つれづれに

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 TVとPC三昧の日々。73歳といえば、こんなもの?
父親よりも4年は長生きしていることになる。体調は
いたって好調。 しかし、いつ倒れても不思議でない時節。
成るほど、現時点が人生の余白の頃ですか? 

 





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2870, 北半球のミツバチの四分の一が失踪
2009年02月12日(木)
 この日曜日の毎日新聞「今週の本棚」の書評「ハチはなぜ大量死したのか」
ローワン・ジェイコブセン著-に驚いてしまった。(内容はYahooにコピー)、
2007年の春までに北半球のミツバチの実に四分の一が失踪したという。
 結論からいうと
 ーこの「蜂群(ほうぐん)崩壊症候群」の原因は単一でないが最大の背景は
工業化された農業。不自然な管理がハチたちに強いストレスを与え、免疫抵抗性
を弱め、ダニやウィルスに対する防御を弱めたのである。そこに農薬の複合汚染が
重なり、精密な社会生活を営む巣全体の活動をいわばアルツハイマー状態に陥れた。
病み疲れた働き蜂たちは、採餌の出先で倒れ、巣に戻れず、ただ死んでいった?ー
 それは「もう一つの人間社会を見る思い」と著者は人間の姿に重ね合わせている。
管理され、同一の花畑だけを移動されて、蜜を取らされて、毒(農薬)まで摂取
していれば、当然の結果。自宅で十年ほど前から、ハエと蚊が少なくなった。
夏になると町内単位で各家の庭に毎年薬の散布をしているのが影響している?
 それと近くの河の中に堆積した土砂を徹底的の運び出したこともある。
散歩していて虫の数が激減してしまったのである。ハチの姿は都会で働いている
人を冷静に見れば、酷似している。管理され、会社と自宅という箱の間をラッシュ
の電車で移動する毎日。それが都会人のカッコよさと共同幻想をもって生きて、
定年で初めて働きバチだった己に気づく。一年間、気温良好なオーストラリアで
蜂蜜業を初めたが、大失敗をした内容を書いたことがあった。 四季の変化の
ストレスが無いことと、冬のために蜜を蓄える必要がないため蜜を採らなくなった
のである。都会でノイローゼ、自殺が問題になっているが、自然に触れる機会が
少ないのも原因だろう。この大恐慌も、あまりに不自然な現状を考えるチャンス
を「大自然」が与えたのである


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2008年02月12日(火)
 2505,  将来の不安-5    ゚+.(ノ*・ω・)ノ*.オハヨオォォ☆゚・:*☆
現代をマイナスの視点で照射すると、「不安の時代」といえるだろう。
修羅場を幾つも乗り越えてきたものにとって、「何が不安?」と笑ってしまう
だろう。イスラエル人が日本にやってきて、「この国が不安の時代」と聞いたら
フキ出すだろう。十年ほど前、イスラエル旅行中に「アメリカの高校で乱射事件」
があった。その時の現地に住む年配の日本人ガイドが、「イスラエルでは、ああ
いう事件は起きません!常に敵に囲まれていて内輪もめなどの余裕などない。
兵役中の家族の一員が家に小銃を持ってきたり、町やバスの中には機関銃を
持った兵士が乗っている。アラブ人との殺戮が日常化しているイスラエル
とって、あのような事件は呆れる以前である」と語っていた。
社会の不安感が、蔓延しているのは逆に言えば平和ボケの結果。アメリ
の心理学者のシーベリーは「不安は、否定的な結果にすべての注意を向けること。 
不安を持つと、思考や感情の流れを建設的にコントロールすることができなくなる」
「不安は、あらゆる不幸を背負った自分が本当の自分であると、間違って否定的に
考えることである」という。あらゆる不幸を背負うなど思ってしまう。
不安に取り付かれるのは、無知そのものを起因している。そのためには知ること。
だいたい、不安とは世間に対しての意識が起こしている不安定な気持ち。
その世間とは何か?と考えると、身辺の7~8人だろう。それも程度の低い。
その辺から見据えないと、自分の生きかたが歪んでしまう。夢を常に持ち、
一人で遊ぶ術を身につけていれば、不安感は最小になる。それもこれも、やはり
読書の積み重ねのベースを必要とする。自分を心の底から信じられなければ、
自分の夢を持ち続けなければ「最後は死ぬ?」という人生の一大事を知った
人間の不安を麻痺させることは出来ない。逆に、根源的な問題から目を逸らす
ためには、群れて笑っているしかないのか? それで解消できるなら、それは
それで良い生き方である。笑えるうちに笑っておけばいい!感動できるうちに
感動しておけばいい! 直ぐに泣くときが来るのだから。その時はそれを受け
入れるしかない。あとは野となれ花となれ!しかないだろう。
不安など恐れることもない!宇宙の微細の微細が何をしても、考えても同じ。
一人不安にさい悩まされている。
 (1~4は、2005年6月3日、7月1,3,6、7日記)

