つれづれに

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今日のYoutube
http://www.youtube.com/watch?v=vG7qyQlkZd4

 フンザの住人と、ニューヨーカーの住人の、どちらが
  文化度が高いというのか。
 自然に溶け込んで生きるのが人間の姿だろうに。

 日本人が歩んできたのは、このスーツ姿の追求だったのでは?
 悪いとは言わないが、何かそぐわないというか? 何かが間違っていた!?


・・・・・・
2004年02月22日(日)
1054, 職業性格形成論-3
ー「営業屋性格論」が解りやすく、面白いから取り上げてみる。
仕事柄、営業の人と接することが多い。営業にも色いろな種類があるので
一括りには出来ないが、彼等には大きな特徴を見ることができる。
「褒めること」と「世間情報の内幕情報屋」を武器にする。
遵って、その人の人柄が出てしまうのだ。
一つ間違えば信頼を失い「汚い子狐」として軽蔑の対象になる。
その為には、自分の良い部分を相手に示し、信頼させるがポイントになる。
営業といえば、外商や代理店や飲食業や店のママなど挙げればキリがない。
姉から聞いた話だが、欧州旅行のツアー仲間のリタイアをしたばかりの人の
成功話が印象に残っている。
「営業活動で、キーマンが名古屋コーチンの鶏肉が大好物という話を聞いて、
雛を買ってきて、最良の餌と水を与えて育て上げ、潰して、その肉をお歳暮として
持っていき続けた」という。ここまですれば誰でも心が動くだろう。
逆に、その位しなくてはプロとしての営業にはなれない。
昔は金持ちや偉い人には「太鼓もち」や「芸者」が、お世辞や芸のサービスを
売っていた。現代では、クラブのママやホステスやバーテンなどが代わって、
その役割をするようになった。現代芸者・太鼓持ちというところか。
営業活動で、職務としてキーマンに「どっこいしょ」と持ち上げ、
心の隙を見つけて営業をスムースにするスキルを求められる。
人好きの人でないと勤まらないだろう。必死になれば人好きになるだろうが。
営業は自社の商品を売るのが目的であり、その良さをアピールするのが仕事になる。
そのために、相手の気持を開かなくてはならない。
その際たるものは保険屋の営業であろう。第一保険の日本ナンバーワンの手記を
読んだことがある。トップセールスに相手を絞って、徹底的にお客のサイドに
立った保険のシステムを組んでやるという。そのために顧客大部分が、
顧客の知人の紹介でのネットされたものだという。
セールスの機能を保険会社の代行ではなく、顧客の代行と切り替えたのである。
昔から営業のやり手は仕事が終わった後のアフターファイブから仕事をする。
または自分の休みの土曜日を遊びを兼ねた営業をかける。
仕掛けを自分の知恵をつかってフリーの時間外につくっているケースが多い。
へドロといわれる人がいる。時間内しか仕事をできない人である。
公務員系の子息を一般の会社に入れると、本人だけでなく周囲に??を
もたらす。別に本人責任でないから問題は深くなる。
父から聞いた話だが、戦前に骨董屋をしていた時、地元の大手の社長への
トップセールスを思いついたという。
女好きという話を聞いて母に電話をさせたところ直接出てくれたという。
そして骨董商をしているが会ってくれと言ったところすんなり会ってくれた
という。もちろん父がいったそうだが。
やはり知恵をつかっての営業ということだろう。その後、その人のキッカケで
多くの大手のトップを紹介してもらったという。

何事も必死になれば道が開かれるということか。
そこから性格が磨かれるのだろう。

セールスは品性が基本になくてはならない。
品性は普段の生活の中から築くものだ。
家系もあるが?

耳が痛い?!

・・・・・・
2003年02月22日(土)
689, 人生の「かたち」
ーいやなことはやらない!

