『読書脳』立花隆著 
   * アウシュビッツの奇跡的幸運(地獄に仏)
 二ヶ月前のNHK/BSのアーカイブで、ある女性の奇跡的生還を扱っていたが、
これも似たケース。奇跡的幸運が重ならないと、この過酷の状況下で生延びる
ことなど出来ようはずがない。
≪「シモーヌ・ヴェーユは驚くべき女性だ」と書くと、日本では社会思想家の
シモーヌ・ヴェーユを思い浮かべる人が多いかもしれないが、私が言及している
のは、もう一人のシモーヌ・ヴエーユだ。フランスで最も有名な女性政治家。
一九七四年シラク内閣で保健大臣になったのを皮切りに、歴代の内閣で保健大臣
をつとめ、フランスに人工妊娠中絶法を導入したことで知られる。一九七九年
には、第一回欧州議会で直接選挙による初代議長に選出されてもいる。
だが彼女を何より有名にしているのは、ドイッがフランスを占領している最中、
ユダヤ人身分証偽造)に問われて、ゲシュタポに逮捕され、アゥシュヴィッツ
送られながら、奇跡の生還をとげたこと。彼女の腕には、いまでも囚人番号の
入れ墨がある。シモータ・ヴェーユ『シモーヌ・ヴェーユ回想録』は自ら筆を
とってその数奇な人生をふり返ったもので、フランスでは〇七年に発売されるや
たちまちベストセラーになった。政治家になってからの話も面白いが、圧巻は
第二章「罠」と第三章「地獄」。逮捕劇とアウシュビッツ時代を語ったくだり。
【 アウシュヴィッツに着くとすぐに、その場で囚人の仕分けが行われた。彼女
は十六歳だったが、見知らぬ人の耳打ちで「十八歳」と申告し危くガス室送り
をまぬがれる。子供、老人、身障者など労働に適さないと判定された者は、
その場でガス室送りのトラックに乗せられたのだ。「親や子どもがどこへ
行ってしまったのか(略)カポー(女看守)に尋ねる人がいると、彼女たちが
窓から見える死体焼却炉の煙突とそこから上がる煙を指し示していたことを
私は覚えている。(略)死体焼却炉の煙は休みなく煙をはき出していた。
堪え難い匂いが立ちこめていた】  読んでいくと、彼女が生きながらえたのが
不思議に思えるくらい地獄の生活がつづく。収容所の娼婦あがりの女監督官に
気に入られて「あんた本当にかわいいねえ、ここで死なすにはもったいないよ。
別のところへ行けるようにしてあげる」「でも母と姉が一緒だからいいです」
と断ると、「じゃお母さんとお姉さんも一緒に」と、本当に三人そろって、
アウシュヴィッツから別?収容所に移され、仕事も調理担当に代えてくれる
というウソのような話が本当に実現した。その女監督官がなぜそんな特別の
ことをしてくれたのか、理由はよくわからない。その頃かわいい女囚に同性
愛的サービスを求めて特別の便宜をはかる女看守もいたが、それ的な要求も
なかったという。それから間もな-戦争が終り、女監督官は英国の手で
逮捕され処刑されてしまったので、その理由がいまでもわからないという。
本書には若いときのヴェーユの写真もおさめられているが、確かにガス室
すぐ殺すには惜しい容貌だ。≫
▼ アウシュビッツといえば、フランクルである。12年前に、彼の本を
 集中して読んだが、人生への絶対的肯定に驚かされた。こういう極限の中で
奇跡的に生延びている人の共通点がある。それは、この状況下から生延びて、
家族か、友人たちと楽しい時間を過ごす具体的イメージを持っている人という。
【人生に何かを求めるのでなく、人生が私に何を求めているかを問うべきだ!】
が、特に印象に残っている。女監督官は、ただヴェーユが可愛いという理由
だけでなく、光る何かを見出したのだろう。そして、その後、彼女は光った
のである。肯定的イメージ化と、信念こそが、人生で最も必要ということか。
――
2003/09/19
《V・E・フランクル》について
 十数年前にフランクルの「夜と霧」を読んで感銘した。
そして数年前、春秋社の以下の彼のシリーズをむさぼり読んだ。
