2006年11月21日(火)
2058, あたりまえなことばかり −12
     (。^0^。)ノ オッ(*^○^*)ノ ハ〜 ヨウ

死は他者の死しか知ることができない。 そして他者のごく身近な人の悲しみの表情をみて、
死=悲しい、という構図を長年人間は描いてきた。象も死んだ子供や仲間の死を悲しむというが、それも、
その象の表情を見て、勝手に思っているだけである。虚無になる恐怖感と言えども、「無になる」とは
他者の死体を見たイメージでしかない。人生ー生死が何ものか解らないのに意味など果してあるのだろうか?
という、疑問が成り立つ。せいぜい、年寄りの老化現象でしかないのか。
といって、意味の意味が、「価値」とするなら、「人生の価値は無い!」と切り捨てることも出来まい。

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 *死ぬことは不幸のことなのか −?
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「どうせ人は死ぬ」と人はいう。「だから人生に意味は無い」と。
「死ぬ」ということと、人生の意味のあるなしは、どうして関係しているのだろうか。
「どうせ」という言い方によって、死ぬことが既に否定的な意味として捉えられている。
しかし、死ぬことが既に有意味か無意味か、生きていることにおいて言及できない以上、
「死ぬ」ということと、「生きる」すなわち「人生」の意味の有無とは関係しないはずである。

    文字通りの「観念」としてしかあり得ないところの「死後」の観念によって、
    この現実を意味づけようとする、それこそが悪しきニヒリズムなのだと、
    ニーチェは指摘した。生に意味があるのは、この生自身に意味があるからだ。
    この生、この瞬間がそれ自身で意味があるのでなければ、
    どうして人生に意味などあり得よう。目を覚ませ、見よ、この現在、
    この瞬間にこそ、この永遠は実現しているではないか!

一般的に、早逝した人のことを不幸だと人は言い、「生きていれば、もっと良いことがあったのに」
という仕方でその死を哀しむ。しかし、「生きていればもっと悪いこともあったのに」とも言えるのだから、
じつは何をいったこともなっていない。他人の死をどちらかと言えば不幸と感じるのは、残された人の悲しみを思い、
それをそのまま死んだ人の痛恨だとしている場合も多い。死んだ人が不幸と思うのは、明白に観念でしかない。

    他人の死を不幸と感じるのは、どういうことか?
   「悔いを残す、残さない」という言い方によって、人は孝、不幸の感覚を述べようとする。
    そのとき、生に悔いを残さないことがその生の幸福であるとされている。
    これを言及できない死の側から言えば「成仏できる、できない」ということになる。

生の幸福の成就のための経験もしくは努力の断絶、これを不幸だと感じて生きている
われわれは、死そのものを恐れているのではなく、実は生の不幸を恐れているのだろう。
不幸で死ぬのは不幸だ、だから「まだ死にたくない」であり、裏返せば「もう死にたい」
となり、逆に幸福の絶頂においては、「もう死んでよい」ということになる。
しかし「死んでも良い」も、死はやはり否定性として捉えられている。死はかくまで深く生の意味の源泉になっている。
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   私の60歳の実感の一つとして「60歳の人生に悔いない」が偽らざる気持ちである。
   やり遂げたという悔いは無い、ということではない、その時点時点で、
   精一杯であったという意味でしかない。その「悔いが無い」というのも、
   人生の孝・不幸で、孝の要素が多かったと、自分自身に説得しているに過ぎない
   ことになる。 「死」が、直線上に存在していると思っているからだ。
   しかし、そうとはいえ、やはり悔いがないのは実感であるが。
                (*^ワ^*)i  バイバイ!
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