つれづれに

イメージ 1

他のブログ
http://www.enpitu.ne.jp/usr5/54909/
http://horii888888.toypark.in/cgi-bin/s_diarys.cgi
http://d.hatena.ne.jp/horii888888/archive

  今日のYoutube

 台風の到来時間が午前3時だったが、実際は3時40分。
一陣の薄気味悪い風の音が聞こえて暫く吹き荒れ、豪雨の音が
聞こえてきた。そしていつもの様に4時起床をして、書斎に移動して、
パソコン前に陣取る。しかし一時間もしないうちに風も収まってきた。





・・・・・・
・・・・・・

4935,コトの本質 ー5
2014年09月18日(木)

  * 世間とは、リアルの社会を内部モデル化した様相   『コトの本質』 松井孝典
 これまでの『世間』の解釈で一番、納得できた言葉が、
「社会=リアル、世間=社会を内部モデル化したバーチャル」である。
社会との関わりあいで、世間という内部モデルが、バーチャルにつくり上げられる。
たかがバーチャル、されどバーチャル。リアルとは、ほど遠いが気にかかる虚構世界である。
  ーその辺りから
≪ 社会という言葉と、世間という言葉があります。我々が人としてその集団の中で生きて
いくうえの、その集団のあるがままの外界を、たとえば社会と呼ぶとします。社会は現に
存在する外界です。社会と世間は同列ではありません。私にとって、世間とは、脳の中に
つくられる社会を投影した内部モデルです。世間というのは、したがってリアルなものではなく、
バーチャルなものです。世間をどのように見ているかは、私の内部モデルとして、社会を
どう投影して考えているかということに関わってます。世間というものは、私の言葉でいえば
人間圏そのものともいえます。それは概念化された世界です。人の営みの、しきたり化されて
いるようなところから、価値観から何から、全部ひっくるめての世間でしょう。
だから、あるがままのリアルな社会とは、少し違います。人間圏のリアルの側面としての
社会については、絶えず観察をして、世間という私の内部モデルを更新してます。・・・ 
社会と交わるたびに、人間圏の諸々の情報が膨らんでいきます。すなわち、内部モデルの細部
が、どんどんできてくるのです。社会と関わるたびに、世間というモデルが作り変えられるのです。≫
▼ 日本人、とりわけ地方の地域社会は、世間という長年積み重ねられた地域偏見が一種の
宗教のように、それぞれを縛り付けている。そして、それがバーチャルであることさえ気づかず
人生を終える。だから、ライフワークを持っていないと、自分を見失ってしまう。バーチャルの
世間に埋没すると、ライフワークの価値が見えなくなる。だから、城下町は、文化度が高い人と、
低俗の人との二極分化が明確になってしまう。一般的に、低俗の人を世間というが、誰もが、
どこかに兼備えているから始末が悪い。それが年をとるにつれ老醜として露出する。
老いることは、恐しい! さらに、老いた群れは、醜く恐しい!
・・・・・・
4568,変えてみよう! 記憶とのつきあいかた ー4
2013年09月18日(水)
         「変えてみよう! 記憶とのつきあいかた」高橋 雅延 (著)       
* 幸せな人生とは、本人が決めること! 幸福感は、それぞれの人の核となる魂の問題で、
他人がとやかくいう問題でない。「不幸の極みと思っていたことが、実は幸運の仮面を被っている
にすぎない」と思えば、そう思えてくる。 実際に経験してみると、そこに多くの視点が見えてくる。
本当の幸福感は不幸の真只中にこそ、現れ出てくるのは人生経験を積むほど分かるはず。 
ー以下の箇所はなかなか含蓄があるー
≪『サザエさん』の原作者の長谷川町子のマンガで、小学四年生のときに読み、今なお
覚えている作品がある。 それは、一人の男の人生をめぐる、良い神様と悪い神様の話だ。 
何の不自由もない家に、玉のような男の子が生まれた。これを知った悪い神様は、どうも
これがおもしろくなく、この男の子の人生を惨憺たるものにしようとシナリオを練る。
そして、「男の子の身に次々と不幸が起こり、紆余曲折をへて船乗りとなった挙句に猛烈な
嵐に遭遇して、最後は絶海の孤島に流れ着き、そこで人生を終える」いうシナリオをつくりあげた。 
はたして、男の子の身には次々に不幸が襲いかかる。しかし、良い神様がそれに気づいて
彼を何度も助けたために、彼は幸せな人生を送ることになる。ところがその臨終の場で
彼は自分の人生を振り返って、本当に不幸な一生だったと言い出す。そして、自分の
夢は船乗りになって、どこかの島で人生を終えることだったと述懐して息を引きとるのだ。
