* 5億円当たったら何に使いますか?
 昨日の朝のTVショーで、『宝くじで5億円当たったら何に使いますか』
の街頭インタビューがあった。 回答が多かった順というと
1位、高級マンションなど住宅購入
2位、お店などの起業
3位、世界一周 (豪華客船の旅など)
4位、健康などのエステに (健康食品、スポーツジム)
5位、整形手術 の順であった。
 その中の一人が、『当たった人をみると、多くが離婚をしている』という
答えがあったが、そうだろう。 当選をしたとして、上記の夢が実現
したところで、それが何だ?ということか。 今回の会社整理の中で、
気づいたことが、一千万、二千万分の一しか可能性がない宝くじに夢を
託している人たちの視線。要するに世間様の夢でしかないのが宝くじ。
 高級マンション以外は、5年10年スパンで計画を実行に移せば、
可能なことばかり。答える方も面白半分としても、考えさせられる内容。 
『二週間で死ぬと宣言されたら何をしますか?」の質問に似ている。
その答えは、今すぐにでも出来ることばかり。宝くじの場合の質問が軽い
ものなら、ジョークで『ホストクラブで、ドンペリをあけて大騒ぎをしたい』
とか、『全部、周りの人にあげる』とか、『宇宙旅行をしたい』とか、どうせ
御遊びの質問なら、御遊ぶの答えがよい。 それに答えている庶民?の、
あの活き活きした顔がよい。1位から4位は実現したが、だから如何した?
である。残ったのは充実感だけだが、人生で、一番、大事なことでもある。
 2位の起業希望が多いのに驚いた。だから、何もしない、できない連中が
失敗をみると、「人の不幸は蜜の味」と大喜びをする心の内は、こんなもの。
その蜜には毒がある。その毒は、自分の膿ゆえ、撥ね返って来るのが己の脳。
 で、どういう訳か、去年の同月同日の、以下の内容に続く・・
が、その前に、以前書いた、「宝くじ」に関連した文章をコピーする。
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2013/06/17
宝くじが当たる確率(何倍?)はどのくらい?
 宝くじには全く興味がなかった。一度、一枚だけ話の種に買ったことがある。
SCなどの店先の宝くじ売場で買っている人を見かける度、
「夢を買っているんだ!」と思っていた。 ー教えて!Goo、によるとー
【 問い=  例えば、以下のような宝くじは当選確率はどのくらい。
  1等 1億円  20名  2等 1千万円 20名
  3等 百万円 200名  4等 5万円 30000名  
  例えば、1億円当たる確立は百万人に一人とか…
【 答え=
 ○ あなたが、宝くじの1等に当る確率は、1等の当選番号が、
          「11組111111番」になるのと同じです
 ○ 一般的な宝くじは、100kgの米の中からある1粒の米粒を探し出すのと
   同じくらいの確率だそうです。
 ○ 売り上げ枚数を調べれば簡単に分かりますよ 7億6千万枚ほど売れて
   いるようですから、完全ランダムで3800万枚に1枚ほど入っているかと
 ○ 年末ジャンボの場合、1ユニットで1000万枚発売されている。
  1等は1ユニットあたり1本ですから、単純に1000万分の1となります。
 ○ 当選番号が 123456番だとした場合 最初のくらいの1番はどのくじにも
  ついているわけで,あとは1の位から万の位までの5つの数字の組合わせは 
  10×10×10×10×10で10万分の1となりますよね。ただし,これは一枚 
  買った場合で 連番で10枚買ってると 確率は その10分の1で 1万分の1。
  一等は宝くじでは この組の数が二桁あるので、その10×10の100倍 
  つまり、一枚 買って一等に当たるのは千万分の1となりますよね
 ○ ちなみに東京ドームの敷地に新聞紙を敷き詰め、天井から針を落として