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1776, わたしの「夢ノート」 -1
2006年02月12日(日)
                    (o゚▽゚)o オハョ~
               読書日記

週に一度はいく書店の文庫本のコーナーで、前より気になっていた本
であったが、「今さら夢でもないだろう!」と思い、買わなかった。

しかし最近年齢のためか、過去回顧に重点が行き過ぎているので
「あと10~20年間の夢づくりー予定づくりのためにも」
と思い買ってみた。(値段が350円ということもあったが)


買ったと同時に利用価値が多様にあることと、この本の奥行きの深い価値に気づいた。
夢を書くことは前向きの言語の構成をすることである。それは未来から現在への視点
の逆転になる。

また、このノートを書き足すということは、
夢の純化と目標に姿を変えていくプロセスになる。
                     (´、丶) ホゥ
 夢に限らず、遺言に書き換えたり、自分の葬式の希望を書いたり、
子供達へのメッセージを書き込んだり、今年の予定表のコーナーなど、
「書き込み式の自分本」ということになる。
               
                 
女子供向きだが、万人に充分つかえる構成になっている。特に若い人にお勧めだ。
もし貴方が年配なら、子供か若い人のプレゼントに良いだろう。


自分の人生を航海にたとえると、
行き先を羅針盤で確認できる航海予定表と行動計画書になる。
この本を若いときに利用するかしないかで、
十年経った時に大きな人生の質が左右するだろう。
               
                      ε-(ーдー)ハァ ソ~
自分で創る自分の為の本である。
「書きこみ式」で空欄へ書き込むレイアウトがよい。
また「夢」ー「枝」の分類がよい。
「夢ノート」は「夢がかなうノート」を略したもの。
  自分が
「ほしいもの」
「したいこと」
「こうありたい気持ちやこころ」
「休日の過ごし方」
など思いついた順に1 冊のノートに書き出していけるようになっている。

 文庫本サイズでコンパクトになっており、手帳感覚で思いついた時に書き込め、
効果的結果を得れるだろう。

 自分の夢を書きとめるだけでなく、本や雑誌の気になる言葉を書きとめたり、
印象の深い映画などを書き込むのにもよい。

自分の夢を文章化することは、行動へレベルアップするのに効果的だ。


                            つづく
     王様文庫
     著者:中山庸子
     出版社:三笠書房
      350円
           ヾ(*'-'*)ヾ(*'-'*)ヾ(*'-'*)バイバイ!!
           
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 2005年02月12日(土)
1411, LOVE&FREEー世界の路上に落ちていた言葉-2

「求めよ、さらば与えられん!」が、人生である。
この著者の生き方の中に、それがはっきりと見て取れる。
「何故、人は求めないのか?」、
それは一般常識とやらに囚われているからだ。
この題名のFREEは、
一般常識からの自由と、
自らに由るという意味である。

この本の中に以下の文章がある。

オマエハ ナニガ ホシインダ?
それに答えられない人は、旅は続けられないぜ。


これはズバリ、それを言っている。
何が欲しいのか、何を求めてよいのか解らない人は旅を続けられない。
そのナニガ ホシインダという根本的問いかけを曖昧にしているのだ。

次の言葉もよい、

~あるハワイアンの言葉より~

「自分の魂が本当に満たされるというっていうのは、
 どういうことなのでしょうか?」

「それはね、自分が本当に何をしたいのか、
何をするためにこの世に生を受けたのかを知ることです。
いくらお金を持っていても、いい仕事を持っていても、
自分の魂を満足させられないと、病気になったり、
悪いことを引き起こしたりしてしまいます。
いろいろな辛い体験を踏み、苦しい体験を経てこそ、
その中から自分にとっての本当の幸せを学びとることなのです。」

「だから、本当に必要なものを見つけるまで、魂は旅を続けます。
ただじっと待っていても幸せになれません。
また不必要なものを捨て去ることができなくては、
新しく得ることができません。
変化をする時はいつも大変ですが、不必要なものを捨て去る決断を
下せない人の魂は決して満たされることはないでしょう。」

ナニガホシイか解らないと、
魂がたださまよい続けて一生を終えてしまうのだ。

ーー

  必要なのは、勇気でなくて、覚悟。
 決めてしまえば、すべては動き始める。

この言葉も意味深である。
この覚悟こそ、魂の根本である。

 ーー

  すべては自分が選んでいる。

 ーー

~シンプル~

 世界を放浪を続けているうちに、
 大事なことがどんどんシンプルになってきた。

 大きなもの、広いもの、多種多様なものに触れれば触れるほど、
 大事なことは小さく小さく絞られていく気がする。

 おやじ、おふくろ、弟、妹、彼女、仲間・・・
「大切な誰か」のために始めた小さなことが、
 結果として大きな世界をHAPPYにしていくことになる。

 --

ーこの著者の本から受けた感想は

はっきりと自分の欲しいものを見つめ、覚悟を持って始めれば、
何ごとの中にも一番重要なことが見えてきて、
それを選んでいけば、シンプルになっていく。
それが、自分の生き方のできる人だ。

