アルゼンチン・タンゴ ー2

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

他のブログ
http://www.enpitu.ne.jp/usr5/54909/
http://horii888888.toypark.in/cgi-bin/s_diarys.cgi
http://d.hatena.ne.jp/horii888888/archive

今日のYoutube
http://www.youtube.com/watch?v=eHNz3vEnhUM

 今日の写真は、10数年前にパタゴニアツアーに行った時の写真。
ステージに白馬に乗って踊り手が出てきたり、空中ブランコが出たりして、
その本格的ショーに驚いた! 後で、世界にも名だたるショウと、後で知った。
まだフィルムの時代だが、それでもシッカリと撮れている。



・・・・・・・
2005年02月18日(金)
1417, 新シルクロード
 数年前のツアーで、北京からウルムチに飛行機で飛び、
そこからタクマカラン砂漠を眼下にみて、ホータンに渡った。
ホータンからはバスに乗り換えて、シルクロード南道を
一路カジュカルに数百キロ走った。
右にタクマラン砂漠を見ながら何処までも続く道は、25年前に
NHKが放送をした時に見たようなシルクロードの景色が続いた。
荷車を牽いたロバと老人の姿が印象的である。
1980年に放送され、大ブームを呼んだNHKの大型紀行番組
シルクロード」が、25年ぶりによみがえった。
前作では平均視聴率20%を超え、喜多郎のテーマ曲も話題を呼び
シルクロードブームを起こした。当時は遠い遠い異国のイメージであった。
25年後の中国の民主化と、経済発展と、西域での遺跡発掘の進んでいること、
などから新シリーズが企画された。
中共同制作の「新シルクロード」(中国編全10回)として、
この1月から1年間にわたって放送を始めた。
既に二回放送されたが、見ごたえのある内容であった。
一回目は、1980年から放送され大ヒットしたNHK特集「シルクロード」に記録された
映像と同じ地点にカメラを据え、風景の25年間の変化を描いていた。
さらに映し出された人物のその後を徹底的にリサーチ
・天馬のふるさとで撮影された20歳の花嫁は?
・南疆鉄道の機関車運転手は?
カシュガル大バザールの楽器職人一家は? と、以前の続編という構成である。
そこには四半世紀を経た現代中国の変ぼうがあった。
第2部ではシリーズの音楽監督を務める世界的チェロ奏者
ヨーヨー・マに焦点を当てていた。
彼は2000年からアジアを中心にした音楽家集団
シルクロード・アンサンブル」を結成、世界各地で公演を行っている。
彼らの活動と民族楽器を多用するテーマ音楽の作曲過程を紹介、
シルクロードという言葉は現代にあっては相互理解を意味する象徴的な
言葉として使用されるべき」という、ヨーヨー・マの考えを伝えていた。
パラグライダーでの低空撮影やCG映像、映画のような再現ドラマなどを活用。
「臨場感あふれる歴史エンターテインメントを目指した」
とプロジュウサーのコメントもあった。

1月2日放送では、
タクラマカン砂漠楼蘭の一角にある4000年前の墓地の遺跡・小河墓の発掘に密着。
約70年前に探検家ヘディンが発見した後、忘れられていた。
それが2000年に再発見され、発掘が始まった遺跡だ。
撮影中に、彫りの深い顔立ちに亜麻色の髪と長いまつ毛を持つ西欧系と思われる
若い女性のミイラが出土した。まだ生きているような美貌には驚いてしまった。
ふた付きのかごを身につけ、中から小麦が出土した。
楼蘭王国以前の推定3600―3800年前のミイラで、
小麦の伝播(でんぱ)の歴史が数百年早まったことになる。
2月14日に放送した2回目は世界遺産敦煌莫高窟(ばっこうくつ)
・北窟の調査や青海湖周辺から大量出土した絹織物の研究成果も紹介していた。
トルファンのベゼクリク千仏洞では、龍谷大学の協力で、
散逸した「誓願図」の巨大壁画をCGで再現をしたプロセスが詳しく紹介していた。
このような、撮影はNHKではなくては作れない規模である。
準国家放送局も必要ということか。毎月半ばの放送が一年にわたって続くが、
また一つ楽しみが増えた。

