2007年03月31日(土) 2188, 宮城まり子 −3

         (~Q~;)  おはよう〜〜
    今日で日経新聞の「私の履歴書宮城まり子」が終わった。深い世界を垣間見た思いである。
    純粋な動機こそ、一番強いのだろうか?彼女にとって、この生き方しかできなかったのだろう。
    障害者の一生を受けとめることは、生易しいものでない。
    人生の全てをかけて受けとめているのだから、これこそ人生の格闘である。
    数日前の、この場面が彼女の性格と強さが出ている。
    「私がやらなければならない!」という自負が、捨て身でコトに当たれるのだろう。

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ねむの木学園が始まったばかりで高校に進学する子はまだいませんでした。
「なぜ」「制度がないんだよ」私は躊躇いもなく東京に帰って、首相官邸に行きました。
1972年の9月16日。どんどん入っていって、「首相にお会いしたいんです」と言うと、
2~3分もしないうちに、大きなしわがれ声がして田中角栄さんが出てきました。

「今日は、総理大臣にお知らせしたいことがあって参りました。
両親のない子、貧しい子、よくできるのにお金がない子が日本中の擁護施設にいます。
大學にいくらなら自分で働いたらよいでしょう。けれども働いても定時高校にいけない子もいます。
その子が優秀なら高校にいけるようにしてください。面倒を見る職員のことも少し考えてください。」
「高校へ?」「はい」。
総理はしばらく黙って私を見ておられましたが
「やあ、ありがとう。勉強になりました。すぐ返事ができなくて残念だが、待っていて下さい」
と言われました。翌年1月17日に二階堂進官房長官から連絡施設が入り、養護入所児童等で
高校に進学できる能力を認めたものには国からの費用を交付する。
直接処遇職員については基本給に12~16?を加算するという制度に変わったことを教えていただきました。

吉行淳之介さん、亡くなって13年たちますが、ねむの木学園で格闘しているうちに、
愛する淳之介さんの病気が、慢性の肝硬炎から肝硬変に進み、その原因がC型肝炎であることをこっそり
知らされました。入退院を繰り返す中の彼の一挙手一投足を素知らぬふりをしながら眺めて
「まり子、淳之介とねむの木学園の子供達とどっちが大切なの」と思うときがあります。
「淳ちゃんを一番愛している。そしてもう一つの、一番愛しているのはねむの木の子ども」
私は、愛ってマシュマロみたいに柔らくて、二つに分けたらふわって大きくなると
思っています。すこし色彩が違うだけ。愛って、二つも三つにも増えても大丈夫、
愛して、愛して、愛しちゃって、もういっぱい愛しちゃったの。
こんな歌を歌ったことがありました。ミュージカル「イルマ・ラ・ドゥース」の中で。
そして私の淳のことをドクターの野郎は「ガンが見つかりました」と教えてくれました。

豊かな心の持ち主とは、こういう人をいうのだろう! このように人知れず
人生を恵まれない人に捧げている人 が数知れず存在している。
豊かさとは何か考えさせられた一月であった。
       ホンジャ~~ヾ(´ω`)バイバイ
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