つれづれに

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 昨日は、新潟で「新潟木鶏クラブ」の新年会。
私が『致知』という雑誌に惹かれ、30年前に読書会を開いた。
10年ぐらい前から、あまり行かなくなったが、それでも今も続いている。
有難いことだ。1~2年に一度位は出ている。昨日は13名の出席。
それにしても皆様、真面目である! 一軒だけ、近くのスナックによる。
行くたびにスナックが減っている。最盛期の1割も店が残っていないほど。

 帰りは21時33分の新幹線の予定だったが、大宮駅で電気関係の事故で、
不通のため、二つ前の新幹線が、まだ待機していた。それが21時45分に出発。
実際は10分遅れで済んだ。
 
 で、久々に新潟駅構内の専門店街を見て回ったが、三年前とは活気が違っている。
それと、長岡に引きこもっている自分が見えてきた。やはり現場は活況がある。
なるほど、森からみれば、私は既にサバンナに定住者。


・・・・・
1773, 年金の話 -2
2006年02月09日(木)
 60歳になって、前倒しにすれば年金が貰える年齢になった。
誕生日の前後に個人年金振込みの通知がきた。
家内が15年前から生保の個人年金の掛け金をしていたもので、
私には一言もなかったが、それが今年から70歳まで落ちるという。
自動的に簡保に毎年積み上げる仕組みになっていて、70歳からの年金になるという。
それを種銭にして旅行でもと思ったが、そうもいかないようだ。
個人年金は、不安ビジネスというが、それをさらに積み立てるとは凄いシステムだ!
二人で月々?0万が入れば、普通の生活は保障される? が、ハイパーインフレが起これば、
お終いである。そして、その可能性が大ときているからやはり使ったほうがよいのか?
                コーヒーまあ(@゜▽゜)_且~~どうぞ w
都会のサラリーマンの65歳の年金者の平均値として2500万の貯金を持ち、
夫婦で月額30万円の年金収入があり、その30㌫を預金にまわすという。
何か日本人の貧乏性の性格が数字にそのまま表れている。  
国が存在して初めて個人の存在がある。
国を持たないジプシーやクルド人の悲惨さをみると、解ることだ。
その日本が破産状態だから、全くどうなるのかわからない!
ところで昨日、「中小企業経営者の年金ガイド・セミナー」にいってきた。
次回のテーマになるが、年金は高齢化社会の生活レベルの設定の問題になる。
このセミナーで感じ取ったことは、年金は前倒しで貰うのがポイントのようだ。
中小企業の経営者は給料を減額して、可能な限り年金を貰い、
減額分を会社の損金で落ちる生命保険をかけて、停年時に返金して
退職金にまわすのが現時点で一番得になるという。
  ー つづく  (●≧з≦)!⌒〔゚.+ バイバイ ゚+.゚〕
ーーーーーー
2004/06/04
1158, 年金の話 -1
 これだけ不景気になってくると気になるのが老後である。
そこで年金がここにきてクローズアップされてきているという。
今年から、58歳を過ぎると年金の予測の数字を希望者に郵送される。
半月前にその内容が送ってきた。こういう時代、明日何がおきても不思議ではない。
とくに事業をしている立場上、不安の要素があまりにも多い。
ある日、ハイパーインフレがおきて金利が2倍にあがる可能性がある。
また、上越新幹線でテロの爆発がおきても不思議でない。
新潟駅の新幹線のホームでは、各階段に警察官が二人ずつ合計10人近く張り付いている)
新潟にアルカイダーの幹部が一年半潜伏していたとかいう情報があったのと関係しているのだろう。
ハイパーインフレやテロで、会社は一瞬で倒産してしまう可能性を含んでいる。
経営者は何も保証されてない立場にあるから、万一のことがあれば明日からの
生活に事欠くことになる。倒産をした最悪の人を何人も現に見てきているから、
時々凍りつくような不安に落ちいることがある。それが逆にエネルギー源にもなっているが。
社会保険センターから送ってきた年金の数字を見て少しホッとした事も事実である。
年金支給が63歳と思っていたが、今回の郵送で60からでももらえることを初めて知った。
・1年7ヶ月経つと(60歳)全く他に収入がない場合で、190万円の年金支給。
・4年7ヶ月で(63歳)で、260万円。
・6年経つと、家内の分を加算すると360万位という。
ー何とか人並みに生きていけそうな金額である。
家内に説明をすると、「丁度よいようになっているのね!」
セフティーネットとして、あるとないとでは全く違う。
こういう年齢になったのだ。

