つれづれに

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今日のYoutube
http://www.youtube.com/watch?v=EBwqbqZ3L60

この映像は逸品である。シャチはペンギンを狩るというより、サッカーボールの
ように追い掛け回して遊んでいたようだ。こんな小さなペンギンを何頭で追い回さない。
舟に逃げ込んだのはよいが、時に舟を襲うだろうし・・・ 直ぐペンギンが親しそうにする
ところが良い。 
 
 昨日は、シネマを見てくる。 80点というところか。
80と90点では、満足感が大きく違ってくる。
奇抜や派手な立ち回りだけではなく、最後に捻りがないと面白くない。
ゴーストライダー ー2」  http://gr2.jp/index.html

 今日は、いやに冷え込んでいる。 最近映画館にしろ、自宅でみるものは
刑事モノが多い。殺人、ドンパチもの。気分が晴れるが、結局は、異常者の
物語である。 ストレスをストレスで消火しているのは良くないはず。
 

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1408, LOVE&FREEー世界の路上に落ちていた言葉-1
2005年02月09日(水)
ー読書日記ー

図書館で何気なく借りてきたら、読むほどに面白い本である。
著者は32歳だが、思い切った生き方をしている。
アウトローアウトローでしかないが、生き方にバランスが取れているのがよい。
バナナ(皮は黄色で中が白)にマスマス日本人がなっている典型だろう。
ーはじめにーから引きつけられた。
1998年11月から2000年7月にかけて、約1年8ヶ月間。結婚したばかりの妻と二人で、
気の向くまま世界数十ヶ月の路上を歩いた。自分は、三年間続けた会社を離れフリーに
なったばかりだったし、銀座のOL だった妻のさやかは、寿退社をしたばかりで、
長いたびに出るのは「今しかない」という絶好のタイミングであった。
旅のコースも、期間も、特に決めなかった。「スタートはオーストラリア。
あとは気の向くままに。まあ、金がなくなったら帰ろう」それだけを決めて出発をした。
世界中の路上で、カフェで、ビーチで、バス停で、安宿のベッドで、・・・
大好きなコーラを片手に、タバコをふかしながら、自分の「ココロの井戸」を掘るようにして、
いくつもの詩を書いた。
「いいじゃん!」と感じる場面に出逢うたびに、ポケットからデジカメを出して、
幾千枚の写真を撮った。帰国後、旅中に残した詩と写真の中から、特に気に入ったものを
選んで、一冊にまとめたら、この本が出来上がった。世界の路上の片隅で、さまざまな人々が
僕にくれた「LOVE&FREE]のカケラを、あなたに贈ります。
ーー
以上であるが、路上で書いた内容であればこその、ココロに打つ内容が次から次へと出てくる。
言葉だけではない、デジカメで撮った何げない写真が素晴らしい。
二人は、各地で「ホリデーアパートメント」に一週間ずつ泊まって旅を続けていた。
お金には制約あるが、時間だけは無限にある旅。本当にうらやましい限りである。
胸に突きさすような言葉を幾つかをランダムに紹介してみよう。

ジブラルタル海峡

ヨーロッパからアフリカへ。
ジブラルタル海峡を越える船の甲板。
ある船乗りのオジサンが言っていた。

「おれは20年間、世界中をずっと航海してきた。
 繰り返される日々が嫌いだったからな。
 でも、愛する女性を見つけた日から、俺は変わった。
 今は、愛する妻と子供達と一緒に暮らすために、
 このジブラルタル海峡を一日2往復するだけの繰り返される
 毎日を過ごしている。
 でも、神に誓って言う。
 今が一番幸せだ。
 俺の冒険は、彼女という宝を見つけることによって終わったのだ」

そして、キザでかっこいい船乗りは、最後にオレに聞いた。
「オマエは、愛する女性という宝を既に見つけている。
いったい、他にどんな宝を探して旅をしているんだい?」


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2004年02月09日(月)
1041, 職業性格形成論

条件と原因とは同義語である。職業は人間の性格まで決定をしてしまう。
先日書いた「わたしは悪い不動産屋」の中で、「不動産業者は瑕疵を探してしまう癖が
人間性までも出てしまう」と書いた。その時に以前から書いてみようと思っていた
「職業性格形成論」をまとめてみたくなり、早速書いている。
・サラリーマンに嫁いだ姉をみていて驚いたのが、ミスに対して異常に 神経をつかっていることである。
 対象のプラスではなく、マイナスのミスだけ眼がいってしまう性格に 変ってしまったのだ。 
組織人だった旦那の影響である。
・母がそうである。いつも話が1・5倍から2倍に膨らむ。すぐ上の姉にいわせると、値入れを
1・5から2倍にするのが原因だという。 そのシビアな指摘に驚いた。
・代議士ならサシズメ数十倍のハッタリが性格になってしまう。 それと虚言癖だ。
・作家も虚言癖の傾向になるか、観察眼で物事をみる性癖になる。
・警官は、全て犯罪捜査の視点でみてしまうようだ。 警官という職業自体、必要悪の部分がある。
国家内の法律遵守の暴力装置だからだ。
・先生は、常に教えたくて仕方がないとか、生徒を比較するように社会も比較順序をつけてしまうという。
・私の仕事は装置産業、一度投資をすると15年~20年はどうしようもない。
 あとは社会情勢次第。そうすると、マクロ的な世界や社会に興味を持ってしまう。 
 面白いものである。そう考えてみると、誰もが自分で思いあたるだろう。
サンマというタレントをみると、普段生活があのままという。常に話しまくっているかパフォーマンスを
してないと不安になるといっていた。TVタレントや俳優は、私生活のすべてが演技の勉強になっている。
そして演技と実生活が混同してしまうという。
そこまでいかないとプロとはいえないのだろうが。職業は生きていく上で重要な位置を占めているものだ。
但し、何事も例外の人はいる。
当たり前のことだが、泥棒や犯罪も職業にすべきで無い。人間性まで泥棒になってしまうからだ。
いや、泥棒の性格の奴がなってしまうのだ。中高校の時、粋がって他人の小物を盗みまわっていた人がいた。
泥棒にはならなかったが、結果は似たような人生を過ごしていた? これは「三つ子の魂 百までも」か。

