つれづれに

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大相撲が、白鵬の二敗目の敗戦で面白くなってきた。
としても、最後は白鵬の優勝で終わるのだろうが・・

リタイアから丸4年になる。第二に人生の日常も、慣れると、
気持ちが安定していて、よいもの! 喪失感がゼロなのは、
想定内だが、逆に、いやに充実感が残っているのに、驚かされる。

数年前の随想日記に、随想日記に、リタイア後で一番充実感が残るのが、
創業者で、二番目が途中で転職をした人、三番目が早期退職者、
そして最後は無事、勤め上げた円満退職者の順、というのを取上げていた。 
 


・・・・・・
4816,尊厳死は必要か ー2
2014年05月22日(木)
◆ 深く悩み納得するのが先 ―②  
 <映画監督・周防正行> ー朝日新聞 オピニオン~耕論ーより
 尊厳死を一律認めてない法律は改正し、ファジーの部分を持たせるのは当然。
私たちの老後に待っているのは、男性ー介護9年、寝たきり6年の厳然たる
近い将来。寝たきりの老後の心配のため、老後資金の準備も、オカシな話。
尊厳死したくても出来ない当人は、弱者の最たる者。それを解放してやる
のが残された者の役割である。ー抜粋の続きー
《 法って、社会秩序を維持するためのものですが、私たちはいちいち、法律を
考えて行動はしません。「人としてどうあるべきか」という倫理によって動きます。
 一方で法律ができると、要件がそろったから、と深く考えずにスパッと物事が
決まってしまう恐れがある。治療をやめる結論が簡単に得られ、議論の質も量も
薄まってしまう。極めて個人的な「死」についての考えが、法律に引っ張られる
怖さもあります。だから医療に司法は介入しないほうがいいと思うようになりました。
 法律ができたら争いはなくなるんですかね? これとこれを満たしているから、
絶対罪に問われませんと進めても、患者の家族から「おかしかったのではと
問われることは、出てくると思います。逆に、この患者にとって何が
ベストなのかを話し合うことができれば、法律に頼らないですむ。
 尊厳死法案に障害者の団体が反対していると聞きます。
「受けたい治療が受けられず、切り捨てられるんじゃないか」といった
不安の声に耳を傾け、その思いを反映させないといけない。そういう声を
きちんと聞けない社会は、良い社会とは言えないでしょう。一方で多くの人は、
死の迎え方について、深くは話し合っていないですよね。
僕も「無理な治療はやらないでいい」と妻には言ったつもりでいたんです。
ある会見で「彼女はわかっていると思います」と言うと 彼女は「えっ。
聞いてない」と言い、周囲は大爆笑。「そっか。やっぱり文書にしないと
だめなんだな」と思いましたね。でも今も、文書は書けていません。
 彼女がそうなったらどうするか。追い詰められないとわからないですが、
お医者さんとやりとりをして、彼女にふさわしい治療や死の迎え方を
一生懸命考えて決断する。そうするしかないですよね。(聞き手・辻外記子)》
▼ 尊厳死については、色いろな著書の中で、取上げているが、病院にとって、
一番の利益の元になるため、変えられない事情もある。考えてみれば、当り前
のことが、利益のために歪められている、それも人間の死に対して、
この有様とは、酷いもの。深く悩み納得するのが先というが、何が
ベストかを早そうしてやるのがベストになる。全く、恐ろしい限りである。 
偶然だったが、その前段階の以下の「老いと鬱屈」も、である。
・・・・・・
4449, 老いと鬱屈
2013年05月22日(水)                 
 * 不快や苦悩は体内に蓄積される   「老いへの不安」春日武彦
 一線を退き第二の人生に入り、腰を据えて周囲をみると老人の鬱屈した
姿が目につく。どうも老人の真の姿は鬱屈にあるような気さえしてくる。
そして、合せ鏡で自分の鬱屈も垣間見ることになる。不快や苦しい事象は
体内に蓄積した結果、鬱屈してしまうようだ。締りが無くなるのは肉体
だけでなく、精神にも出てくる。それが社会的な縛りも無くなるため、