人生の調度まがり角であったためであろう。
その意味の深さー絶対的人生の肯定に魂を揺さぶられた思いであった。
彼の「意味」発見のための3つの問い
「私は、この人生で,今何をすることを求められているか」
「私のことをほんとうに必要としている人は誰か。その人は、どこにいるのか」
「どの誰かや何かのために、私のできることには、何があるか」
この3つを常に念頭において生きることが,『なすべきこと』
『満たすべき意味』を発見するための手がかりになると、
フランク心理学では考えている。

特に以下の分析には深く納得をした。
ー自己超越のための3つの意味(価値)ー
1・創造価値: 創造行為を通して得られる意味
          =仕事・子育て・学問・芸術
       ー力への意志
2・体験価値: 体験を通して得られる価値・意味
          =自然・芸術・愛
       ー愛への意志 
3・態度価値: 運命に対し模範的な態度を取ることで
        得られる価値・意味ロゴスの覚醒=対象との一体化
        ※自身が何らかの喜びに満たされていること
       ー知への意志 
人生には発見されるべき価値や意味がある
 (1)意志への自由 (いかなる境遇でも自由意志を持つことができる)
 (2)意味への意志 (意味と目的を発見し充足するのは人間の努力である)
 (3)人生の意味  (創造・体験・態度生きる姿勢の中に意味を見出す)
  ー生きることは価値判断(学習)と選択の連続である

ー私が読んだ本は以下であるー
・「夜と霧」:ドイツ強制収容所の体験記録
 V・E・フランクル 霜山徳爾(訳)  みすず書房  1985年
・「それでも人生にイエスと言う」 V・E・フランクル 山田邦男・松田美佳(訳)   
  春秋社   1993年

・「宿命を超えて、自己を超えて」
 V・E・フランクル山田邦男・松田美佳(訳)   
  春秋社   1997年

・「<生きる意味>を求めて 」
  V・E・フランクル  諸富祥彦(監訳)
  上嶋洋一・松岡世利子(訳)   
  春秋社   1999年

・「フランクル回想録:20世紀を生きて」
  V・E・フランクル  山田邦男(訳)  
  春秋社   1998年

・「フランクルに学ぶ 」    
  斉藤啓一 日本教文社  2000年

・「どんな時も、人生に‘YES’と言う
  諸富祥彦
  大和出版
・・・・・・
2003/09/20
《V・E・フランクル》について
十数年前にフランクルの「夜と霧」を読んで感銘した。
そして数年前、春秋社の以下の彼のシリーズをむさぼり読んだ。
人生丁度まがり角であったためであろう。
その意味の深さー絶対的人生の肯定に魂を揺さぶられた思いであった。
彼の「意味」発見のための3つの問い
「私は、この人生で,今何をすることを求められているか」
「私のことをほんとうに必要としている人は誰か。
 その人は、どこにいるのか」
「どの誰かや何かのために、私のできることには、何があるか」
この3つを常に念頭において生きることが,『なすべきこと』
『満たすべき意味』を発見するための手がかりになると、
フランク心理学では考えている。
ーー 
  『夜と霧』(みすず書房、1971年新版)
収容所での体験を描写することによって語っているのは
「人は変えようのない運命に直面したときでも、それに対して取る゛態度゛
というのは自ら選ぶことができる」という真実です。精神的自由、すなわち
環境への自我の自由な態度は、この一見絶対的な強制状態の下においても、
外的にも内的にも存しつづけたということを示す英雄的な実例は少なくない
のである。強制収容所を体験した人は誰でも、バラックの中をこちらでは
優しい言葉、あちらでは最後のパンの一斤を与えて通って行く人間の姿を
