リオのカーニバル

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今日のYoutube
http://www.youtube.com/watch?v=_3aR3ndbJog

 リオのカーニバルの時節だ。平成7年だから、はや18年になる!
写真は、ネットのものだが、息遣いや、賑やかさは同じである。
それにしても、耳をツンザク音響と熱狂の空気は、想像を絶した!
http://www.youtube.com/watch?v=S8YoddGJHXs
http://www.youtube.com/watch?v=Qdycq9uc9io


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2003/04/23
リオのカーニバル
この時期になると例年、NHKハイビジョンでその内容が放映される。
毎年三月の初旬に開かれ,約一月後に放映されている。
何とも派手で陽気で豪華で楽しい!
8年前にいって、その雰囲気を知っているから、観ていても楽しいのだろう。
違うのは音量の大きさと、会場の熱気が直接伝わっていることだ。
 TVを観ていると、会場に行っているような錯覚をしてしまう。
以前にも書いたものを後でコピーしておくが、なかなか奥行きが深い。
ブラジルではTVなどで生中継される全国的な行事なっている。
今回、あるチームの準備などの内幕をドキュメント風に紹介していた。
80分の持ち時間の演技のために一年間の準備をする。
 審査項目が10項目あり、それを細かく説明していた。
・テーマ曲の良し悪し
・打楽器ーバテリアの内容
・テーマの紹介のパフォーマンス
・同じ衣装のダンス隊のダンス
・山車の美しさ、テーマの解りやすさ、迫力
・チームの旗手の踊り
・そのチームの女王の観客へのアピールと反応
 等々ある。
プロの演出者を雇い、その年のテーマにそって
カーニバルとサンバと山車や音楽や衣装が組み合わされる。
今年もなかなかの出来であった。
数回再放送でやるから、何回もみるつもりである。
ーー以前書いた文章をコピーしておきますーー


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2005年02月12日(土)
1411, LOVE&FREEー世界の路上に落ちていた言葉-2
「求めよ、さらば与えられん!」が、人生である。
この著者の生き方の中に、それがはっきりと見て取れる。
「何故、人は求めないのか?」、それは一般常識とやらに囚われているからだ。
この題名のFREEは、一般常識からの自由と、自らに由るという意味である。
この本の中に以下の文章がある。
  オマエハ ナニガ ホシインダ?
 それに答えられない人は、 旅は続けられないぜ。これはズバリ、それを言っている。
何が欲しいのか、何を求めてよいのか解らない人は旅を続けられない。
そのナニガ ホシインダという根本的問いかけを曖昧にしているのだ。
次の言葉もよい、
~あるハワイアンの言葉より~
「自分の魂が本当に満たされるというっていうのは、
どういうことなのでしょうか?」「それはね、自分が本当に何をしたいのか、
何をするためにこの世に生を受けたのかを知ることです。
いくらお金を持っていても、いい仕事を持っていても、
自分の魂を満足させられないと、病気になったり、悪いことを
引き起こしたりしてしまいます。いろいろな辛い体験を踏み、苦しい体験を
経てこそ、その中から自分にとっての本当の幸せを学びとることなのです。」
「だから、本当に必要なものを見つけるまで、魂は旅を続けます。
ただじっと待っていても幸せになれません。
また不必要なものを捨て去ることができなくては、新しく得ることができません。
変化をする時はいつも大変ですが、不必要なものを捨て去る決断を
下せない人の魂は決して満たされることはないでしょう。」
ナニガホシイか解らないと、魂がたださまよい続けて一生を終えてしまうのだ。
ーー
  必要なのは、勇気でなくて、覚悟。
 決めてしまえば、すべては動き始める。

この言葉も意味深である。この覚悟こそ、魂の根本である。
 ーー
  すべては自分が選んでいる。
 ーー
~シンプル~
 世界を放浪を続けているうちに、大事なことがどんどんシンプルになってきた。
 大きなもの、広いもの、多種多様なものに触れれば触れるほど、
 大事なことは小さく小さく絞られていく気がする。
 おやじ、おふくろ、弟、妹、彼女、仲間・・・
「大切な誰か」のために始めた小さなことが、
 結果として大きな世界をHAPPYにしていくことになる。
 --
ーこの著者の本から受けた感想は
はっきりと自分の欲しいものを見つめ、覚悟を持って始めれば、
何ごとの中にも一番重要なことが見えてきて、
それを選んでいけば、シンプルになっていく。
それが、自分の生き方のできる人だ。