長年蓄積された砒素などの毒素が心の奥に蓄積されて、愚痴の塊の老醜が
身体全体から出てくる。ーその辺りを精神医の著者が、明快に説いている
≪ 老いることは、人生経験を積むことによって「ちょっとやそっとでは
動じない」人間になっていくこととは違う。難儀なこと、つまり欝陶し
かったり、面倒だったり、厄介だったり、気を滅入らせたり、鼻白む
気分にさせたりするようなことへの免疫を獲得していく過程ではないのか。
難儀なことを解決するのか、避けるのか、無視するのか、笑い飛ばすのか、
それは人によって違うだろうが、とにかく次第にうろたえなくなり
頼もしくなっていくことこそが、老いの喜ばしい側面ではないかと
わたしは思っていたのだった。だが、世の中にはまことに嫌な法則がある。
嬉しいことや楽しいことに我々の感覚はすぐに麻痺してしまうのに、
不快なことや苦しいことにはちっとも馴れが生じない、という法則である。
不快なことや苦しい事象は、砒素や重金属のように体内へ蓄積し害を
及ぼすことはあっても耐性はできないものらしい。だから老人は
諺屈していく。歳を取るほど裏口や楽屋が見えてしまい、なおさら
難儀なものを背負い込んでいく。世間はどんどんグロテスクになっていき、
鈍感な者のみが我が世を謳歌できるシステムとなりつつある。・・・
 いずれ私たちもこの世界を置き去りにしてどこかに消え去っていく。
ならば世界と一緒に置き去りにしていくグロテスクの連中を
「肯定的で寛大な心」を無条件に示してやるのもひとつの見識かもしれない。・・・ ≫
▼ 老いへの不安に身体能力の衰えや、寝たきりや痴呆で他人の世話を
受けなければならない状況、要は弱者に追い込まれる不安がある。
さらに言えば、今までは別ものと思っていた老人へ変わっていく自分の恐怖。
それを受け入れまいという屈折した気持ちが、何処かにある。そこに不快感
と苦悩が蓄積されていく。それが老いるということ。老いを楽しむなどほど遠い。
だから、孤独な老人になっていく。だから早いうちに、その孤独の別室を
準備しなければならないのである。
・・・・・・
4075, 哲学で自分をつくる ー3 (ソクラテス
2012年05月22日(火)
    「哲学で自分をつくるー 19人の哲学者の方法 」 瀧本 往人 (著)  
  * 知ったかぶりするな! ばか
 第一章  しったかぶりはもうたくさん ~ソクラテス 
        ――「無知の知と魂の鍛錬」――    
≪ 自分のことは自分が一番よく知っているというが、本当にそうだろうかと
2500年前に問うた人間がいた。ソクラテスである。彼は一切、書物を
書き残さなかった。ただひたすら人々に問いかけ、納得のいく議論を仕掛けた。 
自分自身を知るためである。その自分自身を知ることは「無知の知」から始まる。
何も分かってない自分を知ることである。ソクラテスは「無知の知」「魂の鍛錬」
がキーワードになる。彼は、哲学の生みの親である。確固たる哲学の約束事のない
中から哲学を作り出していった。 彼の問いかけは、多くの人々の心、魂を強く
揺さぶった。しかし、当時、弟子を除けば、偏屈者としか理解してもらえなかった。
 お前は無知だと他人から言われれば、不愉快に思われて当然。しかし、
ことの発端が、当時のギリシャ人が奉っていた神が、「ソクラテスアテネ
一番の知恵者である」というお告げを出したことである。そこで彼は、
「こんな馬鹿がなぜ一番の知恵者か、間違いではないか」と考える。
そこで、世間で知恵者といわれている人たちに多く会ってみる。彼らは、
確かに知識、技巧、才能はある。それは凄いが、それが何であるかの理屈がない。
その根拠や意味が説明できないと、ソクラテスは考えた。説明できないなら、
「知恵」がないに等しい。ソクラテスは、彼らほど何かを持っていないのに、
一番の知恵者といわれるのは、自分が何も知らないということを知っているだけ。
彼らから知恵を学ぼうとしたが、彼らは何も知らないといえない。ソクラテス
彼らより風通しのよいところにいて、なぜと問うことができる。どうも、