知っているのである。そしてたとえそれが少数の人数であったにせよ
――彼等は、人が強制収容所の人間から一切を取り得るかもしれないが、
しかしたった一つのもの、すなわち与えられた事態にある態度をとる人間の
最後の自由、をとることはできないということの証明力をもっているの。
「あれこれの態度をとることができる」ということは存するのであり、
収容所内の毎日毎時がこの内的な決断を行う数千の機会を与えたのであった。
その内的決断とは、人間からその最も固有なもの――内的自由――を奪い、
自由と尊厳を放棄させて外的条件の単なる玩弄物とし、「典型的な」収容所
囚人に鋳直そうとする環境の力に陥るか陥らないか、という決断なのである。」
 生きていれば、誰しも避けがたい苦悩に直面するわけですが、そういった
ときに、「どのような゛態度゛を取るのか」というコトが問題となってくる
のだと思います。変えられない運命に絶望しニヒリズムに陥ることや、責任を
転嫁して他者を恨むこと、現実逃避のために自暴自棄になることは簡単
だけれども、フランクルは、そういった態度は人間としての自由と尊厳を
放棄した態度だと言っているのだと思います。

「〜生命そのものが一つの意味をもっているなら、苦悩もまた一つの意味を
もっているに違いない。苦悩が生命に何らかの形で属しているならば、また運命
も死もそうである。苦悩と死は人間の実存を始めて一つの全体にするのである。
 一人の人間がどんなに彼の避けられ得ない運命をそれが彼に課する苦悩とを
自らに引き受けるかというやり方の中に、すなわち人間が彼の苦悩を彼の十字架
としていかに引き受けるかというやり方の中に、たとえどんな困難の状況に
あってもなお、生命の最後の一分まで、生命を有意義に形づくる豊かな可能性が
開かれているのである。」 変えようがない事実そのものをそのまま認識し、
そこから自分はどうするのか、何が出来るのか、といった自らの可能性を考える
態度。それは、苦しみを受け入れ、苦しみに耐えながら、苦しみと共に生きて
いこうとする態度。人はこのような苦悩を正面から受け取る態度を取ることに
よって初めて、その苦悩を乗り越え、自己をさらなる高みに引き上げることが
出来るのだと思います。ここで、苦悩の持つ意味・価値が創り出されるのでしょう。
 フランクルは、このように苦悩を超えることによって生み出された価値という
のは、他の価値とは次元の違うものであるとしています。彼は、それは如何なる
外的状況(例えば、傍から見れば「失敗」であったり「不幸」であったり「悲惨」
であったりするような状況)に関係なく得るコトの出来る価値だと述べる。
 このように、苦悩を自己の飛躍へと転化することというのは、きっと誰にでも
可能なことなのだろう、とわたしは思います。わたしたちの苦悩が収容所での
経験を凌駕するほどの悲惨なものでないのなら、この、人間が運命に対して挑む
ことの出来る唯一のやり方、「事実を受け入れ、そこから生きていくという姿勢
を取るコト」は、わたしたちにも可能だろうと思うのです。フランクルも本の
中で、このような態度を取ることが出来た人が過去において一人でもいたという
事実そのものが、「人間がその外的な運命よりも内的にいっそう強くありえる」
ということの証しとなると述べています。
 わたしたちはともすれば、自分を取り巻く様々な運命的な制限(生まれや能力、
容貌、環境などなど)に落胆し、成す術もなく空虚な気分になりがちですが、
しかし、これらの変えようのない事実をしかと受けとめ、その苦しみに塗れ
ながらも、どうにかして何かをしていこうという姿勢こそが、わたしたちを
内的な成長へと導いてくれるのだとフランクルは言っています。収容所の中で
さえ、そのような偉大な所業を成し遂げた人間がいるのなら、現代に生きる
わたしたちに出来ないはずがないでしょう。全ての苦しみをかかえる人が、
