つれづれに

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 今週に入ってから、9時過ぎから30分から一時間、家事をすることにした。
どうも家内からしたら、何もしないでパソコンかiPadかTVドラマを見て一人
楽しんでいるのを見ると腹が立つようだ。 
 家事は決して嫌いではないが、キッカケがないと、やる気にならない。
そこで、私の得意のスケジュールに組み込んでしまうことにした。
まだ4日目だが、けっこうすることがある。
あと10日ほどしたら、曜日単位で、何をするか決めればよい。
単身生活も、学生時代を含めれば8年も経験している。
ご隠居も大変だが、慣れれば、それはそれで・・・


/////
1546, 人生の最後に後悔すること
2005年06月27日(月)
アメリカの90代の男女1万人の質問、
「90年も生きてきた人生の中で、最も後悔していることは何ですか?」の答えは、
「もっと、いろんなことにチャレンジすれば良かった・・」ということだという。
おそらく今後未来永劫?同じ答えになるだろう。一度しかない人生、
やりたいことをどんどん見つけ存分生きることこそ、人生が私たち問いかけている問題である。
この人生の問いかけを、人生の全てをかけて答えを探すことこそ、後悔をしない生き方になる。
中村天風のいう「積極一貫」を、人生を通して徹することである。
何故、色んなことに頑なに目を向けなかったのだろうか?
知識がなかった、
現状に満足しきっていた、
余裕がなかった、
人生を真剣に考えなかった、
等々、いろいろあるだろうが。
豊かなアメリカの90代の人々が
「もっと多くのことをチャレンジすれば良かった」
という切実な後悔は、何を意味しているしているのか?
旧共産圏や後進国では、こういう問いかけは少ないはずだ。
それを言えるだけの豊かさという環境があるからこそいえるのだ。
ということは、
「余裕が出来たら可能なかぎり色いろなことにチャレンジしてみるべきだ」という答えが自動的に返ってくる。
教養とは、
・家庭や社会から縛られた先入観や馬鹿の壁を、広く深い知識と経験持つことによって知ることをいう。また、
・『人生は可能ながぎり多くのことことにチャレンジすべし』を知る経験と知識である。
しかし、一つのことを突きつめた人に、この問いかけは無かったはずだ。
精一杯生きてきたからだ。それしかないし、他は考えられないからだ。それでも、あるのが人間であるが。
「もっと多くのことにチャレンジしておけばよかった!」この半年間、人生の直線コーナーに入る前である、
もっと深く問い詰めてみよう!
父が死期を悟った時に、私に預金通帳を見せて「この中味は、自分にとって単なる数字の羅列でしかない!」
と言ったことを思い出す。中味も大事であるが、といって死んでしまえばそれまでだ。
人間を支配している不安と恐怖が、新しいチャレンジを阻害するのだろう。そして貯金をすることで解消しようとする。
それに支配される状態が、老いている状態である。今度、不安について哲学的に問い詰めてみよう。
90歳の人がいうから問題がクローズアップする。20歳の人でも同じ問いかけが必要である。
周りを見渡せば幾らでもチャレンジの対象がある。見えてないのだ。それも足元にあるのに。
・・・・・・
2004年06月27日(日)
1181, カント ー 哲学についてー11
カントは、一般的にギリシャ以降の哲学の世界に登場した最大の思想家とみなされている。
カントは、ドイツのケーニヒスブルクの貧しい馬の蹄鉄屋の家に生まれます。因果なことに、
“ せむし ”で、背中にコブがあり、身体がゆがんで胸が小さく、生まれついての喘息もちだった。
脈はいつも120をこえ、いつもゼイゼイと今にも 死にそうな子供であったのだそうです。
毎日毎日苦しみながら、それでも17歳を迎えたとき、 父親はカントを「 駄目でモトモト 」
と半ばあきらめつつ、年に数回巡ってくる有名な医者のところへ連れて行く。
そうするとこの医者は、じっとカントの様子を見てからこう言います。
「 あなたは本当に気の毒な身体をしている。辛かろう、苦しかろう。それは医者として
見ただけでわかる。しかし、それは身体だけのことだ。身体は確かに気の毒な状態だけれど、
心はどうでもなかろう。心までも“ せむし ”みたいにゆがんで、息苦しくてゼイゼイ
しているのならともかく、あなたの言うことも心もしっかりしている。
身体のことで辛い、苦しい、といくら騒いでも、父さんや 母さんやみんなが辛いだけで何にもならない。
それよりも、心のしっかりしていることに感謝しなくては。死なずにいるのはそのおかげなんだよ。
そのことを喜びと感謝にしていけば、身体の方も次第に軽くなって 良くなっていくものなんだ。
このことがよくわからないようだったらお前は本当に不幸なんだよ。」
カントは、家に帰ってからこの言葉をじっと考えます。
人間というのは、 身体あってのものだろうか、心あってのものだろうか・・・。
そしてついにカントは、世界が誇る大哲学者への道を歩み始めた。終生独身だった彼の生活は、平凡で
真面目いっぽうにみえた。毎日きまった時間に散歩をする姿を見て、街の人は時計の時間を修正をしたという。
しかし彼は、聡明で闊達な楽しい人物だったという。気に入った人と時間を過ごすことを好み、
昼飯はかならず人を招待をしていた。講義のすばらしさも、今も伝説になっている。中世以降、哲学を
教えることを職業にした初めての人物であり、彼以降は高名な哲学者が大学教授になるのが珍しくなくなった。
彼は*経験論と合理論の統一*をして観念論をうちたてた。
それは、一言で言えば人間に知りうることと知りえないことを明らかにすること、
言い換えれば「経験」つまり「認識」の成り立つ条件を原理的に究明することによって、
認識能力の範囲と限界を明らかにしようとすることである。