その辺が違うのではないかと考える。それまで似たような理屈をこねる人々は
ソフィストと呼ばれていたが、彼らが追求していたのは「弁論術」と呼ばれて
いた。自分の意見で相手を説得することを目的にしていた。どうも、それとは違う。
「たえずそれが何であるかを問い続けることが大事なのである。
これが「知を愛する」、つまり「哲学」と考えた。それを公衆の面前で行った
ため、結果として相手をやりこめることになった。それゆえに、相手から
憎しみを増す結果となった。 ≫
▼ 相手の無知、いい加減さをつけば、相手は不愉快になる。その相手の
怒りの感情や圧力に耐えて、その先にある真実を追求しようというする態度、
これが哲学である。この歳になっても、毎日のように自分の無知に出会うことは、
他人だけでない、自分が一番、辛い。しかし、せっかく地球に人間として生まれ
きたからには、少しでも真実を追究するのは当然のことである。
感動し、感激すること、真実を知ること、自分とは何かを求めることは、
死ぬまで求めなくてはならない。以下は偶然関連していた。
  ・・・・・・・
3709, 自己を見つめる -25 
2011年05月22日(日)
             「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 最後の「解説 渡邊哲学の真髄 ー榊原哲也」が、全体の要約で
締めくくっていて分かりやすい。 ーまずは、その部分から
【 著者の渡邊氏の長年の研究成果は、
・「世界を見ることは自己を見ることであり、自己を見ることは世界を
見ることである」という哲学上の根本洞察と、
・「意味と無意味が力動的に交錯する世界のなかで他なるものの媒介を
経ながら自己を実現していくのが人間である」という世界観・人間観
に結実したが、こうした渡邊哲学の核心が、本書ではたとえば、
「内面性」という「孤独」こそ「そこで私たちが本当の自分を取り戻し、
自己自身と世界と人間のすべてを見直し、存在の真相に触れ直す瞬間だ」
(「孤独」)とか、
・「どこからも、どこへも見通せない、その投げ出された底なしの」
「自分の存在の根底」をみつめつつ、「まことに定めなく、当てに
ならず、油断のならない魔物である」「世間」のなかで「徐々に 自らの
理想を目指して努力する漸進主義的な考え方以外に、人間の 生きる道
はない」(「世間」の章)といった平易かつ説得力ある表現で語られている。
・本書でたびたび言及される「これが、生きるということだったのか。
よし、それならば、もう一度」という二ーチェの言葉は、世界観・
人生観上の根本問題に対する渡邊哲学の真髄を一言で表したものと
いっても過言ではない。本書は、一般の読者が人生の諸問題を
自分にひきつけて哲学的に考え、「自己を見つめる」ことを可能に
する好著であり、また渡邊哲学への格好の入門書でもある。
放送大学叢書の一冊に加えられることになった本書が、さらに多くの
読者を得することを願ってやまない。 
 (さかきばら・てつや/東京大学大学院准教授) 】
▼ 人生の節目時に、偶然この本をみつけ、連日、読み解説をしてきた。
一章ごとに、考えさせられる内容で満ちていた。特に、「孤独」「愛」
そして「老い」については、{老いへの節目時}ということもあり、一言
一言が自分の現在に向けられているようである。 ー特に以下の部分は
現在の心境にあって、ドッキとする内容である。
【老いは、心身の変化や不調、障害や不全、病気や悩、生計の面での
困難や窮迫、人間関係における亀裂や別離、忘恩や裏切り、さらには
長年の人生遍歴における事故や災害、対立や紛争などの側面の出現と
いった、ありとあらゆる不幸な事態の顕在化という姿を取って、
人生の暗い側面を表す顛末の様相を帯びながら迫ってくる傾向が強い。
もちろん、明るく幸せな老年というものも存在するであろう。
けれども、老いは、もともと死の予感とも結びついて、悲惨な様相の
影を本質的に内在させている。
*老いは総じて、誰もがそこから眼を背けたがる暗黒の象徴を含んだ
現象であることは否定することができない。】老いてこそ気づくか?