二人の神様は、人間 とはよくわからないと言いながら、去っていく。こんな話だ。
このマンガが私の人生の原点。幸せな人生とは、あくまでも本人が決めることであり、
まわりがとやかく言うべきものではない。もとより、記憶のさまざまな性質や、
その生かしかたを知ったからといって、幸せになれるわけではない。
ただ、何も知らないよりは、知っておいたほうが、みすみす損をしないだろうと思われるだけだ。
この本に書かれている「ヒント」をもとに、どのような人生を生きるかは、最終的には、
みなさんが決めることである。》
 ▼ 以前に取り上げた「幸福の4階建」に、当てはめると分かりやすい。
  4階:克服できない苦難や悲しみの中に、幸福がある。
  3階:苦難や悲しみを経験し、それを克服する中に幸福感が生まれる。
そこに自己実現の要素が入っている。
  2階:獲得した「快」を永続させる。 そこに時間的要素を入れ、
いかに長続きさせる中に幸せがある。
  1階:人間の本能的な「快」(恋、富、名誉など)を得て、増やす。
 苦労に苦労を重ねて得た幸せこそ、その最たるものだが、得てしまった幸せより、
不幸に見えた苦労の中にこそ、真の幸福の含量が多くある。 
私のケースは、『サザエさん』の作者の物語とは真逆である。 思いもしない3つの
津波に飲み込まれて、この結果に終わった。しかし、これこそベストでは?の、
 心の奥からの声に我ながら驚いた。この「幸福の4階建」の意味が、いやでも実感を
 せざるを得ない。現在の私は、この建物の3階辺りで、日々を過ごしているが、
 いつ何どき、4階に駆け上がり、幸福感を味わうのだろう。 その屋上のテラスからの
 景色は、どんなものか? それもこれも、生きているうち!今日一日を楽しむしかないか。
・・・・・・
4193, 呪いの時代 ー10
2012年09月18日(火)                                 
* ペルソナ(仮面)の品不足     「呪いの時代」内田樹
 結局、人は、それぞれの場面に色いろな仮面を被ることで生きている。
ところが一つの理想的な仮面に限定すると、それに対して真逆なペルソナが現れ出る。
「弱くかわいい僕」以外のペルソナの品ぞろいがないと、危機的状況になった時に、
思いもよらない凶暴なエゴの男が顔を出してくる。人間は面白く、哀しく、弱いもの。
我が内なる他者とは、よくいったもの。秋葉原の無差別殺戮などは、その典型である。
仮面の品不足だったのである。   ーその辺の記述からー
≪ 人間の攻撃性のコントロールは容易ではありません。完全抑圧してしまうと、かえって
 思いが違ったかたちで暴発する。ひとりの人間が抱え込んでいる攻撃性の絶対量は、
変わらないあるところで抑え込めば、違うところからかたちを変えて噴き出してくる。だから、
攻撃性はいろいろなかたちで管理して、「小出し」にするしかない。小出しにしておけば
破局的事態は避けることができます。だだし、そのためには、「攻撃的なペルソナ」にしても
「防衛的なペルソナ」にしても何種類か品ぞろえしておく必要があります。そして、状況に応じて、
その場にもっともふさわしい仮面をかぶる。・・
 ・・・ 草食系男子が採用している「弱くてかわいい」ペルソナというのはたしかに多くの場合に
有効だと思います。とりわけ、今の日本のように「弱者であることの利益」がつよく意識されている
社会では。でも、当たり前ながら「弱くてかわいい」だけで対応できる状況は限られています。
対応できないとき、彼らは一気にしばしばまったく似ても似つかない別のペルソナ
(凶暴で攻撃的)に切り替わってしまう。この二極のペルソナがあまりに隔絶しているので、
人格が統合できないまま、まるで別人のようになる。卑屈なほど恋人に尽くしてきた男が、
結婚と同時にいきなり荒れ狂うDV男に変わってしまったという事例は実際に僕も知っています
けれど、このような人格解離現象はペルソナの「数不足」で起きてしまうのではないか。・・・
 ・・・「他者との共生能力の劣化」ということを問題にしたが、他者との共生の基礎となるのは、
実は「我がうちなる他者たち」との共生の経験なのだと思います。僕自身にも「さもしい私」
「邪悪な私」「卑劣な私」がいる。それらもまた僕の正規の「ペルソナ」の一つであり、
それなしでは僕は僕ではない。自分自身の中にある
さまざまな人格特性を許容できる人間は他者を許容できる。僕はそうだと思います。
世間で言われる道徳訓とは言葉がずいぶん違いますが、僕は自分を許すことのできる
人間だけが他人を許せると考えます。≫
▼ ー「他者との共生能力」をつくるには、他者を構成する複数の人格特性のうちに幾つか
 「私と同じもの」を見出して、この他者は私自身と同じであることを認めるべきである。
