つれづれに

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  今日のYoutube

 今朝方の寒さは格別だった。その中、早朝に起床。
パソコンの前に座るのも大変だが、16年間の習慣が、
自動的に身体を動かしていく。

 現在、スポーツジムは開店 6周年記念の一週間のイベント期間中。
日赤のウオロク内にできたジムに移動したようで、何人かの姿が消えた。
しかし、新規の客の姿が増えている。

 イベントの最中は、コスチュームをスタッフが着て指導するが、
昨日の12名でするイージーラインが、なかなかのもの。スチュワーデスと、
メイドカフェのお姉さんのコスチューム姿で、跳んだりはねたり。 それで、
スカート内のジム用パンツが見えるが、それが、いやに艶っぽく、目のやり場
に困るほど。 それと、イベントの一環として、絶叫に近い掛け声を、普段一人
でも響くのに二人で競ってかける。 笑うに笑えないし、真面目な顔もチョッと。

 異次元の画面のTVの御蔭で、毎日のTV映画と、ドラマが格段に面白い。
0・2の視力が、4^5までアップしたら、こうなる?という風な異次元の世界。
画面だけ捉えれば、映画館より遥かに鮮明で立体的。 カウチポテト族より、
ベッド・ポテト族になる。 同時に、御宅族というより、むしろ外界への窓か
世界に向けて開いているような。すごい時代である。



・・・・・・
3619, 忘却の整理学 -4
2011年02月21日(月)
                  「 忘却の整理学 」外山滋比著
  * 忘却はゴミ出しに似ている
 忘却は、ゴミ出しに似ている。この情報化の時代に必要としない情報は、どんどん
捨てた方がよい。そのままに放置しておくと神経に良くない。「忘却不全症」は、
大変なことになる。アメリカに過去の記憶を殆ど憶えている女性がいるという。
何歳の頃の日付をいうと、殆ど思い出す。これは本人にとって非常に苦痛である。 
自分のことを考えただけで、ゾッとする。忘れるから生きていられる。
忘却は不純、不要、よけいなことを洗い落として、昇華、純化させる作用がある。
 フロイトは「人間には、嫌なことを忘れさせ、良かったことを憶えている癖がある」
といっている。海外旅行中は普段の数倍の質量の経験をする。良いこと三分の二、
嫌なこと三分の一の思いをする。そこで嫌な思いを意識的に捨てることにしている。 
帰路の飛行機や列車で、連れ合いと良いことだけを少しオーバーに話し、マイナー
の話は絶対にしない。それを復習すれば記憶に残ることを経験上、知っているから
記憶の調整をしてしまう。その記憶のコントロールは非常に重要になる。
人生でも、これが出来るかどうか。人の悪口・陰口を趣味にしている人を見かける。
他者批判は自分の影を言っている過ぎないことを知らないのだ。そのゴミが記憶に
溜まって悪臭を放っている自分のことを。その辺に教養が出てくる。忘却のノウハウ
も教養ということになる。ところで痴呆症の現象では、明るいヘラヘラした人の方が多い。
何割かは、怒りの比重の大きい人がいる。性格もあるが、脳は最期は苦痛を与えない
ように出来ているようだ。ボケたが勝ちか! 天然ボケもいるが。
 若かりし頃に、脳が加熱をしすぎて変になりかけた時、加熱で浮き上がってきた思いを、
ノートに書き出し、乗りこえたことがあった。これもゴミ出しの一つか。比較的、
文章を抵抗なく書けるのも、こういう経験がある。
 書く行為も、ゴミ出し? かいな。 自分では宝のつもりだが・・
 ・・・・・・・
3254, 大恐慌 入門  -2
2010年02月21日(日)
 ここで考えさせられる一文がある。P241)
< 古今東西、99%までの人が最終的に投資では儲かりません。1~2年、仮に
10年間儲けたにせよ予期せぬ変動やトレンドの変化に対応できず、全て吐き出すのです。 
*1980代には生保をはじめとする金融機関は大量の米国債保有していたものの、
急激な円高で損失を出した。
*1990年から始ったバブル崩壊では、大手銀行が持ち合いの株の大幅評価損で
業績悪化もあいまって、公的資金の導入を余儀なくされた。2003年までの株式の
