つれづれに

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  今日のYoutube

 夜半、薄い金色の球体に半睡状態で入ると、面白い夢をみるので、
時どき、するが、これが意外と難しい。 半睡状態でも簡単にトリップ
すすのは難しい。 もっとも、そう簡単で出来れば、酔う必要もないし、
早めに寝て、荘子の「胡蝶の夢」ではないが、アチラにトリップすればよい。 

 ふと、人生の満足度は如何だったろうと、時々、考える。
実感として、85点というところか。 早朝の、この時間帯と、
9時から12時の間に読書、ネットサーフィン、ミニサイクリング
(or ウォーキング)の数十年の習慣化が大きく満足感に利いている。

 家内が、『 今、ヨルダンのぺトラ遺跡、誰も観光客が居ないで、からから
なんだって』と、ネットを見ながら突然呟いていた。 『そうだろうな~』 と私。
 普段からして、あまり生活感がない、会話。 
『この前、渋谷に行ったとき、違う店のランチにしておけば良かった』とも
のたまう。 数ヶ月後に前期高齢者になる女のいう言葉じゃないが・・・
 友人が、どうも統合失調症のようだが、家内も、当人も、それに
気づいてないようだ。 それで時どき変なことを言うらしいが・・・・
人を船に喩えると、船底に一杯、牡蠣がヘバリツイテ、動けない状態?
 ふと見渡すと、そんなのばかり・・   さて、7時なる。


・・・・・・
138, 中年の心象風景
2007年02月09日(金)
           オッ(*^○^*) ハ~ヨウサン!
                       -読書日記
【人生のことは、小説が教えてくれた】 
         高橋敏夫著 中経出版

    この本の中に、中年期の心象風景を見事に書き出した文章を見つけた。
    よくぞこれだけ巧く表現できるのか感心する。
    中年期も終わり、そろそろ熟年ー初老期に入りかけてきて、
    人生を振り返ることが多くなってきた。
    今まで振り返らないように意識的に前向きに生きてきたが、
    最近は、「ここまで来れば、振り返るのもよし、一日一日を一期一会として生き、
     日々・現在を充実するもよし」の心境になりかけている。

ここには、中年期の人間の心象風景がズバリ語られていた。
私は(いや誰もが?)現在でも、この心象風景はつづいている。
いずれにしても、夢と現実の段差と隔離を心の中に抱えて日々を、
ただ精一杯生きるしかない、色で例えれば紫色かダークブルーの時期である。
青年期に抱いたあるべき理想の自分とはかけ離れた自分を、
青年期の残像としての自分が見つめる屈折した時期である。
(大部分がと!あえて言っておこう)

     まずは、その一文を書き写してみよう!
    --
    青春が夢みる時代であるとすれば、つづく中年は夢の実現の時代ではない。
    わたしたちのほとんどにとってそれは、夢の不可能を知り、夢という言葉さえ
    忘れて生きる苛酷な時代である。
    夢みることが、「現状の否定」に発するとすれば、その不可能の自覚は
    屈折した「現状の肯定」になりざるを得ない。
    楽天的な「現状肯定」ではなく、「現状の否定」が不可能であることを知った者の
   「現状の肯定」になるからだ。
    しかし、このときわたしたちは、はじめて「現状」というものと直面している、
    といってよいだろう。
    それは否定しようもなく、わたしたち個々人の思いを越えて、たしかにここにある。

現状のおもさをうけとめたとき、わたしたちはようやく性急さから解放される。
現状とむきあい、性急な夢に逃避することなく、ねばりつよく生きることを
選ぶしかないのである。
 そして、性急な夢から解放されたとき、わたしたちは、ねばりつよく生きることに
見合う、ながく、しずかな「夢」をいだきうるのだろう。
夢みる青春からみれば、それは夢でないかもしれない。
たしかに、この「夢」は、青春の夢の廃墟からはじまるがゆえに、
夢をこえた夢なのだ。
 現状否定から現状肯定へと移行するように見えて、その逃れえぬ環境で
ねばりづよく生きることで、わたしたちはしずかに、だが着実に現状を変更し、
わたしたちじしんを変更していく。