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2004年02月12日(木)
1044, 職業性格形成論-2
「職業性格論は一理あるかもしれないが矛盾も多い」と考えられる。
確かに大雑把な論である。警官を例にとっても、彼等にも色いろな性格もある。
それはどの職業の人にもいえることだ。といって職業の性格形成に対する影響は大きい。
「職業の特性」と「本人の特性」とが、掛け合わさレて「職業性格」ができあがると
考えると納得ができる。その意味で、会社を選ぶのではなくまずは職業を選ぶべきである。
その掛あわせがポイントになる。それが悪いと、自分の特性が引き出されない。
人間の性格は、両親や地域や兄弟の順位などが複雑に絡み合って形成されている。
したがって一概に一括りにはできないが、両親・兄弟姉妹・連れ添いと、
選んだ職業は大きな要素になる。
ある町の飲食店の開店で、家内と待合で待たされた。そこで、見るからにクラブの
ママさん風の人が、予約で入っていくお客に挨拶をしていた。
その姿が今でも目に焼きついている。「あの人はどこどこの頭取、あの人はどこどこの社長様」
と仰ぎ見るような眼で小さな声でいっている。
「何じゃ、このボケ!」と、ヤッカミ半分でママ様を軽蔑の目で見ていたが、
家内が「あの人、うちの子供の同級のお母さんで、長岡の一番高い店のママさんだって!」
とのたもうた。
「ああ、これではあのお馬鹿さん達、喜んでくるわけだ!」と思った。
このケースなど職業性挌形成論の典型である。
職業性挌形成論にしては程度の低い話になったが、こんなものだ。
威張りたい奴と、おだてを仕事にしている奴が出会う場所も有ってよいが。
でも、あのような純粋に仰ぎ見られたら、その店に行きたがるだろう。
なるほど一番の高級店のママ様である。
逆に、「職業性挌とは何か」を徹底的に考えてみることが必要ではないか。
早く割り切って、その性格や生活に慣れてしまうことだ。そして身につけることだ。
落語や将棋に「内弟子制度」があるが、職業性挌(生活)を24時間、
師匠と生活をすることによって、身につけるためである。
「いまの職業性格とは何か」じっくり考えてみよう!
「有能な営業」は太鼓持ちの「どっこいしょ」と、もち上げるノウハウを身に付けている。
20年前から、この営業はいつ誉めるか、それぞれの人を観察をしてきた。
自然と身に付いているが面白い。それと「内幕情報屋」の媒体も骨身についている。
危ない相手でもある!
こんどは、営業屋性格論でも書いてみようか!
悪口になる可能性が大であるからやめておこう?

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2003年02月12日(水)
679, イヤなやつー2
ー良い人と偽善ー
先日書いた河盛好蔵の文章をから「イヤなやつ」の要素は以下である
・他人の幸福より不幸を喜ぶ感情の悪さがある。
・自分ではできるだけ怠けて、人をはたらかせ、その功を自分だけで独り占め
 をしたいというズルさと、欲の深さがある。
・権力者にはなるべく逆らわないで、
 進んでその権力に媚びようとする卑しさがある。
・自分に寛大で、他人には厳しくって、エゴイストの部分が非常に多い。
・ケチで、感情高くって、他人の不幸にそ知らぬ顔をする。
 反対に「良い人とは如何いう人か」を考えると
・他人の不幸を悲しみ、幸福を共に喜び
・自分に厳しく、他の人より多く働き、その功を他の人に与え
・感情は常に冷静である
十数年前に経営セミナーで聞いた、香港の財閥と結婚後死別してオーナーになった
日本人の女経営者の心訓を思い出した。
「人には優しく自分に厳しく、いつもニコニコと、人に良かれと思って生活する事」
であったが、相通じるところがある。ほうっておけば「イヤなやつ」になるのを、
この言葉を繰り返す事で自省する言葉である。それを意識して生活をすれば、
初めは偽善?だとしても、真善の人間に近づけるのではないだろうか。
その意味で「偽善を次善としてなせ」も一理ある。
目先に都合のよい人が「良い人」も確かに間違いがない。
所詮、「よい人、悪い人」というのは、このレベルのでしかない。
でも「良い人」の方が、お互いに良い。

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2002年02月12日(火)
329、夢日記ー13 
 自己喪失感
こういう経験ー夢をみたことがありますか?
「全く無能で白痴の何の取っ掛りのない自分」に呆然としている夢。
夢から覚めても、しばし呆然としている。
自己喪失感というか、虚空の自分を実感した感覚である。
それこそ「自己中心絶対無」でなく、
・自己中心絶対無能、
・自己中心絶対虚空
・自己中心絶対自信喪失
何か聞こえてきそうだ!「実をいうと、自分はその塊だ!」
あの恐ろしさ! 独り社会から引き離され、虚空をさ迷っている魂。
ある人に話したら「 自己喪失感というやつでないか」といった。
永年連れ添った人を失った人が経験するのが、あの夢の感覚かもしれない。

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2月12日 1969年

武澤先生に会ってもらって話を聞いてもらう。
もしかしてと思い、自主留年の可能性も言ってみた。
しかし、あくまでも学生時代の郷愁に浸っているだけではないかとのこと。
自己納得だけで、客観的ではないと言われた。
むしろ社会に出て、自分をぶつけたほうがズット良いというのも理解した。
食事をご馳走になりながら何か説得されているようであった。
このところ、周囲にあまりに影響されすぎたようだ。
迷惑をかけたにしても、先生と一対一で直接話すことは初めてだった。
何か一人芝居をしているだけなのか。しかし真剣な一瞬であった。
「いい歳をして」という思いが残った!