 ・・・・・・・
3344, 高校生でもわかる日本経済のすごさ  ー1
 2010年05月22日(土)
 「高校生でもわかる 日本経済のすごさ」三橋 貴明 (著)
   ーアマゾンの内容紹介よりー
 消費税は上げなくても大丈夫! 年金は破綻しない!政府の借金は
心配するな!  国民的大疑問を丁寧にわかりやすく解決。 日本経済の
常識を根底から覆す。 世界の経済大国「日本」の底力を、グラフや
データをもとに世に知らしめる珠玉の一冊!
 ≪年金、消費税、格差、国の借金。4つのテーマから見る、
日本の将来が安泰なこれだけの理由。≫
  ーまず、その概要をまとめてみたー
 以前からメディアは日本の借金が数百兆円だ、破綻すると騒いでおり、
現在、日本の借金は1000兆円を超えようとしている。しかし一向に国家が
破綻する気配を感じない。「いつ破綻するの?」「いくらになると破綻する?」
のだろうか。 父親(国家)が、子供たち(国民、企業、他)の預金を
借用書(国債)で目一杯借りて、何とか急場を凌いでいるが、それが数年で
差し引きゼロの限度に達しようとしている。とはいえ国の預金は、まだ
二百数十兆円もあるから大丈夫!とか。そして発行する国債の限度が尽きた
時、自前で札を刷って、それを国債で賄えば良いだけと著者は主張する。 
しかし、これは禁じ手と前から言われていること。この辺から著者の論に
疑問が出てくるが・・。 国の金融資産も、アメリカ国債を強引に買わされ、
その額が500兆というし、楽観視は出来ないはず。 ただし消費税がまだ
5パーセントと、20~25パーセントまで余裕?がある。
(ここには書いてないが)それを資産価値に換算すると500兆円。
 しかも国民の銀行預金や企業の預金などで国債借入れを賄っているので
円安になった時のリスクはない。(もし外貨建てなら90円が150円に
なれば、借金が900兆円から1500兆円に増えることになる。)
知人から「国債は永久債にして、返済は一切しない!で、金利だけ払う
方法がある」と聞いたことがあるが、金利をしっかり払えば、子供たちも
何とか我慢してくれるか? そのため諸外国は日本の国債の異常な
数字には、あまり危険視をしていないというが・・。 
ところで、リーマンショックで欧米がニッチモサッチモいかなくなって
しまった。アメリカは軍事力を背景に新ドルの「アメロ」の切り替えで、
デフォルトをしてくる可能性があるが、ユーロ通貨の矛盾も見ている
ので躊躇するだろう。「日本経済がすごい!」稼動かは疑問だが、
1400兆の預金は中途半端な金額ではない。それと、消費税の
10~15パーの余裕もあるか? さらに永久国債化と、日本銀行
国債買い入れ、デノミ、道路公団の株式化による売却に、地方分権
と称した切捨てに、・・ギリシャのように、気楽に生きましょうか~       
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2969、住まうこととさすらうこと -1
2009年05月22日(金)
 「住まうこととさすらうこと」ウーテ・グッツォーニ著 ー読書日記
* 世界という家の中で、住まうこと と さすらうこと
  図書館で何気なく手にとって、そのまま二時間以上も近くの机で
読み込んでしまった。その本の冒頭に芭蕉の『奥の細道』「月日は百代の
過客にして、行きかふ年も又旅人也。 舟の上に生涯を浮べ、馬の口
とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に
死せるあり。」が書かれていた。住まうこととさすらうこと、さすらうこと
と住まうこと。 人生を振り返ると、この二つの間を行ったりきたりした。
そこで学生時代の寮生活を思い出してみると、住まうこととさすらうこと
の重なっていることが解る。そして、その後にジャスコに勤務をし、
三重、神戸に行き。 東京に舞い戻り、金沢に、住まいさまよい、長岡
に舞い戻り、千葉に、そして、再び長岡・新潟に住まいさすらってきた。 
人はそれぞれが、住まいさまよってきたから、その一言一言が鋭く
心奥に響いてくるのである。
(以下は字数の関係でカット2012年5月22日)
・・・・・・・・
2605, 自己愛について
 2008年05月22日(木)
先回書いた「最近みる夢」で、自分の夢を分析して驚いたのは、
自分の心の奥の本質を、そのまま提示されたことである。
夢に出てくる「海」が「自己愛」の象徴で、海底の牢獄でもがいている
己の姿に、我ながら驚いた。ユングの地下の象徴の夢に近い。その夢の中には、
自己逃避、不安、自己愛、それに囚われもがいている自分、そして、死など
など、多彩な内容が重なっている。これは、私個人というより、人間の本質を
提示していると言える。(いや、勝手に、そう解釈したとも言えなくないか?)