51歳になった年に、母を見送り(88歳で死亡)、下の子供が大学に入学。
事業では新潟駅前で500室の客室数の完成で、人生の丁度目安がついた年ー
人生の分岐点の年であった。その時に、
「好きな事をやり、厭なことは可能な限りやらない」という方針をたてた。
ところが同じような記事が産経新聞に出ていた。
哲学者の中島義道氏の文章で
ー私流人生の「かたち」ーの{「厭なこと」はなるべくしない}であった。
きしくも、私と同じ歳で、やはり6年前に決心したというから不思議なものだ。
ー私よりずっと徹した内容で、人生を半分降りようと決意したという。
・社会的成熟を拒否し、世間体を投げ捨て、どんなに嫌われようと、排除されようと、
 いやなことはなるべくしない
・親戚とか友人の冠婚葬祭は一切省く、大学の校務はギリギリ最低限のことしかしない。
 -5年前と2年前に亡くなった両親の法事にも一切参加しなかった。
・自分の実感から離れる社会的慣用句(「世間語」)を語る事を完全にやめる。
 -感謝してない時は「ありがとう」といわない、心のそこからそう思わない時は
 「おめでとう」と言わない。
・あまった膨大の時間、18歳の少年のように「生きるとはどういうことなのかな~。
 まもなく死んでいくとはどういうことなのかな~」とか考えている。
・楽しいかといえば、全然楽しくはない。むしろすざましく不幸である。
 しかし、自分の人生のカタチと諦めている。
先日亡くなった同級の知人が、その正反対でドップリとその世界で必死に
自分を演じていたのが対照的であった。でも彼の立場は、それが不可能の立場であった。
6年前に考えたのは、「本当に好きな事は何か?」「いやなことは何か?」であった。
・好きな事は秘境旅行、ウォーキング、事業、読書、居酒屋通い、映画、
 随想を書くことであった。それと世界を広く深く知ることだ。
・今までの付合いの見直しである。
 「世間体に生きている度合いの高い人」は可能な限り寄せ付けない。
 勿論、それすら解らない人もだ。
・プレッシャーのかかるセミナーや会合には可能な限り出ない。
それを割り切って一づつ確実に実行する。
そんなことをいったって、不可能だろうし、高慢でないか!と聞こえるかもしれない。
そのとおりかも知れないし、バカなたわごとと解っている。
でも、中島義道氏のようには徹する事は難しいが、少なからず実行している事は事実である。

このホームページを開いてから、誰かとどこかで繋がっている実感が強くなった為に、
更にこの傾向が強くなってしまった。
中島氏のように多くの読者を持っていれば、その姿そのものを共感する見えない
仲間の存在があるから可能になるのだろう。
自分の人生のカタチは自分で創っていくものだ!

・・・・・・
2002年02月22日(金)
339,笑う人 
 ベトナムに行った時に出会ったバスのドライバーという人。
旅行の最中、ほとんど笑いっぱなしであった。あるいは人を笑わせていた。
お笑いの芸人も2種類いるという。
普段の生活の中で「全く笑わない人と、笑いっぱなしの人」と。
その人に「如何してそんなにわらえるのか?」聞いた。
「母親が何時も笑っている人で、その影響だ」という。
職業が「観光バスのドライバー」というから、それに磨きがかかったのだろう。
ハワイに初めて行った時のバスのドライバーが「ポパイにそっくりな顔」をしていた。
そして初めから最後まで運転しながら、ニコニコしながら鼻声で歌っていた。
こんな陽気な笑いは、かって見たことが無かった。ハワイにピッタリであった。
あそこまでは無理としても、訓練すれば半分は可能な筈だ。
土壌と、また特に母親の影響が大きいのだろう。
子供は何らかの形で両親の分身なのだ。会社に毎年新人が何名か入ってくる。
研修を終えて恒例の歓迎会が毎年楽しみである。
若い女性が研修から解放され、「純粋な笑いの渦」にその会がなるからだ。
知人の数名もそれを知っていて、招待されるのを待っている。ちょうどこんな感じである。 
 ー(^<^)!(^^)!(^'^)(^^♪(~o~)(^・^)(^o^)丿
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お笑い
ー下ネタコーナー
[ 一発の銃弾 ]  ☆☆  
スミスは狩猟用の双眼鏡を買うため、ライフル持参で店に入りました。
「お客さん、この双眼鏡はいかがです。どんなに遠くでもはっきり見えます。
ほら、あの丘の上に僕の家があるんですが、ここからでもはっきり見えますよ」
「どれ」
双眼鏡を目に当ててのぞきこむと、スミスさんは突然ゲラゲラ笑い出しました。
「お客さん?どうしました?」
「あはははは。きみの家で、裸の男と女が走り回ってる」
「な、なんだって!」
店員はぶるぶる震える手で双眼鏡をのぞきこみ、やがて意を決したように
銃弾を2個取り出しました。
「…お客さん。そのライフルであいつらを撃ってください。
1発は妻の頭、もう1発は男のナニをふっとばしてください。お礼はします」
「そう?じゃあもう一度双眼鏡を」
スミスは双眼鏡をのぞき、やがて言いました。
「あのさ。今なら銃弾は1個だけでできそうだよ」