つれづれに

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 今日のYoutube
https://www.youtube.com/watch?v=l7K5dhiuYT4

 変わりばえのない日々が続いているが、有難いと思わないと!
今年も、あと50日あまり、大災害と、株式の暴落は無かったが、円安が始まった。
 エボラ出血熱の感染が大きな広がりがなければよいが。
アメリカの議員中間選挙オバマが大敗したのも、大きなニュース。
これでアメリカは、動きが取れないだろうから、テロとか、中国の暴発も有りえる。

 

・・・・・
2412, 暴対法について
2007年11月10日(土)

 ○( ̄ ̄ ̄ ̄o ̄ ̄ ̄ ̄)○ おっ W( ̄ ̄ ̄ ̄∇ ̄ ̄ ̄ ̄)W は~♪

また、九州で暴力団の素人を巻き込んだ殺人事件があった。
こうなったら、「暴力団対策庁」を「警察庁」から独立して設立すべきである。
暴対法が出来てまる15年、その社説が先日の産経新聞に出ていたが、
この法律が出来てから見るからに暴力団風の男の宿泊は激減した。 
またクラシックなパターンのホテルへのカツアゲも殆どなくなった。
開業以来ほぼ強請り取られた経験はないが、それでも現場は常に緊張感に包まれている。
地元の暴力団は比較的に大人しいが、それでも数年に一度はニアミスを起こしそうになる。
「ホテルは警察が常に出入りをしている場所」ということを彼らは知っているので、
無理難題は言ってこない。 脇を固めていれば、付け込まれることはない。
実感として暴対法以来、弱体化していることは確かである。
数年前に内輪もめのイザコザで組長と幹部が逮捕されたが、以前のような勢いはない。
マフィア化したのかもしれない。

その記事によると
・暴対法の実施から、構成員の半分が準構成員になってしまった。
 警察の目から隠してしまい、マフィア化が進んでいった。
 昨年末で構成員4万1千に対して準構成員が4万3千と準構成員の数が上回った。
 シノギも不景気で厳しくなり、ファジーのパート化?分社化していった。
・警察も暴力団との癒着を恐れ、接触を避けるようになり、
 暴力団も組織の情報統制を図り、対決姿勢を露わにしだした。
・中小の暴力団は弱体化が進み、地回りなどの収入が激減、多くが消滅していった。
 反面、山口組が、その中で過半数を占める寡占化が進んだ。

以前は、構成員は普通のスナックではあまり見かけなかったが、
最近は得体の知れない怪しげな風体の男を彼方此方で見かけるようになった、
そのため繁華街には以前のように気楽に歩けなくなってきた。
素人(チンピラ)のアマチュア化、プロ(ヤクザ)のセミプロ化ということか。
堂々と犯罪組織が看板を上げているのは世界広しといえども日本だけというのは、
如何いうことだろう?
              ヾ(・д・。)バイバイ
・・・・・・・・・
2006年11月10日(金)
2047, あたりまえなことばかり -3
      オッ(*^○^*)ハ~
                   ー 読書日記
難しいことを、わかりやすく書いてあってよい。
考えることは数多ある娯楽の中で一番面白いと・・
如何にわかってないかをわかること、無知の知の自覚こそ哲学の原点という。
そして「きちっと考えれば悩まなくなる」というが、そのとおりである。
自由への道を一歩一歩、考えながら歩むことになる。

 ーーー
「あたりまえなことばかり」 
?・ 考えるとはどういうことか ー?ー

 ソクラテスもこう言ってます。
 「何も考えても何の得にはならない、しかしわからないことをわかろうと考え始めて、
  如何にわからないかということをはっきりわかることができる」
 彼はこれを無知の知という言い方をしました。つまりはパラドックスの自覚です。
 このソクラテス無知の知という自覚は、哲学の原点です。考えてもわからないから、
 なお考えるのです。 逆に、考えるということはそこから始まるのです。
 
  この「考える」ということは、世の中にある他の面白さなど大したことはない、
 というふうになります。他の娯楽が多くあるが、直に飽きます。
 それはその面白さが大したことがないからです。
 考えることがなぜ飽きないかというと、いくら考えても先があるからです。
 もう少し実用的な言い方をすると、きちんと考えていると、悩まなくなります。
     