暴落で年金基金の存続が危ぶまれ、数多くの年金が解散、やはり国民の財産だった
株式を売却をした。これらは、外国人投資家が買い捲った。
 【投資で儲けることができないのは、投資家が大きなトレンドの変化に対応でき
ないということ】です。投資の世界では、トレンドが一方向、特に上げの時は
比較的簡単なのです。 日本の1945年から1990年までの日本、または2003年から
2008年までの世界の株式市場などです。 基本的に買って持っていればよいのです。
 株式などの投資だけでなく、事業など殆んどの投資家も基本的に同じで、トレンドの
変化に対応できないで損切りが出来ないで、そうこうしているうちに、身動きが
出来なくなり損失が拡大する。 >
< 多くの人が巨大な損失を被っている時、何に賭けたらよいか? 簡単です。
円高】にかければよいのです1ドル50円の円高とよくいうが、95円に戻った時です。>
  ~~
 金取引のベテランだった金に関するプロの評論家が「8勝7敗ならプロの世界
では賞賛に値し、超一流。7勝8敗との一勝の差は、損切りができるかどうか。
プロの仲間は自分の収入は金の積み立てを長年している。」という。 
殆どの人は、その渦中に入ると潮流の変化が見えなくなる。 事業30年説がある。
10年で儲けて、20年で食い潰す。全ての事業を平均すれば大よそ、そんなものか! 
現在の飲食店は2-3年で投資回収の目安が常識。あと5年で利益を捻り出せる
かどうか、「へ」の字とは、よくいったものである。
・・・・・・・・・
2879, アメリカの住宅金融の惨状とは
 2009年02月21日(土)
 ーサブプライム金融恐慌の構造と意義ー伊藤 誠-1(現代思想ー金融恐慌特集)
これまで金融恐慌系の本を20冊近く読んだが、実際の数字をみることがなかった。
ところが先日読んだ本の中に、非常に分かりやすくあった。この数字からみても、
アメリカ崩壊という言葉は、決してオーバーではない。
  ーその内容とは、
・住宅金融は2002年から2006年までの景気回復と住宅ブームを圧倒的にリードする
役割りを果たした。この時期の米国経済の四割は住宅市場に依存するもので、
結果として住宅金融の残高は2006年には13兆ドル(ドルを当時、120円とすると
15000兆円)になり、当時の米国GDPと同額になっていた。
 このうちサブプライム・ローンが13パーセントを占めていた。
サブプライム・ローンの一戸当たりが20万ドルとされており、850万世帯
(一家が三人として)2500万人がこのローンを背負っていたことになる。
住宅ローンが13兆ドルとして、平均40万ドルとすると何と3250万世帯、
 三人家族とすれば人口の三分の一が、この時期に住宅ローンによって住宅を得た
ことになる。-日本のバブル直後の住宅ローンの残高が140兆円というから、
約十倍になる。それだけでも米国のサブプライム・ローンの方が大きいことになる。
 人口は2・5倍だから、一世帯あたりとすると日本の4倍の大きさで、いかに
莫大で深刻かがわかる。
・10年間で米国の住宅価格が2倍当たりになっていたというから、半減する
ことになれば、米国人の三分の一が深刻な経済状況に陥るのは明白である。
特に値上がりを前提で買っていたサブプライム層にとって深刻である。
・昨年の6月に米国の住宅ローンの8・8パーセント、480万世帯が返済未納か、
差し押さえになり人口規模では千五百万人近くが、住居を失う脅威に曝されている。
  一昨日にオバマが米国住宅市場の再生策を発表したが、そう簡単に解決できる
レベルではない。7兆円の900万世帯を対象にする再生策だが、一世帯当たり
単純にわっても80万弱でしかない。自動車と住宅は、向う5年分の先取りして
いるというから、最低でも景気回復に5^6年はかかることになる。
 あの「金持ち父さん」が10年近く前に、本屋に平積みしてあったが、アメリ
では、この本に従った多くの人が、「貧乏人父さん」になっていったのである。 
実をいうと私も読んだが・・・
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2008年02月21日(木)
 2514, 賢人の知恵 -          