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2003年02月09日(日)
676, ぶざまな人生ー4(読書日記)

ー偽善論
この偽善論がなかなか面白い。偽善主義者を、もともと偽善者ではないと切り捨てている。
偽善者以前ということだ。善を隠れ蓑にしながら、相手を実害を与え、自分は実利を取ろうとする奴。
「不幸の事件を逆手に使い、自分はあたかも最大の同情者のように振る舞い、
実利を得ようという輩」だ。これは汚い欺瞞者であり、詐欺者である。身辺に幾らでもいる?!
不可避的な偽善には、少なくとも善がある。真実の善など本当にあるのか。
どこでどうやって見分ける事が出来るのか。偽善をなせ。それを、あるかないかわからない真善に次ぐ、
次善となせ。一生偽善をなせば、それが真善である。偽善でいいと思う、「偽善」でしかなしえない「善」が
この世の中にある。私は「偽善」を憎むほど、善を成すものでない。ー以上が著者の言わんとするところだ。
「真善などあろうか?それなら偽善を次善としてなせ!」とは思い切った事をいう。所詮、善悪とは個人、
社会、宗教が創りあげた価値観でしかない。その基準が、どれほどの価値があるものか?
偽善いや善悪という言葉そのものが怪しいのだ。
「人を殺すのは悪でないというのか?」もちろん悪いが、戦争で相手国の非戦闘員を殺してしまったとして、
それもどこまで悪と言えるだろか?全てが状況だ。その為に初めて旧約聖書が善悪の基準を創った。
孟子性善説荀子性悪説があるが、これも何を基準に善悪といっているのだろうか。
あくまで両面を言っているだけだ。それなら、手っ取り早い「偽善とやらから、世間体のいう善と
思える奴を、仮面を被って次善と割り切る」という著者の論法も肯ける。
偽悪の方がまだましと思っていたが、偽善も必要か?
偽悪の背後にあるのは善ではない?偽善の背後は悪じゃない?次善論じゃないか?
よっしゃ、早速褒める訓練本でも買ってきて、カミサンや居酒屋やスナックのママから褒めてみようか?
下心がないのだから偽善と違うか? 褒めるのは偽善でなく、義務か!

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 2002年02月09日(土)
326,イルカのような人

イルカはどんな状況でも楽しみを見つけ遊ぶという。私の身辺にイルカのような人がいる。
「今日如何して一日を楽しむか」それしか頭に無い。オリンピックといえば、一月前から
それを楽しみに待っている。始まれば夜半でも寝ずに見る。
ウインブルドンのテニスが始まれば、これも然り。毎日のTVも当然いくつか楽しみの番組がある。
一日が楽しむ為にフルに使われるのだ。昼は誰か友達と安くて美味しいランチを探し食べている。
その為か顔までがイルカのようになってしまっている。笑い顔なのである。
必ず笑いのネタを何処からか見つけてきている。
働くことは大嫌い!遊びならどんなハードな事でも平気、仕事は少しやると顔がはれ寝込んでしまう。
2~3人のグループで常に群れているところが、更にイルカに似ているところだ。
そういう人は今でいう癒しを周囲に与える。それが唯一のの社会的貢献だ。
こういう人は西欧系の人では当たり前のタイプかもしれない。
我々の年代の日本ではすくないが、若い人ではいくらでもいるのだろう。
社会学で人間には二タイプに分けられるという。仕事タイプの人と、遊びタイプの人とに。
難しくいうと「仕事タイプをホモ・ハーベン」「遊び人タイプをホモ・ルーベン」という。
いるかのような人は「遊びタイプ」の典型である。これで一生終えるだろう。
母親がこれに劣らず、一生を楽しんでいる。家系からきているから間違いない。
人生とは、このような人には幾らでも楽しみを与える。
反対の人には、いくらでも苦しみを与えるものである。何か法則があるのだろう。
この視点でみると私はシャチというところ? いや、オットセイか!

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2月09日  1969年
昨夜も一昨夜もショックが続く。
留年をして、もう一度やり直そうかと言う気持ちが出る。
といって今更躊躇するのはオカシイのではないか。高木も留年という。
客観的に耐えられないとしても、一応卒論を書き終えたことは間違いない。
いろいろあって動揺をしているのは解っているが。真面目に考えすぎである。
気持ちがボロボロなだけだ。もっと冷静にならなくてはなるまい。