つれづれに

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 今日のYoutube
http://www.youtube.com/watch?v=lzsBwnv_dAg&feature=related

昨日、今日と一転して蒸し暑い日々が続く。 こういうぶり返しをしながら秋が着実にやってくる。
蝉も、数日前から鳴き声も聞こえなくなってきた。 それにしても、一日一日の経つのが早いこと。
目先の変化と刺激が少ないからである。 


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2706, 現代とはいかなる時代か
2008年09月01日(月)
人類の現時点を俯瞰してみると、人間圏が限界に達してしまったことと、
インターネットという人類文明史にとって大きな情報手段を手に入れた、という大きな分岐点に立っている。
著者はアポロの月面着陸が地球史・生命史という時間スケールでも、特記すべきことと見ている。
4億年前に、生命が初めて海から陸に進出した事件に匹敵するという。現代は宇宙から地球をみなければ
ならない時代になってしまったのである。グーグルアースも地球だけでなく天体飛行のできる機能がついている。
我々は何時の間にか、その立ち位置に置かれてしまったのである。
 ー以下、要点を抜粋したー
「地球システムの崩壊」 松井孝典著         -読書日記   -2
  *現代とはいかなるじだいか
1969年、人類は地球上の生命としては初めて、地球の重力圏を突破し、月面にその足跡を印した。
人類としての記念すぺき最初の一歩を印したアームストロング船長は、 その歴史的瞬間に立ち会った気持ちを、
次のように述べている。「これは一人の人間としてはほんの小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍である」。
この言葉ほど、現代という時代の特徴を、簡潔にして明瞭に伝えるものはない。
 アメリカの文豪ノーマン・メイラーもまた、この高揚した時代の気分を次のように残している。
「二〇世紀はアポロー1号の打上げをもって終った」。それは地球史、生命史という時間スケールでも、特記すべき事件。
今から四億年前、生命が初めて海から陸に進出した事件に匹敵するからだ。 
地球の重力圏を突破することの哲学的意味は、宇宙から地球を見る視点を獲得することにある。
それは地球が、他の太陽系天体と同じくひとつの天体にすぎないことを、一般の人にも、画像としてはっきりと
確認させてくれるが、しかし一方で、地球が他の太陽系天体と、異なる天体であることも認識させてくれる。
 その雲の変化や、季節による大陸の地表変化は、大気と海との複雑な相互作胆あるいは生物圏の存在を示唆し、
地表が、その領域を構成するいくつかの構成要素間の、相互作用による動的な平衡状態にあることを語っている。
専門的な言い方をすれば、それは地球がひとつのシステムであるということだ。
 また、夜になると地表を覆う光の海は、この天体に、高度に発達した知的生命体、あるいは文明が存在することを、
灯台からのシグナルのように宇宙に向かって発信している。従って、「現代とはいかなる時代か」と問われれば、
「我々の存在が宇宙から見える時代、あるいは我々が宇宙を認識しはじめた時代」といっていいだろう。
それはまた、我々が大脳皮質に外界を投影し、内部モデルを構築するーそれが認識ということだが、
その認識の時空を拡大することで、ギリシャ以来の学問のゴールである普遍性について、具体的に語りはじめた
時代といってもよい。宇宙からの視点を得るとは、俯瞰的、相対的、普遍的視点をもつということと同じである。 
その結果、「我々は初めて、我々とは何か、どこから来てどこへ行くのか」という根源的な問いに真正面から
向き合うことができる。その詳細を議論するには、宇宙や地球や文明について、いくつか基本的な認識を
確認しておかなくてはならない。
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何度も書くが、これはコペルニクス的な人間観の転換でもある。また、その視点が最重要になる。
月面着陸が地球史的にみて、これほど大きな出来事だったとは知らなかった。そして宇宙の彼方から地球を改めて
みた時に地球システムの中に、自然の中に人間という知的生物がいて、生物を支配しているのである。
それだけでなく、自らを創りあげた地球システムを破壊始めたのである。それが自滅とわかっていても自分自身
どうすることも出来ない事態に入ってしまっている。この知的生物とやらは、知を得たがゆえに消滅していく。
正しく「アダムとイブが禁断のりんご食べたこと」が、これに当たるのだろう。
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2007年09月01日(土)
2342, 「ある」ことと「あった」こと          お|* ̄O ̄|は
 『狂人三歩手前』 ー中島義道
ー「ある」ことと「あった」ことー
理屈っぽくなるが、「ある」とは「あった」があるからあるから「ある」のである。「あった」があるから、
その想起で現在が「ある」。「私」も現在から過去を振り返ったとき、「私」が発生するのと似ている。
現在は過去にかこまれているのである。かって旅先で暴漢に襲われて記憶を無くしてホームレスになって、
そして立ち直っていく男の物語の映画をみたことがある。これこそ自己喪失である。そこに記憶も生活基盤を
無くすことの恐ろしさを見た。それは「あった」があるから「ある」という説明に、解りやすい物語であった。
その映画を見て、人生は「ある」ということと、「あった」ということで成り立っており、その両者を大事に
しなくてはならない!と実感をした。過去は消せないのである。
   ー以下は『狂人三歩手前』から・・・
世界についてでも、私自身についてでもいい、物体についてでも、心についてでもいい、われわれは
現在の知覚を基準にして、何らかの客観的対象が「ある」とみなしがちである。
(以下、字数の関係でカット09年9月1日)