2005年11月10日(木)
  1682, 「ひとを嫌うということ」−1  
                    −読書日記
学生時代や、勤めていた時代に多くのタイプの人と接する機会があった。
また、多人数の兄姉の末っ子ということもあり、かなりきつい虐めにあった。
学生時代の寮やクラブの先輩や、勤めているときに合わない先輩との確執も多々あった。
人間であるかぎり必然である。仏教でも四苦八苦の中で、怨み憎む人と出会う苦しみ(怨憎会苦)を説いている。
ここで取りあげるのは、こういう「程度の高い?」憎しみではなく、普段どこでもあるような嫌いについてであるが。
ひとを好きになることについては多くの本があるが、その反対の「嫌う」という問題を、真正面に捉えている
非常に面白い本である。ひとを好きになれ、しかし嫌いになるなというのは、食べてもいいが決して排泄するな
といっていると同じで、無理である。著者の中島義道は、とことん他人から嫌われてきて、そしてやたら嫌ってきたが、
ある日を境に、人生の大問題になってしまった。何となく嫌われていた妻子から、ウィーンで大喧嘩をして・・・
そして徹底して嫌われるようになった。

 冒頭の「はじめに」から、すざましい内容になっている。
ー「思えば、母は父を嫌って死の直前の40年間、彼に罵倒に近い言葉を浴びせつづけていた。
その同じほとんど言葉を、今や妻の口から出てくる。 そして、私もまた父を死ぬまで嫌っていた。
いや、死んでからもなお嫌っている。 息子が、また私をはっきり嫌っている。 これは一体何なのだ!
私はみずから生きていくために「嫌い」を研究するしかないと悟った。
つまり、私は自分を納得させるために本書を書いたのです」本書で私がつかんだことは、それは「嫌い」
という感情は自然であること、そして理不尽であること、しかもこの理不尽こそが人生であり、
それを誤魔化してはならないということです。
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この本の初めから終わりまで、このような文章が延々と続く。自分の心を代弁し、そして深く納得する。
だから面白くて面白くて一人不気味な笑いを浮かべながら、中島義道の世界に引き込まれてしまう自分をみてしまう。
嫌うということは、食欲や性欲のようなもの。 その自然の欲求を、社会に生きているということで割り切って
コントロールすればよいと切って捨てている。自他に対する嫌いをヒリヒリするほど感じることも時に必要であると。
私事になるが、私もこのことをジックリ考えたことが多々ある。それも20歳の頃から。そして割り切ってしまった。
「嫌われることも、嫌うことも避けて通れないなら気にしないことだ。
受けとめかたとして、好き嫌いを二の次にする。 他人の思惑も大事だが、自分の受けとめ方のほうがもっと大事。
人は何時も自分がどう思われているか気にしている、それはそれでよい!そんな感情など情念のひとつでしかない」と。
あと27歳の時、自分で事業を立ち上げた時も、割り切る機会になった。
一神教」のキリスト教ユダヤ教の信者は、内面に共通の価値観がある。
しかし、多神教の日本人は如何しても周りの顔色をみるしかない。
自分のなかに絶対という信念を持てないからである。だから、嫌われることが恐ろしくなる。
人間関係に悩み傷ついている人は、この本を読めば大きく癒されるはずだ。
この男を見ろ、憎悪を持つ前に、嫌いを訓練すればよいと納得するだろう。

そういえば、歳を重ねるほど憎悪など持たなくなる。
気持ちの処し方が出来てしまったのだろう。 憎悪する前に、気持ちの中で抹殺してしまうから?

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