つれづれに

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  今日のYoutube
 
 年末に、毎年とどく年賀欠礼の葉書。今年も、以前の会社の取引先だった
新潟在住の人が亡くなったと奥さんからの案内。それでも、77歳。
若く豪快の人だったが。今のうちは「人は先、我が後」だが・・

 この数日、腰の調子が良かったが、今朝は一変、急に変になった。
ようするに寒さに大きく左右する。 



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・・・・・・・
3535, つれづれに ー 閑話小題
2010年11月29日(月)
  * 自分の初めの感じたことを信じなさい!
 夏の終わりごろにニューカレドニアに行った時の話。 ホテル内の土産店で
若い女性二人が土産物で迷っているところ、60歳代半ばの日本人男性が話し
かけていた。「自分の初めの感覚を信じなさい!」と。「私に、そんなことを
言ったら『アフォか、御前は!』と思うが、若い女性なら良いか?」と内語を
頭の中で呟いていた。 その言葉は、正しくもあり、間違いでもある。
これは経験からいえること。経験の浅い人になら、自分の感覚を信じて、
まず決断をし、その結果をフィードバックする方が、躊躇して何もしないより
良い、ということになる。それを信じて軽い気持ちで判断をして大失敗を数限り
経験してきた私にとって、そんなことは若い女性にしか言えないこと。
その人に何か怪しげなバナナ的雰囲気を漂わせていたが。同じ言葉でも、
受止め方は年齢、知識・経験の質量で変化する。
  * 尖閣ビデオYoutubeが注目される
 もう古い話になったが、海保のビデオ流出事件でYoutubeが注目を浴びてきた。
Youtubeは10分の制限があるが、個々人が撮影したビデオを自由に投稿できる。
僅か5年前に若い二人の米国人によってつくらたサイトで、一年後にGoogle
2000億円で売却された。日本にも、その翌年2007年に上陸、瞬く間に普及した。
一日20億回のアクセスがあり、このサイトから世界的に有名になる人が続出。
数ヶ月前から面白そうなものを私のブログに貼り付けている。過って見たことが
ない面白い映像が次々と見つかる。TV番組でも、世界の面白映像として毎週
紹介する番組が既に出来ているが、その多くは見たもの。 面白いビデオの右側
に関連したビデオの写真が貼り付けられ、アクセス数が書かれているので、
関連したビデオにネットサーフィンできる。そこで、思いもよらない世界を
垣間見るケースが多くなる。コスプレ、ラップ、ペットなど、知らなかった
世界を知ることが可能である。ところで、あのビデオについて石原慎太郎
売国奴の治世者が、英雄的行為をした人を国辱罪で訴えるという奇妙な現象
が起きている」と発言。言い得てるが、それが東京都知事ときている。
訴えると脅され、「チャンと受けてたって証言をする」といったら、何も
言わなくなったとか。 面白いと笑ってられないのが、この国の現状。
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3160, ドバイが債務不履行
 2009年11月29日(日)
 アラブ首長国連邦のドバイの資金繰り悪化が表面化した。
数年前にドバイの発展する様子をNHKスペシャルで放送したが、
石油で得た資金で競って超高層ビルを中心とした新都市の様相には驚いた。
 世界のクレーンの3割が、そこで動いているという信じがたいことも
報じていた。大金持ちの若い御婦人が高級ショップで「もう、買うのに
飽きてしまった、ツマラナイ!」と云々。
( 字数制限の関係でカット 2011年11月29日 )
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2795.ユダヤ人成功者たちに秘かに伝わる魔法の言葉・・4
2008年11月29日(土)
【第三の法則】 口はひとつ 耳はふたつ
「神が人間に二つの耳と一つの舌を与えたのは、
 話すよりも聞くことを重視したから」
ユダヤの諺
「口を閉じれば閉じるほど、自分の話を聞いてもらえる」
「噂はかならず三人の人を殺す。噂をばらまく人、疑問を抱かずに
 噂話を聞く人、そして噂の対称になった人」「美徳と称するものは、 
 他人の嫉妬を刺激するものだが、控えめであることだけは例外だ」
ユダヤの諺
「捕まえた鳥を逃しても、また捕らえることが出来るかもしれないが、
 一度発した言葉を取り返すことはできない」ーユダヤの言葉
「知恵に近づくには、まず沈黙し、次に相手の話に耳を傾け、第三に
 それを自分の中に吸収し、最後は人に教えてみることだ」
  ソロモン・カビロール  (字数制限のためカット09年11月29日)