・・・・・・
2004年02月18日(水)
1050, 客観性ってのは何?
 金沢にいた頃(25歳の頃)の話になるが、
「客観的に」という言葉を、よく使っていたところ
「客観的というが、客観的と勝手に思っているお前の主観ではないか?
俺は客観という言葉が嫌いだ」と言われて、ドキリとした思い出がある。
親しかった金沢大学を出たばかりの寡黙の哲学的な男であったから、
なお答えに窮した。それから客観的という言葉を控えるようになった。
「事実」は「客観的事実」と「自己ー主観」にわけることができる?が、
その「客観的事実」も突きつめれば、あくまでも「主観」でしかない。
主観と客観の違いは、あくまでも情報量の比較の世界でしかない。
または自分を隠す手法になるケースが多い。
(多いほど客観的といっているにすぎない)
真理を追究する科学者は、その目指すところは「客観的事実である」
それも、次の真理へのステップでしかない。
この随想日記も、「自己の主観」を第三者の目に曝けだして客観性を
鍛えていることになるが。今まで書いてきた文章を読みかえして、
支離滅裂の内容は自分自身でも妥協できないものだ。
「自己主張ー主観」が客観的?に充分耐えられことがまず重要になる。
その意味で、常に内省を繰りかえさなくてはならない。
文章化は自己客観化への一歩といってよい。
テーマの内容を起承転結のスジ道をつけることは、脳の機能を有効に使うことになる。
「万物の霊長類である人間の最大の特質は言葉を持った」ことである。
この随想日記を書くようになって、自分の考えをより客観視
出来るようになった。それも55歳過ぎてからのこの三年間である。
書き手としての視点を外と内に向けざるを得なくなったからだ。
随想日記というからには「起承転結]をハッキリさせなくてはならない。
これが思考能力を飛躍的に伸ばしてくれている。
特にインターネットの検索が使えることが最大の武器になった。
テーマさえ決まれば情報はいくらでも取れる。
今まで、社内報の原稿や手紙を書くときは、メモ用紙に下書きして、
書き足しや書き直しをした後に、清書をしていた。
ところが現在は、パソコンに思いついたことを随時書いた後に文章化と添削を
するようになった。これで書く量が飛躍的に増えた。またパソコンを開けば、
そこが書斎になってしまうことで、隙間時間に気楽に書き込めるようになった。
文章が(紙という物質を媒体をしていたものが)パソコンの画面という非物質の媒体に
なってしまった。気楽に他の文章をコピーをして貼り付けて加工さえ可能になった。
紙から開放されたのだ。これは書き手にとって革命的な大事件である。
文章化が客観性への第一歩なら、ここで飛躍的に変化したことになる。
紙に書くこととワープロでは、自転車と飛行機の差以上であろう。
だから毎日こういう随想日記も書けるのだ。
ここにきて当初の五分の一のエネルギーで済むようになった。
本を出すことを考えている訳でもないし、興味本位で書いているだけでもない。
自転車から飛行機に乗りかえて、今までとは違った視野ができたことの自由さと
一日単位の達成感が味わえるから書いているのだ。
自己慰安が最大の動機かもしれないが。

・・・・・
2003年02月18日(火)
685, 値段のカラク

ダイヤモンド価格の話である。
世界で一般にダイヤと金は物質的な価値基準になる。
動乱で最後もって逃げる物質として、コンパクトで便利な塊である。
どこの世界でも通用する。買った宝石を高価と思っていたが
質屋に持っていったら、ぜんぜん値段がつかないことはよくあることだ。
じつは、宝石の原価には、面白い原則があるという。
全体の値段が高いものほど、原価の占める割合が大きいのだ。
たとえば、100万クラスの指輪だと、原価が20~30万。
ところが、20万だと、原価は1~2万いやそれより以下だ。
宝石は買ったと同時に10分の以下になると考えてよい。
数ヶ月に一回位、5~8割引の宝石などのチラシが入ることがあるが、
あれはゴミ?である。それで満足するのもそれでよいが。
規格外の小さいゴミを飾り立てているのだから、面白い。
20万クラスの宝石が売れた場合、原価が10%だが、
・メーカーが15㌫
・卸商が25㌫
・最終の販売店が50㌫
三越伊勢丹や阪急などの百貨店は、地下の食品で釣って、1~2Fの
宝石・装飾品売り場で、無知の客を吊り上げ詐欺師商法に近い事をしている。
詐欺?を自覚しているから、詐欺るためにあらゆる仕掛けをつくってある。
50㌫のいや80㌫の利益を得る為にあらゆる手段を使うのだ。
これしつこくいうが、三越高島屋が実際やっているのだ!
老人を集めて、飯を食べさせて、詐欺同然の商法を今も実際やっているのだ。
十数年前に、ハワイの飛行場の免税店のテナント料が、売り上げの70数㌫
が報道された事があった。
売れ残りのブランド物を10~20倍の価格をつけて売っているのがばれてしまった。
JTBとか日本旅行が安いツアーで、詐欺同然の店に連れて行って騙して、
原価10%の商品を売りつけていた。無知という事は、本当にかわいそうなことだ!
今の日本のデフレも、こういう仕掛けが壊れているだけでしかない。
これはデフレというのだろうか?

・・・・・
2002年02月18日(月)
335,読書について
・大学にいってよかったのは、「都会の人は本を読んでいる」ことを知ったことだ。
ー読 書の必要性を学生生活を通して実感
・特に基礎教養としての読書の必要性,しかしノウハウ書の重要性も馬鹿にできない
・知識・情報を得る手段として、人間と本そしてラジオ・TV 、
今はパソコンのインターネットである。
 その価格や内容からみて、まだまだ書物を超えるものは無い。
 「おおよそ500円から5000円」の間でこれだけの情報が
 詰まっていて、手軽にあつかえるのは今のところ他に無い。
・時空を超えていろいろな人と邂逅できる。
 頭の中のバーチャルの世界の触発をしてくれる。
・よい本は自身の中の悪い情報を、どんどん弾き出す働きを持つ。
・特に学校を出てからの読書が大事である。
・学歴でなく、学力が最も重要である。
 その力を効率良くつけるのが読書だ。
 他人の話を聞けない人の特性が「読書の重要性」のわからない人だ。
・一般に言う「井戸端会議のおばちゃん」は、本を読まない人の別称
 と言える。いや蔑称か。
・卒業をしてから大体平均2~3時間は読んできて、この程度の学力だ。
‘子狐’の中に「もしかして全く読んでない自分の姿」をみた時、背筋の寒さを覚えた。
 世間には凄い人が多い、それも過去の人の中に無限に存在している。