つれづれに

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 今日のYoutube

写真は、ユダヤ低地のマレシャとベト・グヴリンの洞窟群。
何ともいえない歴史の深みがある。
http://whc.unesco.org/en/list/1370/gallery/
ユダヤ低地のマレシャとベト・グヴリンの洞窟群は、ユダヤ低地の柔らかい
石灰層に掘られた人口の洞窟群です。鉄器時代から十字軍時代にかけての
2,000年以上にわたって採掘・拡大されたものであり、一時的な避難場所の
ほかに農業や手工業のための場所、あるいは貯水場所や水路・浴場・墓地
・信仰の場など様々な活動が行われた痕跡を今に伝えています。
――
 ここに行ってはないが、偶然、世界遺産をネットで調べているうちに
みつけたもの。なかなかのものだ。世界は未知に満ちている。

・・・・・・
4193, 呪いの時代 ー10
2012年09月18日(火)                                 
* ペルソナ(仮面)の品不足     「呪いの時代」内田樹
 結局、人は、それぞれの場面に色いろな仮面を被ることで生きている。
ところが一つの理想的な仮面に限定すると、それに対して真逆なペルソナが
現れ出る。「弱くかわいい僕」以外のペルソナの品ぞろいがないと、危機的
状況になった時に、思いもよらない凶暴なエゴの男が顔を出してくる。
人間は面白く、哀しく、弱いもの。我が内なる他者とは、よくいったもの。
秋葉原の無差別殺戮などは、その典型。 仮面の品不足だったのである。   
 ーその辺の記述からー
≪ 人間の攻撃性のコントロールは容易ではありません。完全抑圧して
 しまうと、かえって思いが違ったかたちで暴発する。ひとりの人間が
抱え込んでいる攻撃性の絶対量は、変わらないあるところで抑え込めば、
違うところからかたちを変えて噴き出してくる。だから、攻撃性はいろいろな
かたちで管理して、「小出し」にするしかない。小出しにしておけば
破局的事態は避けることができます。だだし、そのためには、
「攻撃的なペルソナ」にしても「防衛的なペルソナ」にしても何種類か
品ぞろえしておく必要があります。そして、状況に応じて、その場に
もっともふさわしい仮面をかぶる。・・
 ・・ 草食系男子が採用している「弱くてかわいい」ペルソナというのは
たしかに多くの場合に有効だと思います。とりわけ、今の日本のように
「弱者であることの利益」がつよく意識されている社会では。でも、
当たり前ながら「弱くてかわいい」だけで対応できる状況は限られます。
対応できないとき、彼らは一気にしばしばまったく似ても似つかない別の
ペルソナ(凶暴で攻撃的)に切り替わってしまう。この二極のペルソナがあまり
に隔絶しているので、人格が統合できないまま、まるで別人のようになる。
卑屈なほど恋人に尽くしてきた男が、結婚と同時にいきなり荒れ狂うDV男に
変わってしまったという事例は実際に僕も知っていますけれど、このような
人格解離現象はペルソナの「数不足」で起きてしまうのではないか。・・
 ・・「他者との共生能力の劣化」ということを問題にしたが、他者との
共生の基礎となるのは、実は「我がうちなる他者たち」との共生の経験なのだ
と思います。僕自身にも「さもしい私」「邪悪な私」「卑劣な私」がいる。
それらもまた僕の正規の「ペルソナ」の一つであり、それなしでは僕は僕
でない。自分自身の中にあるさまざまな人格特性を許容できる人間は他者を
許容できる。僕はそうだと思います。世間で言われる道徳訓とは言葉が
ずいぶん違いますが、僕は自分を許すことのできる人間だけが他人を
許せると考えます。≫
▼ ー「他者との共生能力」をつくるには、他者を構成する複数の人格特性
 のうちに幾つか「私と同じもの」を見出して、この他者は私自身と同じ
ことを認めるべきである。その共通部分をどうすれば増やせるか、とりあえず、
人格特性を「切り出す」ユニット数を増やすしかない。ーという。
要は、その切り方である。可能な限り、自分を割っていく、割れば割るほど
他者との共有部分が増えていくことになる。人生の経験とは、そんなもの。
 ・・・・・・・
3828、 もう、あれから半年
2011年09月18日(日)
 3月30日から、あと二週間足らずで半年になる。そろそろ30年、いや仕事人生
の40年余りの毒気も抜けてきた。「何だったのだろうか、これまでの日々は?」
と、定石通りの思いが浮かんでくる。「男なら、条件が揃えば事業を興すのは
当然」と信じてきた。 ふと気づくと9・11、9・15に直撃、その大波が地方経済
を直撃。更に情報化の進展も加わり売り上げが激減。ここまで、経済状況が悪化
するとは、実のところ思いもよらなかった。ここまでリアルに売上減になると、
諦めるしかないと納得する。 で、一歩、娑婆から身をひいた半年後の実感は
「世の中で揉まれて、大きな歪みの塊になっていたのでは?」という疑問。
それが気づくのは、娑婆気から抜けた時。特に家庭の柱としての働き手の男の
場合、その歪みが大きい。その断面を大きな節目になって気づくことになる。
誰もが、社会や会社の柵に捉われたくないが、競争社会では肩肘も張らないと・・ 
とはいえ、それだけに目がいき過ぎて、他の大事なことに目がいかなくなり、
最終章に近づいて、慌ててしまうのが大半。半年で、この40年の歪みを改めて
振り返っている日々でもある。もしかしたら、一生、気づかず終わる人もいる。
それに気づいて悶々とする人もいる。 先日、近じか定年になる友人に、
この話しをしたら、全く同感という。小さな、しかし、かたい勤め先を、