ー難しいようだが、人間の持っている五感の機能の範囲でしか世界のことを理解できない。
盲人に自然の美しさは理解できない。舌のない人にあの美味しい料理の味を味あうことはできない。
反面、5感では感知できない他の世界があるはずである。
カントはデカルトスピノザの合理主義にも、ロックやバークリやヒュームの経験主義を超えていた。
・合理論を唱えた人々は「あらゆる認識の基礎ははじめから意識の中にある」と考えた。
 理性を重視し、認識の源泉は理性にあるとする。 つまり理性だけを信頼し、経験を軽視していた。
・それに対して、経験を通して確実な知識を手に入れようとした経験主義者たちは、感覚によって
認識できるものしか存在しないと考え、経験を超えたものは何も存在しないと 唱えたのである。
 カントは経験論、合理論ともに否定している。哲学史上、カントはこの2つの思想を批判統合し、
さらに啓蒙思想を加え、批判哲学を確立したと位置付けられている。
カントの思想が批判哲学といわれるのは、理性そのものを批判、吟味する立場をとっためだ。 
 近代思想として生まれながら、合理論も経験論も、人間の認識の対象(自然)は人間から独立して
存在すると考えたのに対し、カントは、
「普遍的な真理は、人間が外のものを正しく受け止めるところに成り立つのではなく、
人間が自ら持つ形式によって自発的につくりあげたものについての判断なのである。
そしてこの能力を、人間は経験によって獲得したのではなく、先天的に備えている」と論じた。
これは、天動説を否定して地動説を主張したコペルニクスにちなんで、「コペルニクス的転換」と呼ばれる。
しかし、自然科学的な認識として人間が知りうるのはあくまでも現象界における経験の範囲内での
自然の因果関係に限られる。つまり、経験を超えたもの、物自体を認識することはできないのである。
ー「我が上なる星空と、我が内なる道徳法則」 これはカントの墓碑銘にも刻まれたカント哲学を象徴する
実践理性批判』の結びの言葉である。カントはニュートンの自然科学にも大きな影響を受けており、
彼の哲学の目的は科学と道徳の絶対確実性を見出すことにあった。
・「我が上なる星空」とは、自然法則を象徴し、
・「我が内なる道徳法則」とは、人間の意志の自由と自律の上に築かれるべき人生の法則を 意味している。
カントは生涯をかけて自然界の法則の理論的基礎を築くとともに、人間一人ひとりの心の法則を追い求めた。
ーカントの「道徳論」「人間の尊厳について」「永久平和のために」のまとめを、あるホームページからコピーした。
ーーーーーーー
ーカントの道徳論ー
 カントは私たちが何かをする時、「同じ状況なら誰もが同じことを望む」と確信できなければならないとした。
これは『定言的命令』といわれ、何らかの目的の手段としてではなく、無条件に人間の心に生じてくる
普遍的妥当性をもった命令である。この反対が『仮言的命令』で条件付きの命令である。カントによれば
この命令は目的を達成するための手段として用いられているにすぎず、動機が不純なので善くないとされる。
人間は理性的存在であると共に、感性的存在である。感性によって捉えられる現象界に属するものとしては、
自然の法則に従わざるを得ないが、他方、理性界に属するものとしては道徳法則に従って生きるべきである。
定言的命令に従うことが、人間の道徳的、倫理的に正しい生き方であり、
また、道徳法則は良心の命令であり、一切の目的や条件を超えたものである。
 人間が道徳法則に従うこととは、具体的には、様々な場面で理性が命じる義務に耳を傾けることである。
カントは、道徳法則への尊敬だけを動機としてその命令に従うことを義務と呼んだ。
もし義務が果たせなかったとしても、人間は「果たすべきことを果たせなかった」という良心の呵責を感じる。
そしてその時、自分はその義務に従うことができた、という自由を自覚する。
カントは「道徳的な振る舞いは、自分の損得を乗り越えた結果、出てくるものでなくてはならない」としている。
つまり、行動が道徳的に正しいかどうかを決めるのは、行動の結果ではなくて心構えなのである。
道徳律を心に留めて行動している、と自覚している時だけ人間は自由意志でいられるのである。
つまり、人間としてどう いう風に行為すべきか、と真剣に道徳法則に直面して、初めて自由の存在を知るのだ。

*人間の尊厳*
 カントによれば、自律とは自らのたてた道徳法則に自らを従わせることである。
それは意志のもつ自由という特性によって、行為の主観的な格率(個人の行為を決定する原理)
を普遍的な法則に一致させることに他ならない。言い換えれば、それは理性の命令であり、義務の声である。
「汝の意志の格率が同時に普遍的立法の原理に妥当し得る様に行為せよ」というのがカントの
説いた最高の道徳法則である。それ故、自由な意志と道徳法則のもとにある意志とは同じであり、
真の自由は自律的自由を意味する。人間が理性に従って道徳法則を自ら打ち立て、
それに対する義務と責任から自律的に行動するところに真の人間らしさと自由がある。
カントは、この自律的な自由の主体、神聖な道徳法則の主体としての人間を人格と呼んだ。