つれづれに

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今日のYoutube
http://www.youtube.com/watch?v=pFujsYOEFM4

 さて、私にとっての週の基軸の金曜日である。
午後から、シネマにいく予定。  毎週、同じことの繰り返しになるが・・・ 
 
 昨日の朝の火事。今朝の新聞によると、ご主人が亡くなったとあった。
孫と老夫婦の三人暮らしで、台所からの出火で、孫と御婆さんは逃げて無事。


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1266, 仲人制度が消滅?
2004年09月20日(月)

新聞に出ていたことだが「結婚式で仲人を立てたカップルは4・6?と、前年より3?近くも減少。
20組に1組以下になった。首都圏では、僅か1?しかなく、制度としてほぼ消滅した。
終身雇用が揺らぎ、ついてゆくべき上司に頼む風潮がなくなったこと、「家」と「家」から
「個人」と「個人」の結びつきに変化したためである。
更に仲人を頼まれるのを嫌がる人も増えているのもある。
三年前には20?がまだ仲人をたてていたが、そのサラに4分の1に激減した」という。
そういえばこの数年来の結婚式で仲人をたてた結婚式はみたことがない。非常に良いことだ。
昔から仲人が二人の経歴を長々述べて、ただ祭壇に黙って座っている姿が滑稽で気の毒でさえみえた。
家という制度が確実に破壊していることもある。
これは決して良いことではない、少子化の時代の現象でもある。
反面、気楽に結婚して子供をつくるのはよいが、家庭を維持できなくなり、
先日の「幼児殺人事件」に見られる現象が度々起こってくる。
少し減ったというなら解るが、ほぼ消滅とは驚きである。

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2003年09月20日(土)
899, 《V・E・フランクル》について
十数年前にフランクルの「夜と霧」を読んで感銘した。そして数年前、春秋社の以下の
彼のシリーズをむさぼり読んだ。人生丁度まがり角であったためであろう。
その意味の深さー絶対的人生の肯定に魂を揺さぶられた思いであった。
彼の「意味」発見のための3つの問い
・「私は、この人生で,今何をすることを求められているか」
・「私のことをほんとうに必要としている人は誰か。その人は、どこにいるのか」
・「どの誰かや何かのために、私のできることには、何があるか」
この3つを常に念頭において生きることが,『なすべきこと』『満たすべき意味』を
発見するための手がかりになると、フランク心理学では考えている。
特に以下の分析には深く納得をした。
ー自己超越のための3つの意味(価値)ー
1・創造価値: 創造行為を通して得られる意味  =仕事・子育て・学問・芸術
       ー力への意志
2・体験価値: 体験を通して得られる価値・意味 =自然・芸術・愛
       ー愛への意志 
3・態度価値: 運命に対し模範的な態度を取ることで得られる価値・意味ロゴスの覚醒
=対象との一体化
        ※自身が何らかの喜びに満たされていること
       ー知への意志 
人生には発見されるべき価値や意味がある
 (1)意志への自由 (いかなる境遇でも自由意志を持つことができる)
 (2)意味への意志 (意味と目的を発見し充足するのは人間の努力である)
 (3)人生の意味  (創造・体験・態度生きる姿勢の中に意味を見出す)
  ー生きることは価値判断(学習)と選択の連続である
ー私が読んだ本は以下であるー
・「夜と霧」:ドイツ強制収容所の体験記録
 V・E・フランクル 霜山徳爾(訳)  みすず書房  1985年
・「それでも人生にイエスと言う」
 V・E・フランクル 山田邦男・松田美佳(訳)  春秋社   1993年
・「宿命を超えて、自己を超えて」
 V・E・フランクル山田邦男・松田美佳(訳)   春秋社   1997年
・「<生きる意味>を求めて 」
  V・E・フランクル  諸富祥彦(監訳) 上嶋洋一・松岡世利子(訳)   
   春秋社   1999年
・「フランクル回想録:20世紀を生きて」V・E・フランクル  山田邦男(訳)  
  春秋社   1998年
・「フランクルに学ぶ 」     斉藤啓一 日本教文社  2000年
・「どんな時も、人生に‘YES’と言う」  諸富祥彦

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[151] 世間様      
2001/09/20
「世間とは現実にドップリつかった馬鹿な4^5人のこと。」
浪人を重ねるうち悟ったことである。それは諦めと醒めた視点から感じたことだ。
現実とは世間とは「教養のない馬鹿な女と女みたいな男の現象世界」でしかないことを。
それが馬鹿な彼女・彼等にとって、現象が全てだからそうなのだろう。
 世間の目、世間様とかは自分の(自己の範囲を自分というなら)日々の泡でしかないのに。
それが解ってないから前に書いたチンドンヤや子狐が出てくる。
その言葉に呪縛されて、一生終えてしまうのが95%いやもとっと多いのでは。
世間様に笑われないようにとか、世間様に迷惑をかけないように!これも大事だろう。
城下町街はこの世間様の世界に入る。彼らの情報(噂)は下ネタか夜逃げか不幸,
それを皆で楽しんでいる。社会と世間の言葉の違いを定義つけておかないと!
こういう世界に迷い込んでしまう。
 ーーーーー
(10年近く前に書いた文章に似たような内容があったのでコピーしておきます。)
  H0407城下街小唄
 私の出身地の長岡はかつて“長岡藩”の城下街であった。
その大手通りのほとんど真中に生まれ育った事もあり、その長所・短所がよくわかる。
その特質は閉鎖性・固定的、商人的であり、“城下街曼陀羅”がきっちりできており
漫画的ですらある。彼等の社会は“ウワサ社会”で構成されている。特に長岡財界とかいう
社会が存在(?)しており、彼等の出す“ウワサ”がその社会を大きく左右する。
それが事実であろうがなかろうが“マンダラ”の中心点に近い人間が言った事こそ絶対のようだ。
彼等の社会をみていて、維持型の人間こそ“一級”と評価される。
固定社会が故に何もしない(何もできない)事こそがベストなのだ。
“非能動的二代目+婿取り娘サロン社会”と言える。先日もいやな“ウワサ”を聞いた、
今は下火になったのだが、新興の各業界の?1の社長が十人あまり?1がゆえに聞くに耐えない
“ウワサ”を流された。“一種の集団いじめ”なのだが、そのストーリーが陰湿でリアリテー。
冷静に考えればほとんどが尾鰭のついたウソである。それがおもしろおかしくて
集団ヒステリック的につくりあげられており、自らの名が出るかどうか怯えている。
“参加型変態うわさゲーム”を全員で楽しんでいる“痴呆社会”そのものといえよう。