こともなく48年間勤めあげた実直な男が、自分の人生の歪みを認識していた
のである。私なら自分で納得するが・・ でも、その歪みも後悔は全くない。 
ここで、「良い人生、悪い人生でなく、充実していたか、してなかったか?」と
いう言葉で、自己納得するしかない。状況が状況だったので、苦悶はあるのは
仕方がないが、充実感が、何とか支えになっているというのが正直のところ。 
準備、15年も含めた事業人生の45年の終わりは、三連発の経済・自然大災害の
直撃で終わってしまった。そして半年たった現在、静かな心境でいられる
のが、救いである。少なくとも、自分の人生の歪みに後悔はしていない。
この歪みが自分でもあるから。 その歪みに七転八倒しているのがいるが・・
それも人生。 穏やか過ぎる人生より、遥かにましである。 それも歪みか。
 偶然、この内容に滞欧する文章が以下の去年の同月同日に書いてあった
   ー 面白いもの。 いや、数年分が関連している。
・・・・・・・・
3463, 9・15より二年
 2010年09月18日(土)
 リーマンショックから、二年経過し三年目に入った。100年、250年に
一度の激震と言われる。アメリカでは、証券大手の殆どが瞬時に消滅、シティー
バンクなどの大手銀行も政府管理会社になり、ビッグのGM、クライスラー
も政府管理の事態になっている。日本のバブル崩壊で、大手銀行が20社から
三社に集約されるまで10年も要したことからみれば、迅速である。
日本では今のところ目だった大手では日本航空ぐらいなのは不思議と言えば
不思議である。まだ表面化はしてないが、まずは関東・東海ベルトラインを
除いた地域経済は惨憺たるもの。悪いことに政権が民主党に移行し、人間に
例えれば脳がマヒ状態で、この難局に国の方向が定まらない無政府状態
このまま、この激震のクライマックスに入る2012年を迎えることになる。
デフレから悪性のハイパーインフレへの転換である。現在は円高だが、さらに
恐ろしい円安が日本経済を襲う。まだ表面化してないが、ある日、株と国債
暴落から始る激しい恐慌の本番は、激しく我われの生活を襲ってくる。
悲観的だが、それが事実なら認めざるをえない。
 これに情報化社会の進展によるグローバル化が、世界をフラットにしていけば、
これまで東西冷戦の狭間で、大きな恩恵を受けてきた日本が、普通の国並みに
豊かさが損なわれるのは当然である。それが、現在の日本の衰退。
情報化、グローバル化、フラット化の流れは、もう止めることは不可能である。
これまでの常識は根底から破壊され、全く違った価値観が通用する時代に既に
入ってしまった。情報、軍事、金融を支配しているアメリカは、当面は勢力を
保つだろうが、中期的にみれば衰退は免れない。それに対し、中国・インド・
ブラジルなどに覇権の重心が移動するのは避けれないこと。その中で、日本は
アメリカの更なる植民地化が進む。毒素が脳までやられてしまったのである。
その一つの現象が、現政権のトップ達に、そのまま現出しているとみると、
ヒルな笑いが出てきざるをえない。
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3088,挫折を考えてみようか -3
2009年09月18日(金)
 ある人に「あなたの『挫折を考えてみようかー1』を読んだが、貴方には
挫折経験がないのでは?」と言われた。そこで改めて考えてみた。大学浪人は、
そこで進学を断念したなら話しは別だが、挫折ではない?金沢時代も挫折とは
違う。目的もしっかりあったし、絶好の体験をしているという実感はあった。
創業を目指して彷徨いながら準備をしていたという明確な絵図があった。
そう考えると「挫折体験はないのでは?」という指摘も正しいことになる。 
 先が見えないで暗い心情になっていた時期で挫折とはいわない。そうこう
考えると、挫折と軽々しく言わない方がよい!ということ。ネット辞書によると
「挫折とは計画が達成できないで心が折れてヤル気を失うこと」とあった。
挫折は、それまでの自分を一度破壊し新たな自分の創造を促すチャンスになり、
竹の節目に譬えることが出来る。 そこに大きな鍵が隠されている。超越者の
声に敏感になることもある。それまでが横の時間なら挫折の時節は縦の時間。
「節目を打て!」というが、そこで超越者に試されことでもある。 物語なら、
そこを節目としての転換期になり、「起承転結」の「転」の時になる。
挫折の状態は、追い詰められた状況ほど芸術作品や本などを通した超越者の
語りかけに鋭敏になる。「予定挫折」という言葉がある。挫折を意図的に入れて
置いて、人生の踊り場にするのである。そこは枝葉を切って根を養う時節であり、
超越の時節になる。「そうか~挫折と思い込んでいただけか~」と思ったが、
それでは、挫折が無かったかというと、勿論ある。実は見落していたのである。
大学浪人や創業時の準備は勘違い? しかし深傷だったが。最近になって
「自分は中学浪人だった」と何人かの知人から聞いて驚いたが一番傷つきやすい
時期の、それから見れば、当時の大学は半分近くが浪人経験者で、挫折でない。
また私の姉夫婦と実兄夫婦の倒産劇で、大きく挫折をしたのを間近で見たが、
壮年、老年の挫折は厳しい。最近はリストラで日常が挫折だらけになっている。 
他人事ではない。 予定挫折ともいかないし。幸福というビルの最上階の4F
ならいいが、屋上から何は? 挫折を茶化すこともないが・・
「挫折とは計画が達成できないで心が折れてヤル気を失うこと」か~! 
なら日々挫折である。計画が甘いだけ?。「日々是挫折」=「日々是口実(好日)」