つれづれに

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昨日はシネマの日。『悼む人』を観てきた。
 評価は90~95点で、邦画としては最高点。
思いの外、内容は濃厚で、熟年が平日としては多く、
40~50人はいた。生と死と、再生の問題。
重く、暗いが、それでも後味は悪くない。
 熟年なら、ぜひ観ておくべきだ。

早速、今日の随想日記のテーマにした。
――
* 『悼む人』が良かった!
事故現場で、地に躓き、右手を頭上に挙げ空中に漂う何かを捕らえるように
自分の胸へ運ぶ。左手を地面すれすれに下ろして大地の息吹をすくうかのように
胸へ運び、右手の上に重ねる。目を閉じて、何かを唱えるように唇を動かす青年…
『 誰に愛され、誰を愛していたか。何を感謝されたか。
  確かに貴方が生きていたことを私は憶えています。 』
悼むことは、愛を憶えておくことだ!どんな人にも、様々な愛のカタチがあると、
作家・天童荒太直木賞受賞作『悼む人』を堤 幸彦が映画化したもの。
 イスラム国とか、奇妙なテロ集団が殺伐とした殺人を公開している現在、
ベストのタイミングの内容である。 ~まず、映画サイトのブログより
≪ 天童が『悼む人』を書くに至った発端は、2001年、9・11同時多発テロ事件、
 およびそれに対する報復攻撃で多くの死者が出たことだった。これらの悲劇
だけではなく、世界は不条理な死に満ちあふれていることに改めて無力感を
おぼえた天童に、天啓のように死者を悼んで旅する人の着想が生まれた。
彼は実際に各地で亡くなった人を悼んで歩き、悼みの日記を三年にわたって記し、
その体験を元に2008年、『悼む人』を刊行した。そして2011年、日本は再び
大震災に見舞われ、我々は改めて不条理な死と向き合う事を余儀なくされた。
 人はなぜ生まれ、なぜ死ぬのか。ふいに目の前から消えてしまった者に対して
誰もが抱く行き場のない思いをどうしたらいいのか。病や事故のような逃れよう
のないことであれ、殺人という加害者によることであれ、かけがえのない「生」
を損なわれた時、人は深く傷つき、苦しむ。静人は旅をしながら、「生」を
奪い奪われる人たちと出会っていく。母を見殺しにした父を憎む男。愛という
執着に囚われて夫を殺した女。末期癌療養に病院でなく自宅を選ぶ母親…。
静人自身も、大好きだった者の死を忘れるという行為に自らを責め続けていた。
「誰に愛され、愛したか、どんなことをして人に感謝されていたか」
死者に対してこの3つを見つめ、記憶することで、逃れることのできない
「死」を、「愛」によって永遠の「生」に変える。これが、人のできる最善
なのではないか。静人の〈悼む〉行為はそう語りかけてくるようだ。
その「愛」の記憶は、見た人の数だけ無数にある。静人が黙々と死者を訪ね、
その愛の記憶をひもとき、呪文のように言葉にし、祈る姿を見ながら、観客は
個々の「愛の記憶」を呼び起こしていく。そして、自分は誰を、どんなふうに
愛し、誰かに、どんなふうに愛されたであろうか。また、これから誰を愛して
いくだろうか。そんな思いにも繋がっていく。≫   ー評価~90点
▼ この映画を観ながら、そして夜半、誰から愛され、愛し、感謝されたか、
 を考えさせられた。最近、思い出てくる記憶は、純粋な気持ちで、感謝された
シーンと、言葉である。その時は、何とも感じなかったことが、数十年の時を
超えて、フッと蘇ってくる。「ダカメ女の正体」の真逆の愛と感謝の照射!
・・・・・・
2150, スピリチュアル・ブームを考える -1
2007年02月21日(水)

              才八∋ウ_〆(∀`●)

    毎日新聞の2月19日の「論点」に
   「スピリチュアル・ブームを考える」をテーマに
    島田裕己、溝口敦、香山リカの三人のジャーナリストが、
    それぞれの視点で鋭く、そのブームについて分析をしていた。
    なるほど非常に面白い内容であった。

現在の日本は、一部の強者以外は全体として行き詰まりの様相を呈している。
その中で人間は内側にエネルギーをもとめてしまう。
「霊的エネルギーへの欲求が社会に満ちている」といってよいだろう。
心の中に何かが起きているのだろうか?

    私自身も父の死をキッカケに十数年間も霊感がついた。
    何をもって霊感というと難しいが、とにかく変な感覚がついてしまった。
    最近はホボ無くなったが、あれだけは実際に「その感覚」がつかないとわからない。
    だから、興味を持っている人以外に話さないことにしていた。
    生来の盲目の人に、視覚の話をしても理解できないのと同じである。
    といって、極端なスピリチュアル・ブームもおかしなものだ。
    細木数子の批判文の中でも書いたが、物語を人は求めているのである。
    それを安直にイメージ化できるのが、霊とかいうヤツだ。
    まあ、この三人の切口から、その本質を考えてみよう!
    