  考えることが自分から始まって宇宙まで広がると、
 その開放感とか自由感は凄いものなのです。
 なぜなら、非常に大きなところから自分を見る視点を獲得するからです。
 相対的な視点が獲得できると、我われは日常のべったり張り付いている
 場所に居ながら、また宇宙大の視点から見ることができるから、
 非常に自由になれるわけです。

  今が日常のすべてと思い込んでいる人が、こういう目を持つことができれば、
 あれこれ悩んだり喧嘩したりすることから開放されるのです。
 死体が残って、死が何処にもなければ、人は当然、
 魂という発想を持つわけですが、これを上手く語る言葉がない。
 また魂を語るといって、これは死後を語るということではないのです。
 死後とは、これこれであると言ってしまえば、それは宗教になってしまいます。
 死後は誰もわかっていないのです。
 
  ですから、古代の人の死生観が如何に自然であったか気づくわけです。
 どうやら人が自分を自分と思っている自分は、それほど明確なものではないらしい。
 自分と宇宙、自分と他人というものをうまく分けられない。
 万物は流転しているようだとだんだん気づいてきます。そうすると再び、
 今ここに居て何かをしている自分は何か、という問いに戻ってきます。

  我われがこの地球に存在したことの意味と目的というのは、
 考えることによって、その不思議さを自覚することによって、
 自由になることにあると思います。
 我われは考えないことによって、要らないことにいっぱいこだわって、
 不自由になっているいるわけですから、考えることによって、
 それから一つ一つ自由になっていく。
 また本来すべての我われが自由であったということに、
 考えることによって人は必ず気づくはずです。
 謎を自覚することは、自由である他になりません。
  
  だからこそ人は、じっくり考える必要がある。
 考えて、自覚すること、自分が自分であることの謎を自覚することこそ、
 この時代の人生を生きることの意味は尽きていると考えます。
 ーー
  以上が「考がるとはどういうことか」の主旨である。
「人間の最上の快楽は考えることである」というのは、少しは納得できた。
 秘境旅行に行って、サッパリして帰ってくるのと酷似しているから尚のことだ。
 最果ての地で直感した開放感と自由感は、その離れたところからの大きい視点を
 得ることによって、確実な心の基点を裏づけとして、何時までも残る。
 それが、哲学することー考えることと酷似ているということである。

  哲学も、秘境旅行も、その蓄積により自分の中の自由を大きく切り開いてくれる。
 我われは、よく考え、よく生きることによって、よき自分の物語を持つことができる。
 自分の中に自分の物語と、歴史の物語を重ねることによって、
 お互いのプリズムを照らし合わせて輝かしい人生にすることが、
 哲学をすることに求められるのではなかろうか。
 
 ・・・・・・・・・
 2005年11月10日(木)
  1682, 「ひとを嫌うということ」-1  
                    -読書日記
学生時代や、勤めていた時代に多くのタイプの人と接する機会があった。
また、多人数の兄姉の末っ子ということもあり、かなりきつい虐めにあった。
学生時代の寮やクラブの先輩や、勤めているときに合わない先輩との確執も多々あった。
人間であるかぎり必然である。
仏教でも四苦八苦の中で、怨み憎む人と出会う苦しみ(怨憎会苦)を説いている。
ここで取りあげるのは、こういう「程度の高い?」憎しみではなく、
普段どこでもあるような嫌いについてであるが。

ひとを好きになることについては多くの本があるが、
その反対の「嫌う」という問題を、真正面に捉えている非常に面白い本である。
ひとを好きになれ、しかし嫌いになるなというのは、
食べてもいいが決して排泄するなといっていると同じで、どだい無理である。

著者の中島義道は、とことん他人から嫌われてきて、そしてやたら嫌ってきたが、
ある日を境に、人生の大問題になってしまった。
何となく嫌われていた妻子から、ウィーンで大喧嘩をして・・・
そして徹底して嫌われるようになった。