    ここには、現実の大きな力によって押され退きつづけながら、ここからは
    もう退けないという思いがあり、生きつづけることでいっそうふくれあがる
    破壊衝動があり、家庭の中の男と女の従来のあり方への不満があり、
    見方を変えることで生にあらたな実感を導きいれようとする試みがあり、
    生活の細部でつながる、切れそうで切れない人と人の関係があり、そして、
    情痴のさらにその奥のさらにその奥の情痴へとつきすすむ紛れのない
    生の暗い輝きがある。              
 ーー
 ~ 以上だが、何とも中年の風景をそのまま見事に描き出している。
 
この内容は、決して中年期だけでなく、
人生の最晩年でも味あう深い諦念でもある。
いや、青年期の挫折の中で何度も何度も味わった心象風景である。
挫折の底で味わう屈折感は、現状否定した自分が最悪の状況の中で自分の棚卸を
しながら、歪んだ自己肯定をせざるを得ない何ともいえない味がある。
この屈折した味わいこそ人生の一番の味わいでもある。

    そう考えなければ、どうして耐えることができようか?
    何故、粗大ゴミと言われなければならないのか?
    そして、それをそのまま受けとめてしまうのだろうか。
    分別すれば宝の山なのです!
    ただ、その時その時に垂直に立ち上がって分別していればの話だが!
    
次回は、藤沢周一の「海鳴り」の一節を取り上げながら、
歪んだ切ない中年男の心象風景を考えてみる。
    それさえ、ふり返る歳か~!
   ギャーテイ、ギャーテイ、ハラ、ギャーテイ 
    ハラ、ソウギャーテイ  か~
                 (゚∇^*)ホンジャ、バイバイ! ♪~
・・・・・・・・・
2006年02月09日(木)
1773, 年金の話 -2
              ('-'&)オハヨ♪
60歳になって、前倒しにすれば年金が貰える年齢になった。
誕生日の前後に個人年金振込みの通知がきた。
家内が15年前から生保の個人年金の掛け金をしていたもので、
私には一言もなかったが、それが今年から70歳まで落ちるという。

     自動的に簡保に毎年積み上げる仕組みになっていて、
     70歳からの年金になるという。
     それを種銭にして旅行でもと思ったが、そうもいかないようだ。
     個人年金は、不安ビジネスというが、
     それをさらに積み立てるとは凄いシステムだ!

二人で月々?0万が入れば、普通の生活は保障される?が、
ハイパーインフレが起これば、お終いである。
そして、その可能性が大ときているからやはり使ったほうがよいのか?
                   コーヒーまあ(@゜▽゜)_且~~どうぞ w
     都会のサラリーマンの65歳の年金者の平均値として
     2500万の貯金を持ち、
     夫婦で月額30万円の年金収入があり、
     その30?を預金にまわすという。
     何か日本人の貧乏性の性格が数字にそのまま表れている。
     国が存在して初めて個人の存在がある。
     国を持たないジプシーやクルド人の悲惨さをみると、解ることだ。
     その日本が破産状態だから、全くどうなるのかわからない!

ところで昨日、「中小企業経営者の年金ガイド・セミナー」にいってきた。
次回のテーマになるが、
年金は高齢化社会の生活レベルの設定の問題になる。
このセミナーで感じ取ったことは、
年金は前倒しで貰うのがポイントのようだ。

中小企業の経営者は給料を減額して、可能な限り年金を貰い、
減額分を会社の損金で落ちる生命保険をかけて、停年時に返金して
退職金にまわすのが現時点で一番得になるという。
                   ー つづく          
          (●≧з≦)!⌒〔゚.+ バイバイ ゚+.゚〕
ーーーーーー
2004/06/04
1158, 年金の話 -1

これだけ不景気になってくると気になるのが老後である。
そこで年金がここにきてクローズアップされてきているという。
今年から、58歳を過ぎると年金の予測の数字を希望者に郵送される。
半月前にその内容が送ってきた。
こういう時代、明日何がおきても不思議ではない。
とくに事業をしている立場上、不安の要素があまりにも多い。