 ーまずは、この本の「はじめに」をコピーしてみる。
著者のバルタザール・グラシアンは、17世紀のスペインで活躍した著述家であり。
イエズス会の修道士です。神学者アルトゥール・ショーペンハウエルはグラシアン
の著作のドイツ語訳を手がけ、日本では森鴎外が部分的な日本語訳を発表しました。
哲学者ニーチェは「ヨーロッパはいまだかつて、これほど精妙にして複雑な人生
の道徳律を生んだことはなかった」と記して、またショーペンハウエル
「人生のよき手引書である」という言葉を残しています。そして現代においても、
高名なテノール歌手であるルチアーノ・パバロッティが愛読書としてグラシアン
の書を挙げているなど、欧米では今もマキヤベリ『君主論』と並ぶ不朽の名著として
読み継がれているそうです。 聖職者の書いた人生訓、というと、皆さんは生真面目
で禁欲的、理想的な内容を想像されるかもしれません。しかし全くそんなことは
ありません。むしろグラシアンが主張し続けたのは、冷静な視点で現実を見つめ、
思慮分別と洞察力をもって柔軟に物事に向き合うことです。その背景には当時の
スペインの不安定な政情や社会に対する思いもあったのでしょう。ともあれ彼の
教えは、400年の時を超えて、私たちに自分を高めることの大切さを与えてくれる。
インターネットやテレビによる情報が氾らんし、世の中が恐ろしいほどの速さで
移り変わっている現代において、自分を見失わずに成功を手にするためには
どうすればいいのか? そのヒントがたっぷり詰まっているのが本書です。
ぜひあなたの傍らに置いて、ご活用いただければ幸いです。
 --
この本のカバーに、バルタザール・グラシアン氏の経歴がある。
   (字数制限のためカット 2011年 2月21日)
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2007年02月21日(水)
2150, スピリチュアル・ブームを考える -1    才八∋ウ_〆(∀`●)
 毎日新聞の2月19日の「論点」に「スピリチュアル・ブームを考える」を
テーマに島田裕己、溝口敦、香山リカの三人のジャーナリストが、それぞれの
視点で鋭く、そのブームについて分析をしていた。なるほど非常に面白い内容。
 現在の日本は、一部の強者以外は全体として行き詰まりの様相を呈している。
その中で人間は内側にエネルギーをもとめてしまう。「霊的エネルギーへの
欲求が社会に満ちている」といってよいだろう。心の中に何かが起きている
のだろうか? 私自身も父の死をキッカケに十数年間も霊感がついた。
何をもって霊感というと難しいが、とにかく変な感覚がついてしまった。
最近は無くなったが、あれだけは実際に「その感覚」がつかないとわからない。 
だから、興味を持っている人以外に話さないことにしていた。
生来の盲目の人に、視覚の話をしても理解できないのと同じである。
といって極端なスピリチュアル・ブームもおかしなものだ。
細木数子の批判文の中でも書いたが、物語を人は求めているのである。
それを安直にイメージ化できるのが、霊とかいうヤツだ。
まあ、この三人の切口から、その本質を考えてみよう!  
ー島田裕己ーの分析から考えてみよう。
 まず要約すると、
「バブル以降、霊観念の個人化が進展、カウンセラー型の霊能者がはやる」
ということだ。今日現在のブームは伝統的な霊観念の衰退、希薄化という
ことと関係している。前は宜保愛子の先祖の霊が適切に祀られていないと、
その祟りで病や不幸がもたらされると考えられ、それを取り除くには先祖の
霊を正しく供養しなければならないと説かれた。 ところが、核家族化が
進行して、家の解体が指摘される今、家の比重が低くなり、先祖の霊の祟りは
リアリティーが無くなってしまった。多くの人は家のしがらみに苦しんでいない。
少子化で、家の存続も危なくなっている。そこで今は「個人化」の傾向が強く
なり、家の影響は小さくなり、対象が家の霊ではなく、個人になっている。
それは、個人の前世の霊ーすなわち生まれかわりの霊ーに変化したのである。
もし出てきたとしても、それは祖父母など近しい存在に限られるのである。
 解)まあ、これから考えてみると、これだけいい加減なことはない! 