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2004年02月12日(木)
1044, 職業性格形成論-2

「職業性格論は一理あるかもしれないが矛盾も多い」と考えられる。
確かに大雑把な論である。
警官を例にとっても、彼等にも色いろな性格もある。
それはどの職業の人にもいえることだ。
といって職業の性格形成に対する影響は大きい。

「職業の特性」と「本人の特性」とが、掛け合わさレて
「職業性格」ができあがると考えると納得ができる。
その意味で、会社を選ぶのではなくまずは職業を選ぶべきである。
その掛あわせがポイントになる。
それが悪いと、自分の特性が引き出されない。

人間の性格は、両親や地域や兄弟の順位などが複雑に絡み合って形成されている。
したがって一概に一括りにはできないが、両親・兄弟姉妹・連れ添いと、
選んだ職業は大きな要素になる。

ある町の飲食店の開店で、家内と待合で待たされた。そこで、
見るからにクラブのママさん風の人が、予約で入っていくお客に挨拶をしていた。
その姿が今でも目に焼きついている。
「あの人はどこどこの頭取、あの人はどこどこの社長様」と仰ぎ見るような眼で
小さな声でいっている。
「何じゃ、このボケ!」と、ヤッカミ半分でママ様を軽蔑の目で見ていたが、
家内が
「あの人、うちの子供の同級のお母さんで、長岡の一番高い店のママさんだって!」
とのたもうた。
「ああ、これではあのお馬鹿さん達、喜んでくるわけだ!」と思った。
このケースなど職業性挌形成論の典型である。
職業性挌形成論にしては程度の低い話になったが、こんなものだ。
威張りたい奴と、おだてを仕事にしている奴が出会う場所も有ってよいが。
でも、あのような純粋に仰ぎ見られたら、その店に行きたがるだろう。
なるほど一番の高級店のママ様である。

逆に、「職業性挌とは何か」を徹底的に考えてみることが必要ではないか。
早く割り切って、その性格や生活に慣れてしまうことだ。
そして身につけることだ。
落語や将棋に「内弟子制度」があるが、職業性挌(生活)を24時間、
師匠と生活をすることによって、身につけるためである。

「いまの職業性格とは何か」じっくり考えてみよう!

「有能な営業」は太鼓持ちの「どっこいしょ」と、もち上げるノウハウを
身に付けている。
20年前から、この営業はいつ誉めるか、それぞれの人を観察をしてきた。
自然と身に付いているが面白い。
それと「内幕情報屋」の媒体も骨身についている。
危ない相手でもある!

こんどは、営業屋性格論でも書いてみようか!
悪口になる可能性が大であるからやめておこう?

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 2003年02月12日(水)
679, イヤなやつー2

ー良い人と偽善ー
先日書いた河盛好蔵の文章をから
「イヤなやつ」の要素は以下である

・他人の幸福より不幸を喜ぶ感情の悪さがある。
・自分ではできるだけ怠けて、人をはたらかせ、その功を自分だけで
 独り占めをしたいというズルさと、欲の深さがある。
・権力者にはなるべく逆らわないで、
 進んでその権力に媚びようとする卑しさがある。
・自分に寛大で、他人には厳しくって、エゴイストの部分が非常に多い。
・ケチで、感情高くって、他人の不幸にそ知らぬ顔をする。

 反対に「良い人とは如何いう人か」を考えると

・他人の不幸を悲しみ、幸福を共に喜び
・自分に厳しく、他の人より多く働き、その功を他の人に与え
・感情は常に冷静である

十数年前に経営セミナーで聞いた、香港の財閥と結婚後死別してオーナーになった
日本人の女経営者の心訓を思い出した。
「人には優しく自分に厳しく、いつもニコニコと、人に良かれと思って生活する事」
であったが、相通じるところがある。
ほうっておけば「イヤなやつ」になるのを、この言葉を繰り返す事で
自省する言葉である。
それを意識して生活をすれば、初めは偽善?だとしても、真善の人間に
近づけるのではないだろうか。
その意味で「偽善を次善としてなせ」も一理ある。

目先に都合のよい人が「良い人」も確かに間違いがない。
所詮、「よい人、悪い人」というのは、このレベルのでしかない。
でも「良い人」の方が、お互いに良い。

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2002年02月12日(火)
329、夢日記ー13 
 自己喪失感

こういう経験ー夢をみたことがありますか?

「全く無能で白痴の何の取っ掛りのない自分」に呆然としている夢。
夢から覚めても、しばし呆然としている。

自己喪失感というか、虚空の自分を実感した感覚である。
それこそ「自己中心絶対無」でなく、
・自己中心絶対無能、
・自己中心絶対虚空
・自己中心絶対自信喪失

何か聞こえてきそうだ!
「実をいうと、自分はその塊だ!」

あの恐ろしさ!
独り社会から引き離され、虚空をさ迷っている魂。

ある人に話したら「 自己喪失感というやつでないか」といった。
永年連れ添った人を失った人が経験するのが、あの夢の感覚かもしれない。