ある日、ハイパーインフレがおきて金利が2倍にあがる可能性がある。
また、上越新幹線でテロの爆発がおきても不思議でない。
新潟駅の新幹線のホームでは、各階段に警察官が二人ずつ合計10人
近く張り付いている)
新潟にアルカイダーの幹部が一年半潜伏していたとかいう情報があったことと
関係しているのだろう。

ハイパーインフレやテロで、会社は一瞬で倒産してしまう可能性を含んでいる。
経営者は何も保証されてない立場にあるから、万一のことがあれば明日からの
生活に事欠くことになる。倒産をした最悪の人を何人も現に見てきているから、
時々凍りつくような不安に落ちいることがある。
それが逆にエネルギー源にもなっているが。

社会保険センターから送ってきた年金の数字を見て少しホッとした事も事実である。
年金支給が63歳と思っていたが、今回の郵送で60からでももらえることを
初めて知った。
・1年7ヶ月経つと(60歳)全く他に収入がない場合で、190万円の年金支給。
・4年7ヶ月で(63歳)で、260万円。
・6年経つと、家内の分を加算すると360万位という。
ー何とか人並みに生きていけそうな金額である。

家内に説明をすると、
「丁度よいようになっているのね!」
セフティーネットとして、あるとないとでは全く違う。
こういう年齢になったのだ。

・・・・・・・
2005年02月09日(水)
1408, LOVE&FREE
ー世界の路上に落ちていた言葉-1  ー読書日記ー

図書館で何気なく借りてきたら、読むほどに面白い本である。
著者は32歳だが、思い切った生き方をしている。
アウトローアウトローでしかないが、
生き方にバランスが取れているのがよい。
バナナ(皮は黄色で中が白)にドンドンなっている典型である。

ーはじめにー から引きつけられた。
1998年11月から2000年7月にかけて、約1年8ヶ月間。
結婚したばかりの妻と二人で、気の向くまま世界数十ヶ月の路上を歩いた。
自分は、三年間続けた会社を離れフリーになったばかりだったし、
銀座のOL だった妻のさやかは、寿退社をしたばかりで、
長いたびに出るのは「今しかない」という絶好のタイミングであった。

旅のコースも、期間も、特に決めなかった。
「スタートはオーストラリア。あとは気の向くままに。
まあ、金がなくなったら帰ろう」それだけを決めて出発をした。
世界中の路上で、カフェで、ビーチで、バス停で、安宿のベッドで、・・・
大好きなコーラを片手に、タバコをふかしながら、
自分の「ココロの井戸」を掘るようにして、いくつもの詩を書いた。
「いいじゃん!」と感じる場面に出逢うたびに、ポケットから
デジカメを出して、幾千枚の写真を撮った。

帰国後、旅中に残した詩と写真の中から、特に気に入ったものを
選んで、一冊にまとめたら、この本が出来上がった。
世界の路上の片隅で、さまざまな人々が僕にくれた
「LOVE&FREE]のカケラを、あなたに贈ります。

ーー
以上であるが、路上で書いた内容であればこその、ココロに打つ内容が
次から次へと出てくる。言葉だけではない、デジカメで撮った何げない
写真が素晴らしい。
二人は、各地で「ホリデーアパートメント」に一週間ずつ泊まって旅を続けていた。
お金には制約あるが、時間だけは無限にある旅。
本当にうらやましい限りである。
胸に突きさすような言葉を幾つかをランダムに紹介してみよう。

ジブラルタル海峡

ヨーロッパからアフリカへ。
ジブラルタル海峡を越える船の甲板。
ある船乗りのオジサンが言っていた。

「おれは20年間、世界中をずっと航海してきた。
 繰り返される日々が嫌いだったからな。
 でも、愛する女性を見つけた日から、俺は変わった。
 今は、愛する妻と子供達と一緒に暮らすためにこのジブラルタル海峡を、
 一日2往復するだけの繰り返される毎日を過ごしている。
 でも、神に誓って言う。
 今が一番幸せだ。
 俺の冒険は彼女という宝を見つけることによって終わったのだ」