霊など心の迷いの時に頼る無知な人間の玩具やマジナイと同じ。
彼はそういいたいのだろう。父が「墓は本家より大きなものにしてはならない!」
と言っていたが、それも明治生まれの[家]制度を背景に持った論でしかなかった。
家そのものより、個人化の方が重んじられる現在、あの父の言葉は何だったのか?
墓は「家の抽象的な心のカタチ」だったのか?人は、心の何処かにそれが
必要なのか? だから レジャーを兼ねた盆帰りをしてお墓に参るのだろう。       
  バイ  (σД≦)ネムゥ~
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2006年02月21日(火)
 1785, 閑話小題 
  ースーパーツチダの倒産ー
地元のスーパーマーケットのスーパーツチダが破産・倒産をした。前の社長が
高校の同級生で三年前に癌で亡くなってしまった。10年以上前から、会社が
ギリギリということは本人から聞いていた。逆によく三年も持ったということだ。
地元ナンバーワンのスーパー原信に圧倒的な商品力の差があった。そのため
最近では殆んど店には行かなくなっていた。ダイエーが昨秋、長岡店を閉鎖
した後に今度はツチダの閉店でマスマス町が寂しくなる。長岡のスーパーは
原信の一人勝ちの様相になってきた。新潟を本拠に置くスーパーウオロクも、
原信との闘いで体力を消耗、虫の息という噂を聞く。流通は厳しい時代になって
きている。最近は、誰も他人事ではない。今度は何処?という感覚が恐ろしい!
 ー勇気とは何か ー
 勇気とは怖れを感じないことではなく、恐れることより重要な問題を感じ取る
ことである。恐れの90㌫が思い過ごしというが、恐れから眼をそむけるのではなく、
その中心を凝視することで恐れを克服していく姿勢である。むしろ恐れが
問題の中心点にエネルギーを集めることになる。そしてエネルギーを集中する
ことによって、問題に立ち向かうことである。積極とは、極めを積み重ねること。
極めはリスクを伴う。そのリスクの上でこそ問題の重要性がみえてくる。
「正しい目標を欠くと、偽りの目標にはけ口を向ける」というが、勇気は正しい
目標を持ってこそ、その意味が出てくる。こういう時代、変化を恐れていても
仕方がない。背後の問題を把握して一つずつ解決していくしかない。
背後の問題とは 
・情報化社会の到来 ・グローバル化(旧共産圏の自由市場への参入)
・日本という国家の極度の疲弊化である。 
特に情報化が根こそぎ社会を揺り動かしいる。
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2005年02月21日(月)
 1420, FIFAオールスター・サッカー
昨日、スマトラ沖地震のチャリティーの「世界選抜」と「欧州選抜」との
サッカーの試合を見た。世界の超一流選手だけが参加しているのだから
面白くないわけがない。個々人の世界最高の技が次から次へと出てくる。
その上、世界の才能が団結をして闘った内容でもあった。それぞれの選手の
技にお互いに驚いているのが解った。パスにしても、シュートにしても一流
の技は芸と言ってよい。次から次への攻防が全てに無駄がない。勝負を競うより、
一人一人の技術のオンパレード。それも、漫画本に出てくるような技が面白いよう
にでてくる。お互いの技が、それぞれの技を次から次へと引き出してくるのもよい。
試合内容は、終始「世界選抜」が攻勢をして6対3で買った。
90分が、これだけ短く感じたのは新鮮で感動した内容のためだろう。
これだけ熱狂というより、次から次へと感動したサッカーの試合は忘れること
がないだろう。世界150カ国に放送されていていたというから、10億人以上が
見ていただろう。日本人では中田選手が出ていた。解説のセルジオが、終始
「凄いですね!凄いですね!」と繰り返していたが、それだけの、中味の濃い
90分であった。サッカーといえば、緊迫した点の取り合いが特徴だが、
勝負より個々人の技術を楽しむというのも良い。
何ごともそうだが、楽しむネタは幾らでもあるものだ。