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2007年11月29日(木)
 2430,  『いのちの書』ーより
「ちくま哲学の森」シリーズの第2巻の『いのちの書』という生死の関する
 22人の内容が驚く内容の連続である。死刑の立ち会いの詳細、実際に
拷問にあった本人の手記、臨終のこととか。死に関しては、日常の中では、
誰もが見てみないふりをする。しかし書き手が言葉として書き連ねると、
それ自体が物語になるだけの深みを持つ。この本の冒頭の金子光晴の詩がよい。
<おばあちゃん>  金子光晴
『若葉』のおばあちゃんは もう二十年近くもねてゐる。 すべり台のやうな
傾斜のベッドに 首にギプスをして上むいたまま。はじめはふしぎそうだったが 
いまでは、おばあちゃんときくと すぐ<ねんね>とこたえる『若葉』。
なんにもできないおばあちゃんを  どうやら赤ん坊と思ってゐるらしく 
サブレや飴玉を口にさしこみにゆく。むかしは、蝶々のやふにへんぺんと 
香水の匂ふそらをとびまはった おばあちゃんの追憶は涯なく、ひろがる
そしておばあちゃんは考える。 おもひのこりのない花の人生を 『若葉』
の手をとって教へてやりたいと。ダンディズムのおばあちゃんは 若い日
身につけた宝石や毛皮を みんな、『若葉』にのこしたいと。できるならば、
老いの醜さや、病みほけたみじめなおばあちゃんを 『若葉』のおもいでに
のこすまいと。おばあちゃんのねむっている眼頭に じんわりと涙がわき 
枕にころがる。願ひがみなむりとわかってゐるからだ。
ーー
ある伯母が晩年に「歳をとることは、無念なこと」と言っていたとを、
聞いたことがある。偶然に去年、老いを取上げていた!


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066, あたりまえなことばかり -17
2006年11月29日(水)

              (~Q~;) おはよう~~              
そろそろ、死に支度モードに入らなくては、と思っていたが。
チョッと待てよ!死なないのだから、そんな準備などする必要はない。
が、しかし歳相応にギアを変える必要はある。
還暦を過ぎたのだから・・・
 
    両親の死に際に、二人とも同居していた。
    そして「老いる」姿と、肉体的終末を看取って、
    決して歳をとるのも悪くはないと実感した経験がある。
    
    さらに老いた色いろな人と人生を多く語り合った。
    だからこそ、老いることはまんざらでもないことを知っている。
    一つだけ「死は存在しない」ことを、彼らが知らなかったのを除けば。
    「死は観念でしかない」ことが、解るはずはないのは当然である。

 母親が、痴呆になっても学ぼうとする姿勢が見えた。
 これである、魂は永遠の学びをしていく。
 ただし、それなりの人生を活きてこそ、だが・・

ーーーーーーーーーー
老いは個人の生を超え
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人は、老いるという存在の現象を、なかなか素直に認めることができない。
それを否定的に感じてしまうのは、若さという経験を先にしてしまうからだ。
やがて人は、例外なく順番に40,50歳と年齢を重ね、老いるという
現実を肉体の事実として知ることになる。
老いることは死と違って逃れようもない現実である。

    生きられてしまった事柄とは、端的にかこである。
    それは動かせない事実である。
    過去は動かせないと知るということは、自分の人生がそのようであったと、
    それ以外ではあり得なかった、このとき、人は人生の一回性の秘密に
    触れているのだが、多くの場合それは、それぞれの感情や感傷によって
    覆い隠されてしまう。記憶に苦痛の伴わない人は幸福である。
    過去は動かせない、しかし動かせる未来もない。
    なぜ自分の人生はこのようでしかあり得なかったという、存在への問いが、
    溜息に等しいような老いの時間は哀しい。

生きるということを、物理的肉体の生存と定義するなら、
老いていく過程として生きていくのは、肉体を失っていく過程である。
しかし、我われの直感は、決してそんなふうに感じてない。
老いていくことによって、得ているものはたしかにある。
何かが確実に増えていくと感じるもの、それは何か。
精神というより、むしろ魂である。成熟するのは魂である。
魂は成熟する。

   「ソウル・メイキング」と呼ばれるもの。
    現代風の言い回しも、ソクラテスふうには「魂の世話」となる。
    経験と時間を織り込みながら、魂であるところの人生を織り上げていくと、
    いった意味合いらしい。
    縦糸に時間を、横糸に経験を、織り込みことで織り込まれつつ、
    魂が自身を織り上げていく行程は、刻々老いてゆく肉体の老いとは
    反比例して豊かである。
    いや、肉体の老いとは、それ自体が新たな経験の他ならないのだから。
    それすらも、織り込みつつ色はその深さを増すのではなかろうか。

人生とは、生死の間に存在する時間である。
なるほど論理的には、人生には生と死、すなわち一とゼロしか存在しない。
したがって、時間もまた存在しない。
しかし、現実には、人生は一とゼロの間に存在するもの、すなわち無限である。
有と無の間で生成する質である。質は論理でない。
論理が指示する、論理自身の影である。

    論理的には存在しない死を、しかし現実には存在するとして生きているという、
    このこと自体が人生の不思議である。その存在しない死が近づいてくる老いの
    時間とは、いよいよ玄妙なものになっていくはずである。
    かって老いたことのないわれわれにとって、それは未だ知らない質である。
    老いるという未知の経験、未知の質を、味あうことなく拒むのは、
    死ぬのを待たずに既に生きることを拒んでいるようなものである。
    
 ーー               
  死か~
  まあ、麻薬をタップリ楽しんで、
  消えていくのも悪くないが・・・
  やはり、朝いつの間にか死んでいるほうがよい!
          