そして、キザでかっこいい船乗りは、最後にオレに聞いた。
「オマエは、愛する女性という宝を既に見つけている。
いったい、他にどんな宝を探して旅をしているんだい?」

ー核ー
たくさん食べることはない。
一匹の魚を骨まで味わってごらん。
そのほうが、本当の「おいしさ」がわかるから。
たくさん読む必要はない。
一冊の本を文字が溶けるまで味わってごらん。
そのほうが、本当の「おもしろさ」がわかるから。

たくさん愛する必要はない。
ひとりの人を心ゆくまで愛してごらん。
そのほうが、本当の「愛」がわかるから。
貧しい国の豊かな人々が、
オレに、そう笑いかけている。

---ー
「LOVE&FREE
 ー世界の路上に落ちていた言葉」
  出版社: サンクチュアリ出版
ー目次ー
1 オーストラリアへ
2 東南アジアへ
3 ユーラシアへ
4 ヨーロッパへ
5 アフリカへ
6 南米&北米へ
日本へ
             つづく
・・・・・・・
2004年02月09日(月)
1041, 職業性格形成論

条件と原因とは同義語である。
職業は人間の性格まで決定をしてしまう。
先日書いた「わたしは悪い不動産屋」の中で、「不動産業者は瑕疵を
探してしまう癖が人間性までも出てしまう」と書いた。
その時に以前から書いてみようと思っていた「職業性格形成論」をまとめて
みたくなり、早速書いている。

・サラリーマンに嫁いだ姉をみていて驚いたのが、ミスに対して異常に
 神経をつかっていることである。
 対象のプラスではなく、マイナスのミスだけ眼がいってしまう性格に
 変ってしまったのだ。 組織人だった旦那の影響である。
・母がそうである。いつも話が1・5倍から2倍に膨らむ。
 すぐ上の姉にいわせると、値入れを1・5から2倍にするのが原因だという。
 そのシビアな指摘に驚いた。
・代議士ならサシズメ数十倍のハッタリが性格になってしまう。
 それと虚言癖だ。
・作家も虚言癖の傾向になるか、観察眼で物事をみる性癖になる。
・警官は、全て犯罪捜査の視点でみてしまうようだ。
 警官という職業自体、必要悪の部分がある。国家内の法律遵守の暴力装置だからだ。
・先生は、常に教えたくて仕方がないとか、生徒を比較するように社会も
 比較順序をつけてしまうという。
・私の仕事は装置産業、一度投資をすると15年~20年はどうしようもない。
 あとは社会情勢次第。そうすると、マクロ的な世界や社会に興味を持ってしまう。 
 面白いものである。
  そう考えてみると、誰もが自分で思いあたるだろう。

サンマというタレントをみると、普段生活があのままという。
常に話しまくっているかパフォーマンスをしてないと不安になるといっていた。
TVタレントや俳優は、私生活のすべてが演技の勉強になっている。
そして演技と実生活が混同してしまうという。
そこまでいかないとプロとはいえないのだろうが。
職業は生きていく上で重要な位置を占めているものだ。
但し、何事も例外の人はいる。

当たり前のことだが、泥棒や犯罪も職業にすべきで無い。
人間性まで泥棒になってしまうからだ。
いや、泥棒の性格の奴がなってしまうのだ。
中・高校の時、粋がって他人の小物を盗みまわっていた人がいた。
泥棒にはならなかったが、結果は似たような人生を過ごしていた?
これは「三つ子の魂 百までも」か。

・・・・・・・・・
2003年02月09日(日)
676, ぶざまな人生ー4(読書日記)
ー偽善論

この偽善論がなかなか面白い。
偽善主義者を、もともと偽善者ではないと切り捨てている。
偽善者以前ということだ。
善を隠れ蓑にしながら、相手を実害を与え、自分は実利を取ろうとする奴だ。
「不幸の事件を逆手に使い、自分はあたかも最大の同情者のように振る舞い、
実利を得ようという輩」だ。
これは汚い欺瞞者であり、詐欺者である。
身辺に幾らでもいる?!