それぞれ立っている場所から自己と自己に与えられたモノを見つめることに
よって、それぞれの意味を見出し、苦しみを乗り越えることが出来るはず。
わたしはそう思っていたりします。「真の運命を正しく耐え、率直に苦悩する
ことは、それ自身、行いであり、まさに人間に許される最高の成就であり
業績である。」  (『神経症の理論と治療』より)

                    • -

「夜と霧」からの抜粋
ー内面化と内的豊かさー
 人間が強制収容所において、外的のみならず、その内的生活においても、
陥って行くあらゆる原始性にも拘わらず、たとえ稀ではあれ著しい
”内面化への傾向”があったということが述べられなければならない。
元来精神的に高い生活をしていた感じ易い人間は、ある場合には、その比較的
繊細な感情素質にも拘わらず、収容所生活のかくも困難な、外的状況を苦痛では
あるにせよ彼等の精神生活にとってそれほど破壊的には体験しなかった。
なぜならば彼等にとっては、恐ろしい周囲の世界から精神の自由と内的な
豊かさへと逃れる道が開かれていたからである。”かくして、そしてかくして
のみ繊細な性質の人間がしばしば頑丈な身体の人間よりも、収容所生活を
よりよく耐え得たというパラドックスが理解され得るのである。”
 若干の囚人において現れる内面化の傾向は、またの機会さえあれば、芸術や
自然に関する極めて強烈な体験にもなっていった。そしてその体験の強さは、
われわれの環境とそのすさまじい様子とを忘れさせ得ることもできたのである。
 〜中略〜 あるいは一度などは、われわれが労働で死んだように疲れ、
スープ匙を手に持ったままバラックの土間にすでに横たわっていた時、一人の
仲間が飛び込んできて、極度の疲労や寒さにも拘わらず日没の光景を見逃せ
まいと、急いで外の点呼場まで来るようにと求めるのであった。
 そしてわれわれはそれから外で、西方の暗く燃えあがる雲を眺め、
また幻想的な形と青銅色から真紅色までのこの世ならぬ色彩とをもった様々な
変化をする雲を見た。そしてその下にそれと対照的に収容所の荒涼とした灰色の
掘立小屋と泥だらけの点呼場があり、その水溜りはまあだ燃える空が映っていた。
感動の沈黙が数分続いた後に、誰かが他の人に
 「世界ってどうしてこう綺麗なんだろう」と尋ねる声が聞こえた。
ー運命としての苦悩を受け入れるー
 かかる人々は、著しく困難な外的状況こそ人間に内面的に自らを超えて
成長する機会を与えるものだということを忘れているのである。
収容所の外的な困難さを内的な試練の試みに変える変わりに、彼等は現在の
存在を真面目に受けとらず、それをある重要でないものに貶め、過去の生活に
思いを寄せることによって現在の前では目を閉じるのが最も良いと考える。
ところで具体的な運命が人間にある苦悩を課する限り、人間はこの苦悩のなか
にも一つの課題、しかもやはり一回的な運命を見なければならないのである。
人間は苦悩に対して、彼がこの苦悩に満ちた運命と共にこの世界でただ一人
一回だけで立っているという意識にまで達せねばならないのである。
何人も彼から苦悩を取り去ることはできないのである。
”何人も彼の変わりに苦悩を苦しみぬくことはできないのである。
”まさにその運命に当たった彼自身がこの苦悩を担うということの中に
 独自な業績に対するただ一度の可能性が存在するのである。

 ー【フランクルに学ぶ(日本教文社,斉藤啓一】ー
・『 人間など,いくら優秀でも大したことはできない.
   真に偉大な業績は,宇宙の力を借りて行う.』
・『 人間は近くに,神は遠くに幸福を見る.
   神の視点は,人間よりも常に遠いところに置かれている.』
・『 虚栄と誇りは違う.虚栄を満たすには他者を必要とするが,
   誇りは他者を必要としない.』
・『 人生に何かを期待するのは間違っている.