その共通部分をどうすれば増やせるか、とりあえずは、人格特性を「切り出す」ユニット数を
増やすしかない。ーという。要は、その切り方である。可能な限り、自分を割っていく、割れば
割るほど他者との共有部分が増えていくことになる。人生の経験とは、そんなものである。
 ・・・・・・・
3828、 もう、あれから半年
2011年09月18日(日)
 3月30日から、あと二週間足らずで半年になる。そろそろ30年、いや仕事人生の40年余りの
毒気も抜けてきた。そこで、「何だったのだろうか、これまでの日々は?」と、定石通りの思いが
浮かんでくる。「男なら、条件が揃えば事業を興すのは当然」と信じてきた。 ふと気づくと
9・11、9・15に直撃、その大波が地方経済を直撃。更に情報化の進展も加わり売り上げが激減。 
ここまで、経済状況が悪化するとは、実のところ思いもよらなかった。ここまでリアルに売上減に
なると、諦めるしかないと納得する。 で、一歩、娑婆から身をひいた半年後の実感は
「世の中で揉まれているうち、大きな歪みの塊になっていたのでは?」という疑問である。
それが気づくのは、娑婆気から抜けた時。特に家庭の柱としての働き手の男の場合、
その歪みが大きい。その断面を大きな節目になって気づくことになる。誰もが、社会や会社の
柵に捉われたくないが、競争社会では肩肘も張らないと・・ とはいえ、それだけに目がいき過ぎて、
他の大事なことに目がいかなくなり、最終章に近づいて、慌ててしまうのが大半。 
半年で、この40年の歪みを改めて振り返っている日々でもある。 もしかしたら、一生、
気づかないで終わる人もいる。それに気づいて悶々とする人もいる。 先日、近じか定年になる
友人に、この話しをしたら、全く同感という。小さな、しかし、かたい勤め先を、こともなく
48年間勤めあげた実直な男が、自分の人生の歪みを認識していたのである。
私なら自分で納得するが・・ でも、その歪みも後悔は全くない。 ここで、「良い人生、悪い
人生でなく、充実していたか、してなかったか?」という言葉で、自己納得するしかない。 
状況が状況だったので、苦悶はあるのは仕方がないが、充実感が、何とか支えになっている
というのが正直のところ。 準備、15年も含めた事業人生の45年の終わりは、三連発の
経済・自然大災害の直撃で終わってしまった。そして半年たった現在、静かな心境でいられる
のが、救いである。少なくとも、自分の人生の歪みに後悔はしていない。
この歪みが自分でもあるから。 その歪みに七転八倒しているのがいるが・・・
それも人生。 穏やか過ぎる人生より、遥かにましである。 それも歪みか。
 偶然、この内容に滞欧する文章が以下の去年の同月同日に書いてあった
   ー 面白いもの。 いや、数年分が関連している。
・・・・・・・・
3463, 9・15より二年
 2010年09月18日(土)
 リーマンショックから、二年経過し三年目に入った。100年とも、250年に一度の激震と言われる。
アメリカでは、証券大手の殆どが瞬時に消滅、シティーバンクなど幾つかが大手銀行も政府管理会社になり、
ビッグのGM、クライスラーも政府管理の事態になっている。日本のバブル崩壊で、大手銀行が20社から
三社に集約されるまで10年も要したことからみれば、迅速である。日本では今のところ目だった大手では
日本航空ぐらいなのは不思議と言えば不思議である。まだ表面化はしてないが、まずは関東・東海ベルトラインを
除いた地域経済は惨憺たるもの。悪いことに政権が民主党に移行し、人間に例えれば脳がマヒ状態で、この難局に
国の方向が定まらない無政府状態。このまま、この激震のクライマックスに入る2012年を迎えることになる。
デフレから悪性のハイパーインフレへの転換である。現在は円高だが、さらに恐ろしい円安が日本経済を襲う。
まだ表面化してないが、ある日、株と国債の暴落から始る激しい恐慌の本番は、激しく我われの生活を襲ってくる。
悲観的だが、それが事実なら認めざるをえない。
 これに情報化社会の進展によるグローバル化が、世界をフラットにしていけば、これまで東西冷戦の狭間で、
大きな恩恵を受けてきた日本が、普通の国並みに豊かさが損なわれるのは当然である。それが、現在の日本の衰退。
情報化、グローバル化、フラット化の流れは、もう止めることは不可能である。これまでの常識は根底から破壊され、
全く違った価値観が通用する時代に既に入ってしまった。情報、軍事、金融を支配しているアメリカは、当面は勢力を
保つだろうが、中期的にみれば衰退は免れない。それに対し、中国・インド・ブラジルなどに覇権の重心が移動する
のは避けれないこと。その中で、日本はアメリカの更なる植民地化が進む。毒素が脳までやられてしまったのである。