 冒頭の「はじめに」から、すざましい内容になっている。
ー「思えば、母は父を嫌って死の直前の40年間、彼に罵倒に近い言葉を
浴びせつづけていた。その同じほとんど言葉を、今や妻の口から出てくる。
そして、私もまた父を死ぬまで嫌っていた。いや、死んでからもなお嫌っている。
息子が、また私をはっきり嫌っている。 これは一体何なのだ!
私はみずから生きていくために「嫌い」を研究するしかないと悟った。
つまり、私は自分を納得させるために本書を書いたのです」
本書で私がつかんだことは、それは「嫌い」という感情は自然であること、
そして理不尽であること、しかもこの理不尽こそが人生であり、
それを誤魔化してはならないということです。
 -
この本の初めから終わりまで、このような文章が延々と続く。
自分の心を代弁し、そして深く納得する。
だから面白くて面白くて一人不気味な笑いを浮かべながら、
中島義道の世界に引き込まれてしまう自分をみてしまう。
嫌うということは、食欲や性欲のようなもの。
その自然の欲求を、社会に生きているということで割り切って
コントロールすればよいと切って捨てている。
自他に対する嫌いをヒリヒリするほど感じることも時に必要であると。

私事になるが、私もこのことをジックリ考えたことが多々ある。
それも20歳の頃から。 そして、割り切ってしまった。
「嫌われることも、嫌うことも避けて通れないなら気にしないことだ。
受けとめかたとして、好き嫌いを二の次にする。
他人の思惑も大事だが、自分の受けとめ方のほうがもっと大事。
人は何時も自分がどう思われているか気にしている、それはそれでよい!
そんな感情など情念のひとつでしかない」と。
あと27歳の時、自分で事業を立ち上げた時も、割り切る機会になった。

一神教」のキリスト教ユダヤ教の信者は、内面に共通の価値観がある。
しかし、多神教の日本人は如何しても周りの顔色をみるしかない。
自分のなかに絶対という信念を持てないからである。だから、嫌われることが恐ろしくなる。
人間関係に悩み傷ついている人は、この本を読めば大きく癒されるはずだ。
この男を見ろ、憎悪を持つ前に、嫌いを訓練すればよいと納得するだろう。

そういえば、歳を重ねるほど憎悪など持たなくなる。
気持ちの処し方が出来てしまったのだろう。
憎悪する前に、気持ちの中で抹殺してしまうから?

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2004年11月10日(水)
1317, ベスト・エッセイ集-1

’03年度版ベスト・エッセイ集「うらやましい人」がなかなか面白い。
何冊か図書館で借りてきた本の一冊で、殆んど読まないで返そうとした本である。
この地震で図書館が閉館していた為に返しそこねて手元にあった。
何となく新幹線の中で目を通したところ、それぞれが面白い。

 そこで、後書きをよく読むと、毎年、日本エッセイスト・クラブ日本文藝家協会が、
前年の日本の雑誌に掲載された膨大な数のエッセイのなかから、
それぞれ「ベストエッセイ」を選び、単行本化しているものであった。
エッセイ好きを大いに楽しませている本で、20年間も毎年刊行されているとか。
なるほど、面白く味わい深いのは当然である。
もっと早く知っていれば、必ず毎年ごとに購入したと思わせる内容である。

 作家のみならず、多くの分野の専門家や素人の作品まで掲載してあって
ミックス感覚で飽きないのも良い。
著名な作家や経営者や政治家が並び、文章のプロとしての充実感や
多くの分野の深い内容が書いてあったで読み応えがある。

 このベスト・エッセイ集のおもしろさは、エッセイという切り口から、
色いろな人の心が浮き上がってくることだ。 まとまった作品群を読んでいると、
それぞれの世界が、それぞれの内側からわかってくるような錯覚に陥ってしまう。

 この本に掲載された文のなかから、たびたび国語の入試問題が
出題されていて、教育関係者では知らない人はない本でもある。
60~70編のエッセイが収録されており、多くの世界を味あうことができる。
'04年版も刊行されているので、早速図書館で探してみる。
まだ半分しか読んでないので、その後になるが。

 もののプロセスが見えにくい時代の中で、エッセイは、日頃見えないプロセスや
人の感情の機微や揺れを描き、隠れた世界をかい間みることができる。
短文が心に残るのは、それぞれの世界を凝縮して見せてくれるためだ。
                       続く
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2003年11月10日(月)
950、「泣いて笑ってハッケヨイ」

 昨日より大相撲が始まった。そういえば先日、再放送であったが、
NHKの人間ドキュメント「泣いて笑ってハッケヨイ」が良かった。
今年の春場所に入った新弟子の何人かを追っていく内容である。