  新聞の一番小さい1文字に当たる確率と同じくらいとか聞きました。
 ▼ 一等、二等で合計500万分1の確率で、当たる分けがない。買う当人に
  とっては千分一の気持ち。アメリカなどで数十億円が当たるケースがあるが、
 それが元で不幸のどん底に落ちるケースが殆どという。悪銭身につかずである。
それなら毎日、何とか5百円預金をすれば一年で18万円、10年で180万円、30年で
金利を含め1千万になり、遥かに効率が良い。 が、そうはいかないのが人間。
生を受け、今、存在していること自体が奇跡なのに、それを生き切らなくて何が
宝くじ。せめて、当たった夢をみたいのは分かるが。1億当たったところで、
したいこと、買いたい物など、何も無いのも面白くないが。
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2015/06/21
宝くじを当てた95%が、5年以内に
      『世界の大富豪2000人が教えてくれたこと』トニー野中(著)
  * 宝くじを当てた95%が、5年以内に当選金を失う
 日本では『悪銭、身につかづ』という諺がある。入る器の方を育て上げないと、
その殆どが溢れ流れていく。私も事業投資の当初の10年で5倍まで純資産を
増やしたが、2001年の9・11と、リーマンショックと、2011年の3・11の10年で
壊滅! 辛うじて保険代りに家内名義で積みたててきた給与の預金と、
二人厚生年金で、これまでの生活を維持している。 その辺りから 〜p40
≪ アメリカやイギリスでは、「宝くじを当てた人が、その後どうなったか?」と
いう追跡調査が、よく行なわれます。 それによると、「宝くじの一等が当たった
人の95パーセントが、5年以内に手にした当選金の全てを失っている」という。
「器のできていない人がお金を持っても身につかないこと」を、データは如実に
証明しているわけです。 いえ、当選金を失うどころか、それ以上のマイナスを
被るとがあります。たとえばアメリカでは、宝くじに当選すると、宝くじ売り場
まで乗ったタクシーの運転手まで「分け前を寄こせ」と主張してくるそうですし、
100万ドルを当てたーカ月後に毒殺されるという事件まで起こっています。
『となりの億万長者』というベストセラーで知られるトマス・J・スタンリーは、
その著書で「宝くじを買う頻度と、その人の資産レベルの間には非常に顕著な
反比例関係がある」(『なぜ、この入たちは金持ちになったのか』日本経済新聞社)
ということを証明しています。それは、「お金があるから、宝くじなんて買わない」
という理由だけではないのです。宝くじの当選確率など、計算すれば、ビジネスで
成功する確率よりはるかに低いとすぐにわかります。大富豪になるような人で
あれば、そんな確率の低いことよりも、もっと確実に稼げることに、時間とお金
を投資しようと考えるのが当然でし欲う。それでも多くの人が宝くじをほしがり、
"当たる"と評判の宝くじ売り場に朝一から並んでいるのは、
「楽して莫大な富が手に入る」という誘惑に逆らえないからです。≫
▼ 宝くじは夢を買うもので、それ自体に矛盾がある。夢は長年かけて地道に
 積み上げ実現するもの。そのプロセスにこそ価値(意味)がある。数羽の
ブラックスワンで、私の事業は終わったが、プロセスで元をとっていたので、
後悔は意外に少ない。宝くじの当選金を5年で失っても、持ったままより、
遥かに良い!とも考えられる。「失う」と思うのは傍目で、実際に使えば、
その価値を味わい尽くすことが出来る。 5年で数億など使ってみたいもの。
いや実際に使ってみた。一棟、ホテルを建てると土地代を入れると3〜10億。
そのプロセスを遊びに昇華すれば、遊びとして、それだけ使ったことになる。
遊びとしてみても、実際に面白かった。当事者の実感は、「失った」というより
「使った」である。本人が言うから間違いない! ということは、著者は浅い?