・・・・・・
2005年02月09日(水)
1408, LOVE&FREE
ー世界の路上に落ちていた言葉- 1
              ー読書日記ー
図書館で何気なく借りてきたら、読むほどに面白い本である。
著者は32歳だが、思い切った生き方をしている。
アウトローアウトローでしかないが、生き方にバランスが取れているのがよい。
バナナ(皮は黄色で中が白)にドンドンなっている典型である。
 ーはじめにー から引きつけられた。
1998年11月から2000年7月にかけて、約1年8ヶ月間。結婚したばかりの妻と二人で、
気の向くまま世界数十ヶ月の路上を歩いた。自分は、三年間続けた会社を離れフリー
になったばかりだったし、銀座のOL だった妻のさやかは、寿退社をしたばかりで、
長いたびに出るのは「今しかない」という絶好のタイミングであった。
旅のコースも、期間も、特に決めなかった。「スタートはオーストラリア。
あとは気の向くままに。まあ、金がなくなったら帰ろう」それだけを決めて出発をした。
世界中の路上で、カフェで、ビーチで、バス停で、安宿のベッドで、・・・
大好きなコーラを片手に、タバコをふかしながら、自分の「ココロの井戸」
を掘るようにして、いくつもの詩を書いた。「いいじゃん!」と感じる場面に
出逢うたびに、ポケットからデジカメを出して、幾千枚の写真を撮った。
帰国後、旅中に残した詩と写真の中から、特に気に入ったものを選んで、
一冊にまとめたら、この本が出来上がった。世界の路上の片隅で、さまざまな
人々が僕にくれた「LOVE&FREE]のカケラを、あなたに贈ります。
ーー
以上であるが、路上で書いた内容であればこその、ココロに打つ内容が次から
次へと出てくる。言葉だけではない、デジカメで撮った何げない写真が素晴らしい。
二人は、各地で「ホリデーアパートメント」に一週間ずつ泊まって旅を続けていた。
お金には制約あるが、時間だけは無限にある旅。本当にうらやましい限りである。
胸に突きさすような言葉を幾つかをランダムに紹介してみよう。
  ージブラルタル海峡
ヨーロッパからアフリカへ。ジブラルタル海峡を越える船の甲板。
ある船乗りのオジサンが言っていた。
「おれは20年間、世界中をずっと航海してきた。
 繰り返される日々が嫌いだったからな。
 でも、愛する女性を見つけた日から、俺は変わった。
 今は、愛する妻と子供達と一緒に暮らすためにこのジブラルタル海峡を、
 一日2往復するだけの繰り返される毎日を過ごしている。
 でも、神に誓って言う。 今が一番幸せだ。
 俺の冒険は彼女という宝を見つけることによって終わったのだ」
そして、キザでかっこいい船乗りは、最後にオレに聞いた。
「オマエは、愛する女性という宝を既に見つけている。
いったい、他にどんな宝を探して旅をしているんだい?」
  ー核ー
たくさん食べることはない。
一匹の魚を骨まで味わってごらん。
そのほうが、本当の「おいしさ」がわかるから。
たくさん読む必要はない。
一冊の本を文字が溶けるまで味わってごらん。
そのほうが、本当の「おもしろさ」がわかるから。
たくさん愛する必要はない。
ひとりの人を心ゆくまで愛してごらん。
そのほうが、本当の「愛」がわかるから。
貧しい国の豊かな人々が、
オレに、そう笑いかけている。

---
「LOVE&FREE
 ー世界の路上に落ちていた言葉」出版社: サンクチュアリ出版
                              つづく
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2004年02月09日(月)
1041, 職業性格形成論
条件と原因とは同義語である。職業は人間の性格まで決定をしてしまう。
先日書いた「わたしは悪い不動産屋」の中で、「不動産業者は瑕疵を探してしまう癖が
人間性までも出てしまう」と書いた。その時に以前から書いてみようと思っていた
「職業性格形成論」をまとめてみたくなり、早速書いている。
・サラリーマンに嫁いだ姉をみていて驚いたのが、ミスに対して異常に
神経をつかっていることである。対象のプラスではなく、マイナスのミスだけ
眼がいってしまう性格に変ってしまったのだ。 組織人だった旦那の影響である。
・母がそうである。いつも話が1・5倍から2倍に膨らむ。すぐ上の姉にいわせると、
値入れを1・5から2倍にするのが原因だという。そのシビアな指摘に驚いた。
・代議士ならサシズメ数十倍のハッタリが性格になってしまう。それと虚言癖だ。
・作家も虚言癖の傾向になるか、観察眼で物事をみる性癖になる。
・警官は、全て犯罪捜査の視点でみてしまうようだ。
 警官という職業自体、必要悪の部分がある。国家内の法律遵守の暴力装置だからだ。
・先生は、常に教えたくて仕方がないとか、生徒を比較するように社会も
 比較順序をつけてしまうという。
・私の仕事は装置産業、一度投資をすると15年~20年はどうしようもない。
 あとは社会情勢次第。そうすると、マクロ的な世界や社会に興味を持ってしまう。 
 面白いものである。そう考えてみると、誰もが自分で思いあたるだろう。
サンマというタレントをみると、普段生活があのままという。
常に話しまくっているかパフォーマンスをしてないと不安になるといっていた。
TVタレントや俳優は、私生活のすべてが演技の勉強になっている。
そして演技と実生活が混同してしまうという。そこまでいかないとプロとは
いえないのだろうが。職業は生きていく上で重要な位置を占めているものだ。
但し、何事も例外の人はいる。当たり前のことだが、泥棒や犯罪も職業にすべきで無い。
人間性まで泥棒になってしまうからだ。いや、泥棒の性格の奴がなってしまうのだ。
中・高校の時、粋がって他人の小物を盗みまわっていた人がいた。
泥棒にはならなかったが、結果は似たような人生を過ごしていた?
これは「三つ子の魂 百までも」か。

