ヽ(★>з<)。o○[ォハヨ]
 
  アランの幸福論といえば、次にヒルティの幸福論を取り上げなければなるまい。
  幸福論といえば、この数年来、哲学に熱くなっているので、浅いというイメージがわいてしまう。
  格言や、哲学書の中で、軽く考えるレベルと信じていた。
  しかし、突き詰めれば幸福感を求めているのかもしれない。
    幸せな人より、不幸せな生き方の人の姿?から、その不幸論がシビアに見えるからである。
    まあ、それはそれで・・・・ いや、無知が全ての原因ということが、あまりに哀れで!
    自分の姿を合せ鏡で見えたのだろう。 所詮、人間は結末は不幸なのだから。
  カール・ヒルティ1833年生まれの法律家。
   アランの「幸福論」はストア哲学的であるのに対して
   ヒルティの「幸福論」はキリスト教的で、お堅い。
  アランの幸福論ともに、幸福を、自分の内部だけで完結するものでなく、自分を離れた、
  外的な環境や社会に対しての関心や、献身的行動にこそ幸福があるとしている。
    ヒルティの幸福術のポイントといえば、
  1、仕事こそ最高の幸福  2、良い習慣を身につけることが第一  
  3、自分の意志で幸せになれる 4、人間を知ること  になる。
 それぞれの印象的な部分を抜粋してみた。   
ーーー
1=
「我を忘れて自分の仕事に完全に没頭することのできる働きびとは最も幸福である。」
2=
「喜びはある程度まで努力してつくり出すことができる、しかもごく簡単な方法によって。
 まず第一に、自分の持っている良きものに目を向け、その価値を認めて感謝することである。
 感謝は喜びにきわめて近い感情である。 
 次ぎには、他人に喜びを与えることである。これは誰でも、病人でさえも、できることであり、
 ひとに親切にする機会は、つねに、どこにでも十分にある。」
「本当に大切なのは、なによりも習慣の問題である。 
 第一の主要な規則は、すなわち、われわれは消極的に悪い習慣を捨てようと努力するよりも、
 むしろ常に良い習慣を養うように心掛けねばならぬということである。」
3=
「世にはわれわれの力の及ぶものと、及ばないものとがある。
 われわれの力の及ぶものは、判断、努力、欲望、嫌悪など、ひと言でいえば、われわれの所産の一切である。
 われわれの力の及ばないものは、肉体、財産、名誉、官職など、われわれの所為でない一切のものである。
 われわれの力の及ぶものは、その性質上、自由であり、禁止されることもなく、妨害されることもない。が、
 われわれの力の及ばないものは、無力で、隷属的で、妨害されやすく、他人の力の中にあるものである。」
「それゆえ、きみが本来隷属的なものを自由なものと思い、他人のものを自分のものと見るならば、
 きみは障害に会い、悲哀と不安におちいり、神を恨み、人をかこつことになるであろうことを忘れるな。
 これに反して、きみが真に自分の所有するものを自分のものと思い、他人のものを他人のものと認めるならば、
 だれもきみを強制したり、妨害したりはしないであろう。 きみはだれをも恨まず、非難せず、
 またどんな些細なことも自分の意志に反してなす必要はないであろう。 だれもきみを害せず、
 きみは一人の敵をも持たないだろう。そして、きみの不利となることは一切、起きないだろう。」
「苦しみは人間を強くするか、それともうち砕くかである。
 その人が自分のうちに持っている素質に応じて、どちらかになる。
 苦しみに出会ったら、まず感謝するがよい。それから、その苦しみが何のために役立つかをたずね給え。
 あなたがそれをただ避けようとせず、その苦しみの意味を理解しようと真剣に願うならば、
 やがて必ずそれを発見するだろう。」
「幸福に生活しようとする人は、何よりもまず自分の「気分」から完全に解放されることが必要である。」
4=
「人間を知り、人間を正しく判断することが われわれの実生活にとって極めて大切だということを、
 仮りにも本気で疑ってみた者など、まだ一人もいないであろう。人間知を得る第一歩は、自分を知ることと、
 自分を善くすることである。
 第二は、人間をば、自分のためでなく、彼らのために知ろうという決心である。
 そして第三に、人間についての完全無欠な知識を期待してはならないことであ
「人間を知ることは、人を観察する者がまず確かな自主性を持ち、またなんらの欲望もいだかぬとき、
 つまり観察する者の側で一切の利己心をできるだけ完全に捨て去るときのみに可能である。」
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   アランに比べると、少しお堅いが、じっくりと人生論として読むとよい。
   少しキリスト教倫理っぽいが。
                        ゚+.(ノ*・ω・)ノ* ホンジャ
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