そこで、行き着いた「自己愛」とは何か?を調べてみた。
▼ 真の自己愛とは、奥深い自分に忠実であるということ。 
自分が深く納得している自己愛でなければ、ナルシストの姿かたちの表面的な
ものに過ぎない。キリスト教の教えのように、真の自分を愛するように隣人を
愛しなさいという自己愛である。
 自己愛という言葉は、「私さえよければ」という利己主義とはまったく違う。 
あるいはまた、自己愛は自分の魅力を感じて自分自身が好きであると
思われることもあるが、本当はそれとも違う。その区別を見わけるために
本当の自己愛の条件をあげてみる。自己愛とは、自分が認められたり、
周りから褒められたりすると、喜ぶ。これが自己愛です。生きていく
うえで、他者の存在は絶対に必要で、そのため自己愛と同じように他者愛
を持つことも必要となる。 常に自分が一人ではない、と認識したうえで、
 自己愛を持つことが、健康な自己愛といえる。その極端な「自己愛性
人格障害者」の特徴として、次のようなものがあげられる。
・自分は偉くて重要人物だと思っている。この幻想に限度がない 
・自分は特別であり、優れている人にしか理解されないと信じている。
・過剰な賞賛を求め、特権意識が異常に強い。         
・相手を自分の目的にしか利用せず、相手に共感することがない。
・自分の身体の不快にとても敏感でオーバーに反応する。
  ~~ 以上だが、
 ごくごく至近に、その傾向の強い人がいる。女性の本質だから
仕方が無いだろうが。いや、誰の心の奥にも酷似した傾向が隠れている。
   (以下は字数の関係でカット2011年5月22日)
・・・・・・・・・
2007年05月22日(火)
 2240, ヤバいぜっ!デジタル日本    ・д・)ノ〔● ォ'`ョゥ○〕 
                高城剛著  集英社  ー読書日記
ー表紙裏に書いてある内容ーから
ヤバいとはvery badとvary coolのWミーニング。世界各地を飛び回る著者が、
情報最先端の事象を紹介しつつ日本人の知らない日本と日本人を論じる。
世界から取り残されてしまったIT戦略をこのままにしていいのか?
国家ブランド戦略をきちんと立てなくていいのか? 日本が世界に広めた
ハイブリッド車のように、異なる要素を組み合わせて新しいスタイルを
創ろう、それこそが日本人の得意分野で、世界から「クールでヤバい」
と評価されるはずじゃないか? 日本への憂慮と愛が溢れる、元気の出る本。
今後10年間のデジタル社会の変化を予言する書でもある。
著者は、これからの近未来はPCではなく「携帯電話」を情報の受・発信装置
として駆使するライフスタイルが主流となり、そのTrendは日本が主導する」
と予言。「携帯で電話しながらメールを書いてるのは日本人くらい凄いらしい」
Googleは基本的にただの情報整理屋」と断定している。デジタル社会に
乗り遅れないために日本が行うべき事として使い方(ライフスタイル)
志向で携帯電話の機能・Design・Softを開発し、デジタル社会の
プラットホームにするような国家戦略を練っていくべきと論じている。
グーグルに対しての見方には異論があるが、それでも携帯電話が
主流になるとは、成る程と思うが・・ ーまずは面白そうな部分を
 P-21 ー TVを処分することを勧める!ー
(字数の関係でカット2013年5月22日)