   人生が,あなたに 期待しているのだ.』
・『 信じてもダメかもしれないが,
   信じなければ,実現するものもしなくなる』
・『 絶望とは,もうすぐ新しい自分と新しい希望が
   生まれてくるという前兆である.』
・『 運命は何のために訪れるのか?本当の自分に目覚めるために.』
・『 名優は,いかにさえない役を演じても輝き,
   大根役者は,いかに輝かしい役を 演じてもさえない.
   輝きこそが人生の幸福を決める.』
・『 人生の幸福は,どれだけ快楽を得たかではなく,
   どれだけ感動を得たかによって決まる.』
・『 愛の喜びは,捕まえようとすると逃げていく.
   愛を表現するときにのみ,それはやってくる.』
・『 自分を忘れ,仕事や人間に愛を傾ける人.そんな人にはすべてが
  ひとりでにやってくる.成功も楽しみもである.』
・『 あなたがいるだけで世界は意味をもつし,生きている意味があると
  思わせる人生こそ最高だ.』
・『 いくらすばらしい技術があっても人は癒せない.人間的な
  触れ合いと愛の交流がなければ.』
−−
【それでも人生にイエスという  (春秋社,V・E・フランクル)】
『 私たちが「生きる意味があるか」と問うのは,はじめから誤っているのです。
 つまり,私たちは生きる意味を問うてはならないのです。
 人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。
 私たちは問われている存在なのです。私たちは,人生がたえずそのとき
 そのときに出す問い,「人生の問い」に答えなければならない,
 答えを出さなければならない存在なのです.
 生きること自体,問われていることにほかなりません.』
『 生きるということは,ある意味義務であり,たったひとつの重大な
 責務なのです.たしかに人生にはまたよろこびもありますが,そのよろこび
 を得ようと努めることはできません..よろこびはおのずと湧くものなのです.
 しあわせは,けっして目標ではないし,目標であってもならないし,
 さらに目標であることもできません.それは結果にすぎないのです.』
『 私たちは,いつかは死ぬ存在です.私たちの人生は有限です.
 私たちの時間は限られています.私たちの可能性は制約されています.
 こういう事実のおかげで,そしてこういう事実だけのおかげで,そもそも,
 なにかをやってみようと思ったり,なにかの可能性を生かしたり実現したり,
 成就したり,時間を生かしたり充実させたりする意味があると思われるのです.
 死とは,そういったことをするように強いるものなのです.ですから,
 私たちの存在がまさに責任存在であるという裏には死があるのです.』
『人生に重みを与えているのは,ひとりひとりの人生が一回きりだという
 ことだけではありません.一日一日,一時間一時間,一瞬一瞬が一回きりだと
 いうことも,人生におそろしくもすばらしい責任の重みを負わせているのです.
 その一回きりの要求が実現されなかった,いずれにしても実現されなかった
 時間は,失われたのです.「永遠に」失われたのです.しかし逆に,
 その瞬間の機会を生かして実現されたことは,またとない仕方で
 拾われて現実になったのです.』
『 肉体がなくなってもなくならず,私たちが死んでもなくならないもの,
 私たちの死後もこの世にのこるのは,人生のなかで実現されたことです.
