2003年02月05日(水)
672,嘆きの部屋

・高校同級の土田氏が入院でわずか3週間で亡くなった。 食道がんで肺に転移もう末期だったという。
 一瞬で地獄の底に突き落とされた恐怖は言語に絶するものだったろう。「病院には嘆きの部屋」があると
 モッケイクラブを事務所の部屋で開いていた時に、看護学校の末期医療専門の女の先生が話してくれたことがあった。
・絶望のその気持ちや混乱を大声で喚くことで静める防音の部屋がどこの病院にもあるという。 
 もう他人事ではない年齢だ。 それまで生きてきた全ての人生を圧縮した時間が流れるという。
 キュ−プラー・ロスという「死ぬ瞬間」という本を出している死の見取りを専門にしてきた人が、
 その本で究極の死を受け入れの心理過程を書いている。確かまずは拒否、怒り、取引ー自分との、受容。
・父が死ぬまでの一年間、しっかりとその時間の中でそのプロセスをみた。
 生への渇望ーその砂漠の真ん中に一人取り残された生への渇きの極限状態だ。
 その時父に「昔の哲学者がー本人にとって死はない!という話をした。 死んだ瞬間それは自分でないから、
 生きている限り自分の死は存在しない。存在するのは他人の死だけだーエピクロス」と。
 父がその時ホッとした顔で「死について初めて解ったような気がした」と答えた対話が鮮明に残っている。 
 それまでの父の口癖は「死んでしまえばそれまでよ!」であった。
・死ぬのは仕方がないことである。ただ後悔をして死にたくない!いや、後悔したっていいじゃないか、
 死んでしまえば全て無なのだから。 生まれる時も独り、死ぬ時も独り。生きている時も独りだ。
 ただ忘れているだけでしかない。考えてみれば、生まれる前の状態に戻るだけ。
 誰もが生まれる前の状態と、死んだ後の状態が生きている時でも取り囲んでいる。
 寝ている状態はその際に戻っているのだろう!
                        以上、死のおさらいでした!
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