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2004年02月21日(土)
 1053, 判断と決断の狭間
人生振り返ってみると、判断と決断の間に大きな溝があった。この溝で救われたことも
あった反面、大きなチャンスを失ったことも多い。「判断」とは、正しいか、正しく
ないかという物差しで計るものであり、「決断」とは、強いか、弱いか、早いか遅い
かによるものによる。そこで心すべきは決断の仕方である。状況をいくら分析しても、
それが意思決定につながらなければ無意味になる。といって、そこには責任が伴うから、そ
の狭間を冷静にみる視点が必要になる。判断をしたら、あたかも決断したような錯覚
に陥り問題を先送りしてしまいがちになる。判断は人間の首から上の作業によるものだが、
決断は人間の知・情・意のすべてに深くかかわり合う、つまり全身全霊を駆使して決める
ということである。そして判断の優先順位と決断が直前におこなわれる。そこに人生観や
価値観の問題がでてくる。そして、その曖昧さが溝になる。人生は、その溝の中で泳ぐ
魚のようでもある。だからこそ面白いのだ。分裂症という鮫もいるが。
・・・・・・・・・
2003年02月21日(金)
 688, ストレス
先日亡くなった同級生の偲ぶ会で、彼の死因について話しが出た。直接原因は癌で
あったが遠因がストレスだろうと意見が一致した。その場の全員が人生で一番厳しい一里
塚にさしかかっているから解るのだ。その場でAが「堀井お前ストレスなど無いだろう!」 
わたし「ゼロ!」。Bが「堀井、お前は与える方だ!」爆笑であった!ところで彼らは
「ストレスの解消法をあまり解ってない?」と思えた。ストレスの潰し方は、他の
ストレスで潰すのが一番本能的な簡単な方法だ。しかし、それは更なるストレスの
蓄積をしているに過ぎない。わたしの経験からいうと、「独りになりきるしかない!」 
それが全く解ってない、号泣せざるを得ない立場になって初めて気がつく! それでも
気がつかないだろう。ストレスだけは、気をつけないと。いつの間にか溜め込んでいる
のに気がつかない人が多い。群れるしか能がないから、ストレスの雪だるまになる。
「人間は孤独の存在!」である、また「群れていなくては生きられない存在!」でもある。
この二律背反を使い分ける事が必要である。私の場合はお経とか、ウオーキング、旅行、
読書、映画で発散する。それとイヤな事は繰りかえして考えないようにしている。
この随想日記もストレスにもなるし、反面ストレス解消にもなる。ここで一句 
「バカいうな やることだけは やっている」
・・・・・・・・
2002年02月21日(木)
 338,「世界がもし100人の村だったら」
この本が最近話題になり、インターネットで早速買ってみた。本屋で立ち読みをしたら、
買わなかったと思う。ほとんどが「TVで放映されている内容」でしかなかった。
昨日、印象に残ったものを「サロンのコーナー」に、デジタル写真で撮り、貼り付けた。
もっと色々な内容があるはずだ、そう思って買った。すぐ考えたのは、「日本がもし
100人の村だったら」が書けるのではないか、という事であった。日本人は2番煎じ
はうまいのだが。ただ「テーマ」がよい! ーいや問いかけといった方がいいか。
今まで難しいと意識しなかった問題が見えてくる。テーマの決め方で、問題を深く
捉えることが可能になる。「国家予算」も「県の予算」も「100人の村だったら」
の喩えでもして解説をしてくれたら、一般の人も関心を持つ。ある人の文章が巧くなった。
何故だろうと考えたら、いつの間にかテーマをつけていた。テーマは円でいう中心点で
ある、芯ができた為だろう。テーマ日記を書き続けて、少し自分の頭がよくなったようだが?
テーマを考えるのと、その内容の構成をするからだ。また書きながら、違う視点にも気づく
からである。100という数字が分かりやすいのと、村の住民という喩えがよかった。
山下清が何か考える時「兵隊の位でいうと,どのくらい?」と問いかけるのと似ている