ボロボロになって涙した方が、その数倍増やしニヤニヤしているより味は濃い。
「大恋愛の成就より、失恋をした方が遥かに良い」ことを考えれば解るだろう。
『 宝くじを当てた95%が、5年以内に当選金の全て使う! 』良いでないか。
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4935,コトの本質 ー5
2014年09月18日(木)
                 『コトの本質』 松井孝典
  * 世間とは、リアルの社会を内部モデル化した様相            
これまでの『世間』の解釈で一番、納得できた言葉が、
「社会=リアル、世間=社会を内部モデル化したバーチャル」である。
社会との関わりあいで、世間という内部モデルが、バーチャルにつくり
上げられる。たかがバーチャル、されどバーチャル。リアルとは、
ほど遠いが気にかかる虚構世界である。  ーその辺りから
≪ 社会という言葉と、世間という言葉があります。我々が人としてその集団
 の中で生きていくうえの、その集団のあるがままの外界を、たとえば社会と
呼ぶとします。社会は現に存在する外界です。社会と世間は同列ではありません。
私にとって、世間とは、脳の中につくられる社会を投影した内部モデルです。
世間というのは、したがってリアルなものではなく、バーチャルなものです。
世間をどのように見ているかは、私の内部モデルとして、社会をどう投影して
考えているかということに関わってます。世間というものは、私の言葉で
いえば人間圏そのものともいえます。それは概念化された世界です。
人の営みの、しきたり化されているようなところから、価値観から何から、
全部ひっくるめての世間でしょう。だから、あるがままのリアルな社会とは、
少し違います。人間圏のリアルの側面としての社会については、絶えず
観察をして、世間という私の内部モデルを更新してます。・・
社会と交わるたびに、人間圏の諸々の情報が膨らんでいきます。すなわち、
内部モデルの細部が、どんどんできてくるのです。社会と関わるたびに、
世間というモデルが作り変えられるのです。 ≫
▼ 日本人、とりわけ地方の地域社会は、世間という長年積み重ねられた
 地域偏見が一種の宗教のように、それぞれを縛り付けている。 そして、
それがバーチャルであることさえ気づかず人生を終える。だからライフワーク
を持っていないと、自分を見失ってしまう。バーチャルの世間に埋没すると、
ライフワークの価値が見えなくなる。だから、城下町は、文化度が高い人と、
低俗の人との二極分化が明確になってしまう。一般的に、低俗の人を世間と
いうが、誰もが、どこかに兼備えているから始末が悪い。それが年をとるに
つれ老醜として露出する。老いることは、恐しい!
さらに、老いた群れは、醜く恐しい!
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4568,変えてみよう! 記憶とのつきあいかた ー4
2013年09月18日(水)
       「変えてみよう! 記憶とのつきあいかた」高橋 雅延 (著)       
* 幸せな人生とは、本人が決めること! 幸福感は、それぞれの人の核となる
魂の問題で、他人がとやかくいう問題でない。「不幸の極みと思っていたことが、
実は幸運の仮面を被っているにすぎない」と思えば、そう思えてくる。 
実際に経験してみると、そこに多くの視点が見えてくる。本当の幸福感は
不幸の真只中にこそ、現れ出てくるのは人生経験を積むほど分かるはず。 
ー以下の箇所はなかなか含蓄があるー
≪『サザエさん』の原作者の長谷川町子のマンガで、小学四年生のときに読み、
 今なお覚えている作品がある。それは、一人の男の人生をめぐる、良い神様と
悪い神様の話だ。 何の不自由もない家に、玉のような男の子が生まれた。
これを知った悪い神様は、どうもこれがおもしろくなく、この男の子の人生を
惨憺たるものにしようとシナリオを練る。そして、「男の子の身に次々と不幸
が起こり、紆余曲折をへて船乗りとなった挙句に猛烈な嵐に遭遇して、最後は