 中学を出たばかりの子供が、わずか数ヶ月の中で全く違った顔に変わっていく。
もし自分の子供であったら、涙が止まらないだろう。
気の弱い登校拒否の子が、相撲の中で克服していく姿が生々しく映し出されていた。
大きな志と小さな自信をもって相撲に取り組んでいく姿がそこにあった。

「体に痛さを慣れさせないと恐怖心に勝つことが出来ない」
という兄弟子の言葉が印象的であった。 そして稽古で痛さを体に憶えさせて行く場面は、
人生の根底の要点であった。 まずは自分の恐怖心を乗り越えなくてはならない。

 勝つことによって、だんだん意欲が出てくる姿が初々しくてよい。
いま大相撲が面白くなくなってきたが、こうして一人一人が自分の人生を背負って
闘っている姿をみると、じっくりと見直してみる必要がある。
今場所は、横綱武蔵丸が引退かどうかが一番の注目されている。
実際は無理だろうが、相撲の世界はわけの解らないところがあるからどうなることか?
 -過去に書いた大相撲の随想日記をコピーします。

 ・・・・・・・  
 相撲を考える
 2003年9月22日
 ー字数の関係でカット(2007年11月10日)
 
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 2003年03月12日(水)
707, モンゴル大相撲
 -字数の関係でカット
 
 ・・・・・・
 2002年09月22日(日)
527, 大相撲ー頑張れ武蔵丸

 まさか貴乃花が千秋楽で同点決勝に持ち込めるとは思ってなかった。
もし優勝をしたら大騒ぎになるだろう。こういう時に勝つのが大スターであるが、
彼はそれを持っている。 しかし心情からみたら武蔵丸の勝利が望ましい。
前回あまりにも貴乃花が劇的すぎた!武蔵丸のその時の姿がリアルにある記事に書いてあった。
おまけにその為に貴乃花を大怪我をさせてしまい、彼が負けると場内に座布団が荒れ飛ぶ。

 この一年余り、独り横綱も大変であったろう。
それが7場所も休んだ主役に優勝をさらわれたら、余りに気の毒である。
もし彼が勝ったら、盛り上がった今場所に水を差すことになる。

 貴乃花が勝ったら、一応彼の人生の大きな節目になるのではないだろうか。
横綱の道を歩く為には、今日は負けた方がよいだろう。
大鵬の30回の優勝に向けて、身体を作り直すチャンスだ。
勝てば他の力士に焦点を当てられてしまう。

 それにしてもスターの要素を持った若手がいない。
このままでは、ますます人気の陰りが増すだろう。
幕下と十両に元学生横綱の個性派と外人が数人いるが、輝いているかというとどうか? 
他の格闘技で面白のが、どんどん放映されているから八百長体質があるなら、
相撲人気はますます落ちていくだろう。

 ・・・・・・・・・
 576, ある時間の断面ー10
 2002年11月10日(日)

 ー1968年 9月27日
 7時半起床、8時55分に受講するがプリントをもらい損ねる。
受講後、川崎と池永とタッカーホールで話し合う。 石川をチョット無視をする。
たまには薬になるだろう。 図書館で合気道の同期の助川と久々に会う。
昼食を一緒にとり、今後のことを聞く。 彼も大変のようだ。

 その後ゼミに出席する。体調が悪いせいか議論では絶不調だ。
石川が今日は絶好調だ。彼に独壇場を許してしまった。
どうしたことか?疲れているようだ。
 
 ー1968年 9月28日
9時起床、また寝すぎたようだ。10時20分に川崎と待ち合わせの場所に行く。
しかし彼はこない、図書館に直行して、卒論のまとめをしていると、石川がくる。
12時頃再び待ち合わせのところに行くが彼はこない。図書館にいるとやっと川崎がくる。

石川と深井と川崎と松村の家に車で行くが、凄い家だ。山の手の家に入るのは初めてだ。 
(いや鳩山御殿に、ある会合で映画でいうその他のエキストラで行ったことがあった)
その後松村の家を出て、石川と深井と3人で[[赤と黒」というスナックへ行く。
それぞれの性格について話あう。 23時に帰寮後、服を着たまま寝てしまう。
夜半の2時に隣の部屋に先輩の川路さん、満田さんがきて騒いでいた。
それっきり眠れない。