  ーー
 ー島田裕己ーの分析から考えてみよう。
  まず要約すると、
「バブル以降、霊観念の個人化が進展、カウンセラー型の霊能者がはやる」
ということだ。今日現在のブームは、伝統的な霊観念の衰退、希薄化ということと
関係している。前は宜保愛子の先祖の霊が適切に祀られていないと、その祟りで
病や不幸がもたらされると考えられ、それを取り除くには先祖の霊を正しく
供養しなければならないと説かれた。
 ところが、核家族化が進行して、家の解体が指摘される今、家の比重が低くなり、
先祖の霊の祟りはリアリティーが無くなってしまった。
多くの人は家のしがらみに苦しんではいない。少子化で、家の存続も危なくなっている。
そこで今は「個人化」の傾向が強くなり、家の影響は小さくなり、
対象が家の霊ではなく、個人になっている。
それは、個人の前世の霊ーすなわち生まれかわりの霊ーに変化したのである。
もし出てきたとしても、それは祖父母など近しい存在に限られるのである。
   --
   解)まあ、これから考えてみると、これだけいい加減なことはない!
  霊など心の迷いの時に頼る無知な人間の玩具やマジナイと同じ。
  彼はそういいたいのだろう。
  父が「墓は本家より大きなものにしてはならない!」と言っていたが、
  それも明治生まれの[家]制度を背景に持った論でしかなかった。
  家そのものより、個人化の方が重んじられる現在、あの父の言葉は何だったのか?
  墓は「家の抽象的な心のカタチ」だったのか?
  人は、心の何処かにそれが必要なのか?
  だから レジャーを兼ねた盆帰りをしてお墓に参るのだろう。
              
                   バイ  (σД≦)ネムゥ~
・・・・・・・・・
2006年02月21日(火)
1785, 閑話小題

 ースーパーツチダの倒産ー
 
地元のスーパーマーケットのスーパーツチダが破産・倒産をした。
前の社長が高校の同級生で三年前に癌で亡くなってしまった。
10年以上前から、会社がギリギリということは本人から聞いていた。
逆によく三年も持ったということだ。
     地元ナンバーワンのスーパー原信に圧倒的な商品力の差があった。
     そのため最近では殆んど店には行かなくなっていた。
     ダイエーが昨秋、長岡店を閉鎖した後に今度は
     ツチダの閉店でマスマス町が寂しくなる。
     長岡のスーパーは原信の一人勝ちの様相になってきた。
新潟を本拠に置くスーパーウオロクも、原信との闘いで体力を消耗、
虫の息という噂を聞く。 流通は厳しい時代になってきている。
     最近は、誰も他人事ではない。
     今度は何処?という感覚が恐ろしい!

ー勇気とは何か ー

 勇気とは怖れを感じないことではなく、
 恐れることより重要な問題を感じ取ることである。
     恐れの90?が思い過ごしというが、恐れから眼をそむけるのではなく、
     その中心を凝視することで恐れを克服していく姿勢である。
     むしろ恐れが問題の中心点にエネルギーを集めることになる。
     そしてエネルギーを集中することによって、問題に立ち向かうことである。
  積極とは、極めを積み重ねることである。 極めはリスクを伴う。
 そのリスクの上でこそ問題の重要性がみえてくる。
    「正しい目標を欠くと、偽りの目標にはけ口を向ける」というが、
     勇気は正しい目標を持ってこそ、その意味が出てくる。
 こういう時代、変化を恐れていても仕方がない。
 背後の問題を把握して一つずつ解決していくしかない。
 背後の問題とは
 ・情報化社会の到来
 ・グローバル化(旧共産圏の自由市場への参入)
 ・日本という国家の極度の疲弊化
 である。 特に情報化が根こそぎ社会を揺り動かしいる。

・・・・・・・・
2005年02月21日(月)
1420, FIFAオールスター・サッカー

昨日、スマトラ沖地震のチャリティー
「世界選抜」と「欧州選抜」とのサッカーの試合を見た。
世界の超一流選手だけが参加しているのだから面白くないわけがない。
個々人の世界最高の技が次から次へと出てくる。
その上、世界の才能が団結をして闘った内容でもあった。
それぞれの選手の技にお互いに驚いているのが解った。
パスにしても、シュートにしても一流の技は芸と言ってよい。
次から次への攻防が全てに無駄がない。

勝負を競うより、一人一人の技術のオンパレード。
それも、漫画本に出てくるような技が面白いようにでてくる。
お互いの技が、それぞれの技を次から次へと引き出してくるのもよい。
試合内容は、終始「世界選抜」が攻勢をして6対3で買った。
90分が、これだけ短く感じたのは新鮮で感動した内容のためだろう。
これだけ熱狂というより、次から次へと感動したサッカーの試合は忘れることがないだろう。
世界150カ国に放送されていていたというから、10億人以上が見ていただろう。
日本人では中田選手が出ていた。