 それは私たちが死んでからもあとあとまで影響を及ぼすのです.』
・・・・・・
4816,尊厳死は必要か ー2
2014年05月22日(木)
      <映画監督・周防正行>ー朝日新聞オピニオン〜耕論ーより
  ◆ 深く悩み納得するのが先 ―②   
 尊厳死を一律認めてない法律は改正し、ファジーの部分を持たせるのは当然
である。私たちの老後に待っているのは、男性ー介護9年、寝たきり6年の厳然
たる近い将来。寝たきりの老後の心配のため、老後資金の準備も、オカシな話。
尊厳死したくても出来ない当人は、弱者の最たる者。それを解放してやるのが
残された者の役割である。ー抜粋の続きー
《 法って、社会秩序を維持するためのものですが、私たちはいちいち、法律を
 考えて行動はしません。「人としてどうあるべきか」という倫理によって動く。
 一方で法律ができると、要件がそろったから、と深く考えずにスパッと物事が
決まってしまう恐れがある。治療をやめる結論が簡単に得られ、議論の質も量も
薄まってしまう。極めて個人的な「死」についての考えが、法律に引っ張られる
怖さもあります。だから医療に司法は介入しないほうがいいと思うようになり
ました。法律ができたら争いはなくなるんですかね?これとこれを満たしている
から、絶対罪に問われませんと進めても、患者の家族から「おかしかったのでは」
と問われることは、出てくると思います。逆に、この患者にとって何がベスト
なのかを話し合うことができれば、法律に頼らないですむ。
 尊厳死法案に障害者の団体が反対していると聞きます。「受けたい治療が
受けられず、切り捨てられるんじゃないか」といった不安の声に耳を傾け、
その思いを反映させないといけない。そういう声をきちんと聞けない社会は、
良い社会とは言えないでしょう。 一方で多くの人は、死の迎え方について、
深くは話し合っていないですよね。僕も「無理な治療はやらないでいい」と妻
には言ったつもりでいたんです。ある会見で「彼女はわかっていると思います」
と言うと 彼女は「えっ。聞いてない」と言い、周囲は大爆笑。 
「そっか。やっぱり文書にしないとだめなんだな」と思いましたね。でも今も、
文書は書けていません。彼女がそうなったらどうするか。追い詰められないと
わからないですが、お医者さんとやりとりをして、彼女にふさわしい治療や
死の迎え方を一生懸命考えて決断する。そうするしかないですよね。
(聞き手・辻外記子)》
▼ 尊厳死については、色いろな著書の中で、取上げているが、病院にとって、
 一番の利益の元になるため、変えられない事情もある。考えてみれば、当り前
のことが、利益のために歪められている、それも人間の死に対して、この有様
とは、酷いもの。深く悩み納得するのが先というが、何がベストかを早そうして
やるのがベストになる。 全く、恐ろしい限りである。 
偶然だったが、その前段階の以下の「老いと鬱屈」も、である。
・・・・・・
4449, 老いと鬱屈
2013年05月22日(水)                 
  * 不快や苦悩は体内に蓄積される  「老いへの不安」春日武彦
 一線を退き第二の人生に入り、腰を据えて周囲をみると老人の鬱屈した姿が
目につく。どうも老人の真の姿は鬱屈にあるような気さえしてくる。そして、
合せ鏡で自分の鬱屈も垣間見ることになる。不快や苦しい事象は体内に蓄積
した結果、鬱屈してしまうようだ。締りが無くなるのは肉体だけでなく、
精神にも出てくる。それが社会的な縛りも無くなるため、長年蓄積された砒素
などの毒素が心の奥に蓄積されて、愚痴の塊の老醜が身体全体から出てくる。
  ーその辺りを精神医の著者が、明快に説いている
≪ 老いることは、人生経験を積むことによって「ちょっとやそっとでは
 動じない」人間になっていくこととは違う。難儀なこと、つまり欝陶し
かったり、面倒だったり、厄介だったり、気を滅入らせたり、鼻白む気分に
させたりするようなことへの免疫を獲得していく過程ではないのか。
難儀なことを解決するのか、避けるのか、無視するのか、笑い飛ばすのか、
それは人によって違うだろうが、とにかく次第にうろたえなくなり頼もしく
なっていくことこそが、老いの喜ばしい側面ではないかとわたしは思っていた
のだった。だが、世の中にはまことに嫌な法則がある。嬉しいことや楽しい