絶海の孤島に流れ着き、そこで人生を終える」いうシナリオをつくりあげた。 
はたして、男の子の身には次々に不幸が襲いかかる。しかし、良い神様が
それに気づいて彼を何度も助けたために、彼は幸せな人生を送ることになる。
ところがその臨終の場で彼は自分の人生を振り返って、本当に不幸な一生
だったと言い出す。そして、自分の夢は船乗りになって、どこかの島で人生を
終えることだったと述懐して息を引きとるのだ。二人の神様は、人間 とは
よくわからないと言いながら、去っていく。こんな話だ。このマンガが
私の人生の原点。幸せな人生とは、あくまでも本人が決めることであり、
まわりがとやかく言うべきものではない。もとより、記憶のさまざまな
性質や、その生かしかたを知ったからといって、幸せになれるわけではない。
ただ、何も知らないよりは、知っておいたほうが、みすみす損をしないだろう
と思われるだけだ。この本に書かれている「ヒント」をもとに、どのような
人生を生きるかは、最終的には、みなさんが決めることである。》
▼ 以前に取り上げた「幸福の4階建」に、当てはめると分かりやすい。
 4階:克服できない苦難や悲しみの中に、幸福がある。
 3階:苦難や悲しみを経験し、それを克服する中に幸福感が生まれる。
    そこに自己実現の要素が入っている。
 2階:獲得した「快」を永続させる。 そこに時間的要素を入れ、
    いかに長続きさせる中に幸せがある。
 1階:人間の本能的な「快」(恋、富、名誉など)を得て、増やす。
苦労に苦労を重ねて得た幸せこそ、その最たるものだが、得てしまった
幸せより、不幸に見えた苦労の中にこそ、真の幸福の含量が多くある。 
私のケースは、『サザエさん』の作者の物語とは真逆である。 
思いもしない3つの大津波に飲み込まれて、この結果に終わった。
しかし、これこそベストでは?の、心の奥からの声に我ながら驚いた。
この「幸福の4階建」の意味が、いやでも実感をせざるを得ない。
現在の私は、この建物の3階辺りで、日々を過ごしているが、いつ何どき、
4階に駆け上がり、幸福感を味わうのだろう。その屋上のテラスからの
景色は、どんなものか? それもこれも、生きているうち!
今日一日を楽しむしかないか。
・・・・・・
4193, 呪いの時代 ー10
2012年09月18日(火)                                 
* ペルソナ(仮面)の品不足     「呪いの時代」内田樹
 結局、人は、それぞれの場面に色いろな仮面を被ることで生きている。
ところが一つの理想的な仮面に限定すると、それに対して真逆なペルソナが
現れ出る。「弱くかわいい僕」以外のペルソナの品ぞろいがないと、危機的
状況になった時に、思いもよらない凶暴なエゴの男が顔を出してくる。
人間は面白く、哀しく、弱いもの。我が内なる他者とは、よくいったもの。
秋葉原の無差別殺戮などは、その典型。 仮面の品不足だったのである。   
 ーその辺の記述からー
≪ 人間の攻撃性のコントロールは容易ではありません。完全抑圧して
 しまうと、かえって思いが違ったかたちで暴発する。ひとりの人間が
抱え込んでいる攻撃性の絶対量は、変わらないあるところで抑え込めば、
違うところからかたちを変えて噴き出してくる。だから、攻撃性はいろいろな
かたちで管理して、「小出し」にするしかない。小出しにしておけば
破局的事態は避けることができます。だだし、そのためには、
「攻撃的なペルソナ」にしても「防衛的なペルソナ」にしても何種類か
品ぞろえしておく必要があります。そして、状況に応じて、その場に
もっともふさわしい仮面をかぶる。・・
 ・・ 草食系男子が採用している「弱くてかわいい」ペルソナというのは
たしかに多くの場合に有効だと思います。とりわけ、今の日本のように
「弱者であることの利益」がつよく意識されている社会では。でも、
当たり前ながら「弱くてかわいい」だけで対応できる状況は限られます。
対応できないとき、彼らは一気にしばしばまったく似ても似つかない別の
ペルソナ(凶暴で攻撃的)に切り替わってしまう。この二極のペルソナがあまり
に隔絶しているので、人格が統合できないまま、まるで別人のようになる。
