2006年11月10日(金)
2047, あたりまえなことばかり −3
オッ(*^○^*)ハ〜
ー 読書日記
難しいことを、わかりやすく書いてあってよい。 考えることは数多ある娯楽の中で一番面白いと・・
如何にわかってないかをわかること、無知の知の自覚こそ哲学の原点という。
そして「きちっと考えれば悩まなくなる」というが、そのとおりである。
自由への道を一歩一歩、考えながら歩むことになる。
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「あたりまえなことばかり」
?・ 考えるとはどういうことか ー?ー
ソクラテスもこう言ってます。「何も考えても何の得にはならない、しかしわからないことをわかろうと考え始めて、
如何にわからないかということをはっきりわかることができる」彼はこれを無知の知という言い方をしました。
つまりはパラドックスの自覚です。このソクラテスの無知の知という自覚は、哲学の原点です。
考えてもわからないから、なお考えるのです。 逆に、考えるということはそこから始まるのです。
この「考える」ということは、世の中にある他の面白さなど大したことはない、というふうになります。
他の娯楽が多くあるが、直に飽きます。それはその面白さが大したことがないからです。
考えることがなぜ飽きないかというと、いくら考えても先があるからです。
もう少し実用的な言い方をすると、きちんと考えていると、悩まなくなります。
考えることが自分から始まって宇宙まで広がると、その開放感とか自由感は凄いものなのです。
なぜなら、非常に大きなところから自分を見る視点を獲得するからです。
相対的な視点が獲得できると、我われは日常のべったり張り付いている場所に居ながら、
また宇宙大の視点から見ることができるから、非常に自由になれるわけです。
今が日常のすべてと思い込んでいる人が、こういう目を持つことができれば、あれこれ悩んだり喧嘩したり
することから開放されるのです。死体が残って、死が何処にもなければ、人は当然、魂という発想を持つわけですが、
これを上手く語る言葉がない。 また魂を語るといって、これは死後を語るということではないのです。
死後とは、これこれであると言ってしまえば、それは宗教になってしまいます。 死後は誰もわかっていないのです。
ですから、古代の人の死生観が如何に自然であったか気づくわけです。
どうやら人が自分を自分と思っている自分は、それほど明確なものではないらしい。
自分と宇宙、自分と他人というものをうまく分けられない。
万物は流転しているようだとだんだん気づいてきます。そうすると再び、
今ここに居て何かをしている自分は何か、という問いに戻ってきます。
我われがこの地球に存在したことの意味と目的というのは、考えることによって、その不思議さを自覚することによって、
自由になることにあると思います。 我われは考えないことによって、要らないことにいっぱいこだわって、
不自由になっているいるわけですから、考えることによって、それから一つ一つ自由になっていく。
また本来すべての我われが自由であったということに、考えることによって人は必ず気づくはずです。
謎を自覚することは、自由である他になりません。
だからこそ人は、じっくり考える必要がある。考えて、自覚すること、自分が自分であることの謎を
自覚することこそ、この時代の人生を生きることの意味は尽きていると考えます。
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以上が「考がるとはどういうことか」の主旨である。
「人間の最上の快楽は考えることである」というのは、少しは納得できた。
秘境旅行に行って、サッパリして帰ってくるのと酷似しているから尚のことだ。
最果ての地で直感した開放感と自由感は、その離れたところからの大きい視点を
得ることによって、確実な心の基点を裏づけとして、何時までも残る。
それが、哲学することー考えることと酷似ているということである。
哲学も、秘境旅行も、その蓄積により自分の中の自由を大きく切り開いてくれる。
我われは、よく考え、よく生きることによって、よき自分の物語を持つことができる。
自分の中に自分の物語と、歴史の物語を重ねることによって、互いのプリズムを照らし合わせて
輝かしい人生にすることが、哲学をすることに求められるのではなかろうか。
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