不可避的な偽善には、少なくとも善がある。
真実の善など本当にあるのか。
どこでどうやって見分ける事が出来るのか。
偽善をなせ。それを、あるかないかわからない真善に次ぐ、次善となせ。
一生偽善をなせば、それが真善である。
偽善でいいと思う、「偽善」でしかなしえない「善」がこの世の中にある。
私は「偽善」を憎むほど、善を成すものでない。

ー以上が著者の言わんとするところだ。
「真善などあろうか?それなら偽善を次善としてなせ!」とは思い切った事を
いう。所詮、善悪とは個人、社会、宗教が創りあげた価値観でしかない。
その基準が、どれほどの価値があるものか?
偽善いや善悪という言葉そのものが怪しいのだ。

「人を殺すのは悪でないというのか?」
もちろん悪いが、戦争で相手国の非戦闘員を殺してしまったとして、
それもどこまで悪と言えるだろか?全てが状況だ。
その為に初めて旧約聖書が善悪の基準を創った。

孟子性善説荀子性悪説があるが、これも何を基準に善悪といっている
のだろうか。あくまで両面を言っているだけだ。
それなら、手っ取り早い「偽善とやらから、世間体のいう善と思える奴を、
仮面を被って次善と割り切る」という著者の論法も肯ける。
偽悪の方がまだましと思っていたが、偽善も必要か?

偽悪の背後にあるのは善ではない?
偽善の背後は悪じゃない?
次善論じゃないか?

よっしゃ、早速褒める訓練本でも買ってきて、カミサンや居酒屋やスナックの
ママから褒めてみようか?下心がないのだから偽善と違うか?
褒めるのは偽善でなく、義務か!

・・・・・・・・
2002年02月09日(土)
326,イルカのような人

イルカはどんな状況でも楽しみを見つけ遊ぶという。
私の身辺にイルカのような人がいる。
「今日如何して一日を楽しむか」それしか頭に無い。
オリンピックといえば、一月前からそれを楽しみに待っている。
始まれば夜半でも寝ずに見る。
ウインブルドンのテニスが始まれば、これも然り。

毎日のTVも当然いくつか楽しみの番組がある。
一日が楽しむ為にフルに使われるのだ。
昼は誰か友達と安くて美味しいランチを探し食べている。
その為か顔までがイルカのようになってしまっている。
笑い顔なのである。
必ず笑いのネタを何処からか見つけてきている。

働くことは大嫌い!
遊びならどんなハードな事でも平気、
仕事は少しやると顔がはれ寝込んでしまう。
2~3人のグループで常に群れているところが、
更にイルカに似ているところだ。
そういう人は今でいう癒しを周囲に与える。
それが唯一のの社会的貢献だ。

こういう人は西欧系の人では当たり前のタイプかもしれない。
我々の年代の日本ではすくないが、若い人ではいくらでもいるのだろう。
社会学で人間には二タイプに分けられるという。
仕事タイプの人と、遊びタイプの人とに。
難しくいうと
「仕事タイプをホモ・ハーベン」
「遊び人タイプをホモ・ルーベン」という。
いるかのような人は「遊びタイプ」の典型である。
これで一生終えるだろう。
母親がこれに劣らず、一生を楽しんでいる。
家系からきているから間違いない。

人生とは、このような人には幾らでも楽しみを与える。
反対の人には、いくらでも苦しみを与えるものである。
何か法則があるのだろう。
この視点でみると私はシャチというところ?
いや、オットセイか!

・・・・・・・
2月09日  1969年
昨夜も一昨夜もショックが続く。
留年をして、もう一度やり直そうかと言う気持ちが出る。
といって今更躊躇するのはオカシイのではないか。
高木も留年という。
客観的に耐えられないとしても、一応卒論を書き終えたことは間違いない。
いろいろあって動揺をしているのは解っているが。

真面目に考えすぎである。
気持ちがボロボロなだけだ。
もっと冷静にならなくてはなるまい。