卑屈なほど恋人に尽くしてきた男が、結婚と同時にいきなり荒れ狂うDV男に
変わってしまったという事例は実際に僕も知っていますけれど、このような
人格解離現象はペルソナの「数不足」で起きてしまうのではないか。・・
 ・・「他者との共生能力の劣化」ということを問題にしたが、他者との
共生の基礎となるのは、実は「我がうちなる他者たち」との共生の経験なのだ
と思います。僕自身にも「さもしい私」「邪悪な私」「卑劣な私」がいる。
それらもまた僕の正規の「ペルソナ」の一つであり、それなしでは僕は僕
でない。自分自身の中にあるさまざまな人格特性を許容できる人間は他者を
許容できる。僕はそうだと思います。世間で言われる道徳訓とは言葉が
ずいぶん違いますが、僕は自分を許すことのできる人間だけが他人を
許せると考えます。≫
▼ ー「他者との共生能力」をつくるには、他者を構成する複数の人格特性
 のうちに幾つか「私と同じもの」を見出して、この他者は私自身と同じ
ことを認めるべきである。その共通部分をどうすれば増やせるか、とりあえず、
人格特性を「切り出す」ユニット数を増やすしかない。ーという。
要は、その切り方である。可能な限り、自分を割っていく、割れば割るほど
他者との共有部分が増えていくことになる。人生の経験とは、そんなもの。
 ・・・・・・・
3828、 もう、あれから半年
2011年09月18日(日)
 3月30日から、あと二週間足らずで半年になる。そろそろ30年、いや仕事人生
の40年余りの毒気も抜けてきた。「何だったのだろうか、これまでの日々は?」
と、定石通りの思いが浮かんでくる。「男なら、条件が揃えば事業を興すのは
当然」と信じてきた。 ふと気づくと9・11、9・15に直撃、その大波が地方経済
を直撃。更に情報化の進展も加わり売り上げが激減。ここまで、経済状況が悪化
するとは、実のところ思いもよらなかった。ここまでリアルに売上減になると、
諦めるしかないと納得する。 で、一歩、娑婆から身をひいた半年後の実感は
「世の中で揉まれて、大きな歪みの塊になっていたのでは?」という疑問。
それが気づくのは、娑婆気から抜けた時。特に家庭の柱としての働き手の男の
場合、その歪みが大きい。その断面を大きな節目になって気づくことになる。
誰もが、社会や会社の柵に捉われたくないが、競争社会では肩肘も張らないと・・ 
とはいえ、それだけに目がいき過ぎて、他の大事なことに目がいかなくなり、
最終章に近づいて、慌ててしまうのが大半。半年で、この40年の歪みを改めて
振り返っている日々でもある。もしかしたら、一生、気づかず終わる人もいる。
それに気づいて悶々とする人もいる。 先日、近じか定年になる友人に、
この話しをしたら、全く同感という。小さな、しかし、かたい勤め先を、
こともなく48年間勤めあげた実直な男が、自分の人生の歪みを認識していた
のである。私なら自分で納得するが・・ でも、その歪みも後悔は全くない。 
ここで、「良い人生、悪い人生でなく、充実していたか、してなかったか?」と
いう言葉で、自己納得するしかない。状況が状況だったので、苦悶はあるのは
仕方がないが、充実感が、何とか支えになっているというのが正直のところ。 
準備、15年も含めた事業人生の45年の終わりは、三連発の経済・自然大災害の
直撃で終わってしまった。そして半年たった現在、静かな心境でいられる
のが、救いである。少なくとも、自分の人生の歪みに後悔はしていない。
この歪みが自分でもあるから。 その歪みに七転八倒しているのがいるが・・
それも人生。 穏やか過ぎる人生より、遥かにましである。 それも歪みか。
 偶然、この内容に滞欧する文章が以下の去年の同月同日に書いてあった
   ー 面白いもの。 いや、数年分が関連している。
・・・・・・・・
3463, 9・15より二年
 2010年09月18日(土)
 リーマンショックから、二年経過し三年目に入った。100年、250年に
一度の激震と言われる。アメリカでは、証券大手の殆どが瞬時に消滅、シティー
バンクなどの大手銀行も政府管理会社になり、ビッグのGM、クライスラー