    魂の成熟か~
    無限の宇宙に浮かぶ未知の質か~
    人生は!
    
    おい、おい
  
                   (+>∀<+)ノ  バイバイ
    
 ・・・・・・・・・
 ・・・・・・・・・
 
 2005年11月29日(火)
1701, ほめ芸王 ー2


以前、一度借りてきた「ほめ芸王」を、再び借りてきた。
 前に読んで、チャンスがあったら可能な限り褒めるように勤めようと
  思っていたが、これが難しい。
   家内を対象に褒めるように勤めているが、馬鹿馬鹿しい。
    というわけで、いま一度借りてきてジックリ読んでみた。
                          funn~(。_。)q

以前借りてきた時に印象的だったのは、
 ・褒めるのは芸・技であるから、自分流のノウハウを確立すべし、
  ・褒めれば、神の心になれるだった。
     褒められれば、舞い上がってしまうのに、 ♪~(=^ε^= )
      人に対しては気楽に褒めようとはしない。
      ー 必然性が無かったからだろうが。    
    ∥┓  ((  
   (_)  匚P 
    ━┻     ♪~♪~

だいたい酒席で、酒を注ぐときは自分が注いで欲しい時だ。
 自分が褒めて欲しい時に、人を褒める。
  お犬様の散歩の時の女性の、犬自慢がそうだと聞いたことがある。
   自分の犬を褒めて欲しいと、相手の犬を褒めるという。
    相手もそのことを周知していて、
     すかさず相手の犬を褒めるのが社交マナーとか。
ヽ(・ω・ゞヵゎィィ゚+
anata nohoga
.ヽ(*・ω・)ノ゚+. 超ヵヮィィ♪

人間は自分のことが「傍から如何みられているか」気になる動物だ。
 つねに自分に対しての評価は甘い。
  誰も評価してくれないなら、自分で数段上に評価するしかない。
   したがって微妙な2ランク位上に評価してやれば、本人も納得する。


カラオケは、褒めて欲しいから一生懸命練習し、そして熱唱する。
 子供の頃、小中学校時代に先生の褒められたことなど、
  現在も鮮明に憶えている。
   それだけ褒められることは記憶に残る。 !(∀`)iうほ♪
   
     
私のように殆ど褒めないと、たまに褒めると効果絶大という利点もあるが。
 軽々しく褒めちぎるのも納得しないが、
 『美点凝視』の心がけは絶対必要条件のはずだ・・・
  
   (◎゚ω゚)ノ^ジャ、マタ!!
  
  ・・・・・・・
  ・・・・・・・

2003/04/04
「ほめ芸王」-1
           ー読書日記

ー褒め上手は芸のうち
  営業を何年もやっているうちに身につける芸である。
   口先だけの営業手段として、ただで一番効果のある手段だ。
    十年以上営業になれば、
     営業術から営業芸にランクアップしてしまっている。
キーマンに会ったときの枕詞として、
 「さて今日は何の褒めネタでいくか?」と考える。
   それが営業の第一歩であり、まずは切り口となる。
    今日の芸はどの程度であったかを日記に克明につけたら
     プロであろうが。
「どっこいしょ」と持ちあげて、 
  次に相手を落とすのだ。
   「どっこいしょ日記」に、
     おだて上げと落としの日記を克明に書けば
      いかに人間は幼いものと解ってくるだろう。

   人間は誰も褒めて欲しいのだ!

ー「ほめ芸王」の内容の一部を抜粋する

・わたしはほめない、ほめちぎるのだ。
  ほめるのでは足りない、
   ほめちぎらなと、ほめたうちにならない。
  
・「ほめ下手の人は、ほめているものの、相手を見下げている。
     ほめるということは、見上げる事である」
     -これは言いえて妙である。
      「このことに関しては全然あなたの方が上ですね」
        という言い方にすれば、相手も受け入れる。

・「ほめることは簡単だ。しかしほめ続けることはむずかしい」という。
 
 ・「感嘆」に勝るほめ言葉はない。
  
  ・ほめるとは相手を語ることではない、自分を語ることである。
    自分のほめ方は自分にしかできない。
   
    ・相手をほめることで、自分自身の存在を確認する事ができるのだ。