その一つの現象が、現政権のトップ達に、そのまま現出しているとみると、ニヒルな笑いが出てきざるをえない。
 ・・・・・・・・
3088,挫折を考えてみようか -3
2009年09月18日(金)
 ある人に「あなたの『挫折を考えてみようか ー1』を読んだが、貴方には挫折経験がないのでは?」と言われた。
そこで改めて考えてみた。 大学浪人は、そこで進学を断念したのなら話しは別だが、挫折ではない? 金沢時代も
挫折とは違う。目的もしっかりあったし、絶好の体験をしているという実感はあった。創業を目指して彷徨いながら
準備をしていたという明確な絵図があった。そう考えると「挫折体験はないのでは?」という指摘も正しいことになる。 
先が見えないで暗い心情になっていた時期で挫折とはいわない。そうこう考えると、挫折と軽々しく言わない方がよい!
ということ。 ネット辞書によると「挫折とは計画が達成できないで心が折れてヤル気を失うこと」とあった。
挫折は、それまでの自分を一度破壊して新たな自分の創造を促すチャンスになり、竹の節目に譬えることが出来る。 
そこに大きな鍵が隠されている。超越者の声に敏感になることもある。それまでが横の時間なら挫折の時節は縦の時間。
「節目を打て!」というが、そこで超越者に試されことでもある。 物語なら、そこを節目としての転換期になり、
「起承転結」の「転」の時になる。挫折の状態は、追い詰められた状況ほど芸術作品や本などを通した超越者の語り
かけに鋭敏になる。「予定挫折」という言葉がある。 挫折を意図的に入れて置いて、人生の踊り場にするのである。 
そこは枝葉を切って根を養う時節であり、超越の時節になる。「そうか~挫折と思い込んでいただけか~」と思ったが、
それでは、挫折が無かったかというと、勿論ある。実は見落していたのである。大学浪人や創業時の準備は勘違い? 
しかし深傷だったが。最近になって「自分は中学浪人だった」と何人かの知人から聞いて驚いたが一番傷つきやすい
時期の、それから見れば、当時の大学は半分近くが浪人経験者で、挫折でない。また私の姉夫婦と実兄夫婦の倒産劇で、
大きく挫折をしたのを間近で見たが、壮年、老年近い挫折は厳しい。最近はリストラで日常が挫折だらけになっている。 
他人事ではない。 予定挫折ともいかないし。幸福というビルの最上階の4Fならいいが、屋上から何は? 
挫折を茶化すこともないが・・・「挫折とは計画が達成できないで心が折れてヤル気を失うこと」か~! 
なら日々挫折である。計画が甘いだけ?。        「日々是挫折」 =「日々是口実(好日)」
 ・・・・・・・・・・
2723, アメリカ発、金融危機の始まり!
 2008年09月18日(木)
AIGが一昨日、1ドル台まで下落したが、アメリカのFRBが昨日になって9兆円の融資を決めたことで、
当面の倒産を回避した。FRBがリーマンと同じスタンスをとれば、倒産になるところだった。世界中が一瞬、
息を呑んで見守っていた決定であった。NHK海外衛星TVで、ジョージ・ソロスにインタビューをしていた。
「これで問題が解決をしたのではなく、小さな目先の問題が先送りをされただけ、次次と同じような問題が出てくる!」
と、大恐慌の到来を匂わせていた。アメリカ政府が80?の株式を持ち、切り売りなどしてソフト・ランディングを
させる方針だ。アメリカの上位数社の壊滅と、AIGの政府の倒産の危機は9・11事件に匹敵する金融の大事件。
一つ間違えれば世界の金融は崩壊の危機に立っている。これが序曲でしかないのは、誰の目にも明らか。
ボロボロ世界中から、大問題が次々と発生してくるのだろう。恐慌が始ったようだ。ある日、手に負えないような
ハイパーインフレが発生、スタグフレーションになる。考えただけで恐ろしい日々になるのである。
ルリリンチが、もしBOAのリーマンを買収が決定すれば、次にターゲットが自社に来ることを察知。
恐らく財務関係者から救済がないことを知らされて、急遽BOAに売却を申し込んだのだろう。
メルリチンチの倒産の方が更に衝撃が大きかっただろう。 映画のような非常に緊迫したヤリトリがあったのだろう。
リーマンでも負債総額が64兆円というから。日本でも各金融機関は大きな損失を被るだろう。この混乱は、今後
大きな尾を引く。これまでとは全く違った金融環境になることは自明。 日本でもあったように、資金の貸し渋り
貸し剥がしが、アメリカのみならず、世界中で起こる。 やはり世界恐慌が始ったのである。欧米各紙は、
ブラック・サンデー」と命名したという。それか翌日の15日の荒れた月曜日ということで、「ワイルド・マンデー」
ともあったが、ドチラが定着をするだろうか?
  (字数制限のためカット 2014年、9月18日)