も政府管理の事態になっている。日本のバブル崩壊で、大手銀行が20社から
三社に集約されるまで10年も要したことからみれば、迅速である。
日本では今のところ目だった大手では日本航空ぐらいなのは不思議と言えば
不思議である。まだ表面化はしてないが、まずは関東・東海ベルトラインを
除いた地域経済は惨憺たるもの。悪いことに政権が民主党に移行し、人間に
例えれば脳がマヒ状態で、この難局に国の方向が定まらない無政府状態
このまま、この激震のクライマックスに入る2012年を迎えることになる。
デフレから悪性のハイパーインフレへの転換である。現在は円高だが、さらに
恐ろしい円安が日本経済を襲う。まだ表面化してないが、ある日、株と国債
暴落から始る激しい恐慌の本番は、激しく我われの生活を襲ってくる。
悲観的だが、それが事実なら認めざるをえない。
 これに情報化社会の進展によるグローバル化が、世界をフラットにしていけば、
これまで東西冷戦の狭間で、大きな恩恵を受けてきた日本が、普通の国並みに
豊かさが損なわれるのは当然である。それが、現在の日本の衰退。
情報化、グローバル化、フラット化の流れは、もう止めることは不可能である。
これまでの常識は根底から破壊され、全く違った価値観が通用する時代に既に
入ってしまった。情報、軍事、金融を支配しているアメリカは、当面は勢力を
保つだろうが、中期的にみれば衰退は免れない。それに対し、中国・インド・
ブラジルなどに覇権の重心が移動するのは避けれないこと。その中で、日本は
アメリカの更なる植民地化が進む。毒素が脳までやられてしまったのである。
その一つの現象が、現政権のトップ達に、そのまま現出しているとみると、
ヒルな笑いが出てきざるをえない。
 ・・・・・・・・
3088,挫折を考えてみようか −3
2009年09月18日(金)
 ある人に「あなたの『挫折を考えてみようかー1』を読んだが、貴方には
挫折経験がないのでは?」と言われた。そこで改めて考えてみた。大学浪人は、
そこで進学を断念したなら話しは別だが、挫折ではない?金沢時代も挫折とは
違う。目的もしっかりあったし、絶好の体験をしているという実感はあった。
創業を目指して彷徨いながら準備をしていたという明確な絵図があった。
そう考えると「挫折体験はないのでは?」という指摘も正しいことになる。 
 先が見えないで暗い心情になっていた時期で挫折とはいわない。そうこう
考えると、挫折と軽々しく言わない方がよい!ということ。ネット辞書によると
「挫折とは計画が達成できないで心が折れてヤル気を失うこと」とあった。
挫折は、それまでの自分を一度破壊し新たな自分の創造を促すチャンスになり、
竹の節目に譬えることが出来る。 そこに大きな鍵が隠されている。超越者の
声に敏感になることもある。それまでが横の時間なら挫折の時節は縦の時間。
「節目を打て!」というが、そこで超越者に試されことでもある。 物語なら、
そこを節目としての転換期になり、「起承転結」の「転」の時になる。
挫折の状態は、追い詰められた状況ほど芸術作品や本などを通した超越者の
語りかけに鋭敏になる。「予定挫折」という言葉がある。挫折を意図的に入れて
置いて、人生の踊り場にするのである。そこは枝葉を切って根を養う時節であり、
超越の時節になる。「そうか〜挫折と思い込んでいただけか〜」と思ったが、
それでは、挫折が無かったかというと、勿論ある。実は見落していたのである。
大学浪人や創業時の準備は勘違い? しかし深傷だったが。最近になって
「自分は中学浪人だった」と何人かの知人から聞いて驚いたが一番傷つきやすい
時期の、それから見れば、当時の大学は半分近くが浪人経験者で、挫折でない。
また私の姉夫婦と実兄夫婦の倒産劇で、大きく挫折をしたのを間近で見たが、
壮年、老年の挫折は厳しい。最近はリストラで日常が挫折だらけになっている。 
他人事ではない。 予定挫折ともいかないし。幸福というビルの最上階の4F
ならいいが、屋上から何は? 挫折を茶化すこともないが・・
「挫折とは計画が達成できないで心が折れてヤル気を失うこと」か〜! 
なら日々挫折である。計画が甘いだけ?。「日々是挫折」=「日々是口実(好日)」