている。
それを言い訳にして遊びすぎである。他の人に流されるとは。
寮生とアマリにも付き合いすぎる。一人の時間を見つけなくてはならない。
彼らと群れることで自己逃避をしているのか。
独りの中心点の神秘な部分を大事にしなくては。

卒論は12月10日まで、下書きを書き終えること。
せっかく新潟の六日町の雲頓庵に2週間も篭ったのだから。
11月28日、12月2日、5日が中間試験だ。そして6日がゼミと続く。
この間が卒論の勉強は無理である。いや両立をさせなくてならない。

ゼミと人事管理は27日と28日までに。
26日には「価格理論」を。ということは明日しかないということだ。
そうすると明日の予定は中止か。約束はしているが、可能な限りやらなくては。