・・・・・・
2003年02月09日(日)
676, ぶざまな人生ー4(読書日記)
ー偽善論
この偽善論がなかなか面白い。
偽善主義者を、もともと偽善者ではないと切り捨てている。
偽善者以前ということだ。
善を隠れ蓑にしながら、相手を実害を与え、自分は実利を取ろうとする奴だ。
「不幸の事件を逆手に使い、自分はあたかも最大の同情者のように振る舞い、
実利を得ようという輩」だ。これは汚い欺瞞者であり、詐欺者である。
身辺に幾らでもいる?!
不可避的な偽善には、少なくとも善がある。真実の善など本当にあるのか。
どこでどうやって見分ける事が出来るのか。
偽善をなせ。それを、あるかないかわからない真善に次ぐ、次善となせ。
一生偽善をなせば、それが真善である。
偽善でいいと思う、「偽善」でしかなしえない「善」がこの世の中にある。
私は「偽善」を憎むほど、善を成すものでない。ー以上が著者の言わんとするところだ。
「真善などあろうか?それなら偽善を次善としてなせ!」とは思い切った事を
いう。所詮、善悪とは個人、社会、宗教が創りあげた価値観でしかない。
その基準が、どれほどの価値があるものか?偽善いや善悪という言葉そのものが怪しい。
「人を殺すのは悪でないというのか?」 もちろん悪いが、戦争で相手国の非戦闘員を
殺してしまったとして、それもどこまで悪と言えるだろか?全てが状況だ。
その為に初めて旧約聖書が善悪の基準を創った。
孟子性善説荀子性悪説があるが、これも何を基準に善悪といっている
のだろうか。あくまで両面を言っているだけだ。
それなら、手っ取り早い「偽善とやらから、世間体のいう善と思える奴を、
仮面を被って次善と割り切る」という著者の論法も肯ける。
偽悪の方がまだましと思っていたが、偽善も必要か?
偽悪の背後にあるのは善ではない?
偽善の背後は悪じゃない?
次善論じゃないか?
よっしゃ、早速褒める訓練本でも買ってきて、カミサンや居酒屋やスナックの
ママから褒めてみようか?下心がないのだから偽善と違うか?
褒めるのは偽善でなく、義務か!

・・・・・・
2002年02月09日(土)
326,イルカのような人
イルカはどんな状況でも楽しみを見つけ遊ぶという。
私の身辺にイルカのような人がいる。「今日如何して一日を楽しむか」
それしか頭に無い。オリンピックといえば、一月前からそれを楽しみに待っている。
始まれば夜半でも寝ずに見る。ウインブルドンのテニスが始まれば、これも然り。
毎日のTVも当然いくつか楽しみの番組がある。
一日が楽しむ為にフルに使われるのだ。
昼は誰か友達と安くて美味しいランチを探し食べている。
その為か顔までがイルカのようになってしまっている。笑い顔なのである。
必ず笑いのネタを何処からか見つけてきている。
働くことは大嫌い! 遊びならどんなハードな事でも平気、
仕事は少しやると顔がはれ寝込んでしまう。
2~3人のグループで常に群れているところが、更にイルカに似ているところだ。
そういう人は今でいう癒しを周囲に与える。それが唯一のの社会的貢献だ。
こういう人は西欧系の人では当たり前のタイプかもしれない。
我々の年代の日本ではすくないが、若い人ではいくらでもいるのだろう。
社会学で人間には二タイプに分けられるという。
仕事タイプの人と、遊びタイプの人とに。
難しくいうと「仕事タイプをホモ・ハーベン」「遊び人タイプをホモ・ルーベン」
いるかのような人は「遊びタイプ」の典型である。これで一生終えるだろう。
母親がこれに劣らず、一生を楽しんでいる。家系からきているから間違いない。
人生とは、このような人には幾らでも楽しみを与える。
反対の人には、いくらでも苦しみを与えるものである。
何か法則があるのだろう。この視点でみると私はシャチというところ?
いや、オットセイか!

・・・・・
2月09日  1969年
昨夜も一昨夜もショックが続く。
留年をして、もう一度やり直そうかと言う気持ちが出る。
といって今更躊躇するのはオカシイのではないか。高木も留年という。
客観的に耐えられないとしても、一応卒論を書き終えたことは間違いない。
いろいろあって動揺をしているのは解っているが。
真面目に考えすぎである。気持ちがボロボロなだけだ。
もっと冷静にならなくてはなるまい。