ことに我々の感覚はすぐに麻痺してしまうのに、不快なことや苦しいことには
ちっとも馴れが生じない、という法則である。不快なことや苦しい事象は、
砒素や重金属のように体内へ蓄積し害を及ぼすことはあっても耐性はできない
ものらしい。 だから老人は諺屈していく。歳を取るほど裏口や楽屋が見えて
しまい、なおさら難儀なものを背負い込んでいく。世間はどんどんグロテスク
になっていき、鈍感な者のみが我が世を謳歌できるシステムとなりつつある・・
いずれ私たちもこの世界を置き去りにしてどこかに消え去っていく。ならば
世界と一緒に置き去りにしていくグロテスクの連中を「肯定的で寛大な心」
を無条件に示してやるのもひとつの見識かもしれない。・・・ ≫
▼ 老いへの不安に身体能力の衰えや、寝たきりや痴呆で他人の世話を
 受けなければならない状況、要は弱者に追い込まれる不安がある。
さらに言えば、今までは別ものと思っていた老人へ変わっていく自分への恐怖。
それを受け入れまいという屈折した気持ちが、何処かにある。そこに不快感と
苦悩が蓄積されていく。それが老いるということ。老いを楽しむなどほど遠い。
だから、孤独な老人になっていく。だから早いうちに、その孤独の別室を
準備しなければならないのである。
・・・・・・
4075, 哲学で自分をつくる ー3 (ソクラテス
2012年05月22日(火)
      「哲学で自分をつくるー 19人の哲学者の方法 」瀧本往人(著)  
  * 知ったかぶりするな! ばか
 第一章  しったかぶりはもうたくさん 〜ソクラテス 
        ――「無知の知と魂の鍛錬」――    
≪ 自分のことは自分が一番よく知っているというが、本当にそうだろうかと
 2500年前に問うた人間がいた。ソクラテスである。彼は一切、書物を書き
残さなかった。ただひたすら人々に問いかけ、納得のいく議論を仕掛けた。 
自分自身を知るためである。その自分自身を知ることは「無知の知」から始まる。
何も分かってない自分を知ることである。ソクラテスは「無知の知」「魂の鍛錬」
がキーワードになる。彼は、哲学の生みの親である。確固たる哲学の約束事の
ない中から哲学を作り出していった。彼の問いかけは、多くの人々の心、魂を強く
揺さぶった。しかし当時、弟子を除けば、偏屈者としか理解してもらえなかった。
 お前は無知だと他人から言われれば、不愉快に思われて当然。しかし、ことの
発端が、当時のギリシャ人が奉っていた神が、「ソクラテスアテネで一番の
知恵者である」というお告げを出したことである。そこで彼は、「こんな馬鹿が
なぜ一番の知恵者か、間違いではないか」と考える。そこで、世間で知恵者と
いわれている人たちに多く会ってみる。彼らは、確かに知識、技巧、才能はある。
それは凄いが、それが何であるかの理屈がない。その根拠や意味が説明できない
と、ソクラテスは考えた。説明できないなら、「知恵」がないに等しい。
ソクラテスは、彼らほど何かを持っていないのに、一番の知恵者といわれるのは、
自分が何も知らないということを知っているだけ。彼らから知恵を学ぼうと
したが、彼らは何も知らないといえない。ソクラテスは彼らより風通しのよい
ところにいて、なぜと問うことができる。どうも、その辺が違うのではないか
と考える。それまで似たような理屈をこねる人々はソフィストと呼ばれていたが、
彼らが追求していたのは「弁論術」と呼ばれていた。自分の意見で相手を説得
することを目的にしていた。どうも、それとは違う。「たえずそれが何で
あるかを問い続けることが大事なのである。これが「知を愛する」、つまり
「哲学」と考えた。それを公衆の面前で行ったため、結果として相手を
やりこめることになった。それゆえに、相手から憎しみを増す結果となった。≫
▼ 相手の無知、いい加減さをつけば、相手は不愉快になる。その相手の怒りの
 感情や圧力に耐えて、その先にある真実を追求しようというする態度、これが
哲学である。この歳になっても、毎日のように自分の無知に出会うことは、他人
だけでない、自分が一番、辛い。しかし、せっかく地球に人間として生まれきた
からには、少しでも真実を追究するのは当然のことである。感動し、感激する
こと、真実を知ること、自分とは何かを求めることは、死ぬまで求めなくては
ならない。以下は偶然関連していた。