解説のセルジオが、終始「凄いですね!凄いですね!」と繰り返していたが、
それだけの、中味の濃い90分であった。
サッカーといえば、緊迫した点の取り合いが特徴だが、勝負より個々人の
技術を楽しむというのも良い。
 何ごともそうだが、楽しむネタは幾らでもあるものだ。

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2004年02月21日(土)
1053, 判断と決断の狭間

人生振り返ってみると、判断と決断の間に大きな溝があった。
この溝で救われたこともあった反面、大きなチャンスを失ったことも多い。
「判断」とは、正しいか、正しくないかという物差しで計るものであり、
「決断」とは、強いか、弱いか、早いか遅いかによるものによる。

そこで心すべきは決断の仕方である。
状況をいくら分析しても、それが意思決定につながらなければ無意味になる。
といって、そこには責任が伴うから、その狭間を冷静にみる視点が必要になる。

判断をしたら、それだけであたかも決断したような錯覚に陥り問題を先送りして
しまいがちになる。
判断は人間の首から上の作業によるものだが、決断は人間の知・情・意のすべてに
深くかかわり合う、つまり全身全霊を駆使して決めるということである。

そして判断の優先順位と決断が直前におこなわれる。
そこに人生観や価値観の問題がでてくる。
そして、その曖昧さが溝になる。
人生は、その溝の中で泳ぐ魚のようでもある。
だからこそ面白いのだ。

分裂症という鮫もいるが。

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2003年02月21日(金)
688, ストレス

先日亡くなった同級生の偲ぶ会で、彼の死因について話しが出た。
直接原因は癌であったが遠因がストレスだろうと意見が一致した。
その場の全員が人生で一番厳しい一里塚にさしかかっているから解るのだ。

その場でAが「堀井お前ストレスなど無いだろう!」
わたし「ゼロ!」。
Bが「堀井、お前は与える方だ!」
爆笑であった!!

ところで彼らは、「ストレスの解消法をあまり解ってない?」と思えた。
ストレスの潰し方は、他のストレスで潰すのが一番本能的な簡単な方法だ。
しかし、それは更なるストレスの蓄積をしているに過ぎない。
わたしの経験からいうと、「独りになりきるしかない!」
それが全く解ってない、号泣せざるを得ない立場になって初めて気がつく!
それでも気がつかないだろう。

ストレスだけは、気をつけないと。
いつの間にか溜め込んでいるのに気がつかない人が多い。
群れるしか能がないから、ストレスの雪だるまになる。
「人間は孤独の存在!」である、また「群れていなくては生きられない存在!」でもある。
この二律背反を使い分ける事が必要である。

私の場合はお経とか、ウオーキング、旅行、読書、映画で発散する。
それとイヤな事は繰りかえして考えないようにしている。
この随想日記もストレスにもなるし、反面ストレス解消にもなる。

ここで一句   バカいうな やることだけは やっている

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2002年02月21日(木)
338,「世界がもし100人の村だったら」

この本が最近話題になり、インターネットで早速買ってみた。
本屋で立ち読みをしたら、買わなかったと思う。
ほとんどが「TVで放映されている内容」でしかなかった。

昨日、印象に残ったものを「サロンのコーナー」に、
デジタル写真で撮り、貼り付けておいた。
もっと色々な内容があるはずだ、そう思って買った。

すぐ考えたのは、「日本がもし100人の村だったら」が書けるのではないか、
という事であった。日本人は2番煎じはうまいのだが。
ただ「テーマ」がよい!ーいや問いかけといった方がいいか。
今まで難しいと意識しなかった問題が見えてくる。
テーマの決め方で、問題を深く捉えることが可能になる。

「国家予算」も「県の予算」も、「100人の村だったら」
の喩えでもして解説をしてくれたら、一般の人も関心を持つ。
ある人の文章が巧くなった。
何故だろうと考えたら、いつの間にかテーマをつけていた。
テーマは円でいう中心点である、芯ができた為だろう。
テーマ日記を書き続けて、少し自分の頭がよくなったような気がする。
テーマを考えるのと、その内容の構成をするからだ。
また書きながら、違う視点にも気づくからである。

100という数字が分かりやすいのと、村の住民という喩えがよかった。
山下清が何か考える時「兵隊の位でいうと,どのくらい?」
と問いかけるのと似ている。
単純だが一番の中心をつく。

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お笑い  ー下ネタコーナー
 「はしたない! 」
 
  ‘一念勃起’

失業中の年配の男と飲んでいた時、「自分もここまできて失業、
一念発起してやり直さなくては」と真面目な顔をして言うから、

今更なにを!という意味で思わず
「一念発起でなく、一念勃起だろう!」
と言ってしまった。
隣で見ず知らずのご夫人方が聞こえたのか、

 大声で‘あはあはは!’