閑話小題 ~心身の健康を維持するために

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 ① 適度な有酸素運動を、毎日30分以上する。
 ② 健康的なバランスのとれた食事を、規則正しくする。
 ➂ 知的活動を楽しみ、好奇心を持ち続ける。
ことが望ましいと言われている。
 
 10年前に、事業人生から隠居したが、その時に少しキツメな習慣スケジュール
を続けて現在に至っている。去年の秋口の腰痛から、ギア・ダウンをしたが、
それでも、何とか日常を充分に楽しんでいる。 
最初に取上げた3つは守れているが、現状維持が精いっぱいが本当のところ。

 ふと、お店などの姿見で我が姿を垣間見ると、誰が、如何みても年齢相当の
前屈みで、少し腰が落ちた我全身像がある。傍目を気にしないなら…杖をついて
歩きたいぐらい。70歳を過ぎた頃から、年々体力が落ちていくのが実感する。
 10年前に、SJに入会した同年代の人たちが徐々に減り、コロナ禍もあってか、
3分の1?まで減っている。要するに歳には勝てないということ!
こうして、徒然なるままに書いていると、愚痴か、後ろ向きな文章になっている。

 このブログを書き始めて20年も経過したが、私にとって有効になってきた。
反面、他者を傷つけ、呆れかえられてきた。思い残すことなく、書きつづければ、
それはそれは、嘘も方便を丸出しだろうに…

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2020年06月09日(火)
閑話小題 ~数年後には様変わる社会

   * コロナ感染騒ぎで変わるだろう
 僅か4ヶ月で、世界が様変わりしたが、1年、3年、5年後の世界も変わる! 
どう変わるかは、現在の常識での予測は難しいが、面白い様相だろう。人間の
身体移動より、思いもしない端末が考えだされ、より合理的視点が出てくるはず。
既に鬼籍に入った因縁があった人たちに教えてやりたいもの。 エンタメも、
今までとは違った芸風が出てくる。他の人の顔色を窺うことなく、己の世界を
ネット上に構築するネット社会の進化型。既に存在しているが、私が疎いだけ?
 ―
   * 百貨店、レジャーランド、ホテルの行末は… 
 中国、韓国人の観光客数が99%減で…突然に消失!ところで「アパ」?
現時点はバブル崩壊直後の国内状況に酷似するが、手の施しようがない。 
コロナ菌の劇的な特効薬が、即座に出来るわけでなし、日銭が3分1、5分1と
なれば、行き着く先は…火を見るよりあきらか。その中で新潟市内で1000室規模
のホテルが着工。計画を即座ストップ出来ない…  ソ連・東欧の体制の崩壊、
バブル崩壊時のダイエー、西武流通、西武鉄道グループの崩壊に状況は酷似する。
超大型ブラックスワンの飛来で、この数ヶ月で、事態は思わぬ方向へ。
 密集と移動が、人からモノに替わってしまった。 今回の緊急融資規模が、
東北大震災+リーマンショック時の三倍! それだけの災害?規模ということ。
これだけ火の回りが早いのも異例。細菌としては性質の良くない狡猾の相手。
アフリか、南米、旧ソ連圏の東欧諸国の感染が控えている。実態を知る程に、
事の重大さが深刻が分ってくる。

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6659,閑話小題 ~あの世に持っていけるもの
2019年06月09日(日)
   * あの世に持っていけるもの!
 『そんなもの、あるはずがない』と一言で終わる問題だが、そうではなく
正面から考えなければならない『死』(あの世)の問題でもある。まず
<「あの世や来世は存在するか?」 はたまた「すべての終わりか? 」>の
人類永遠の素朴で、深遠の疑問に対峙しなくてはならない。

そこでネット検索をすると、ヘーゲル哲学の一人者の加藤尚武氏が…。
≪ ◉ “人間は古今東西、 概ね2つの型の思想を語ってきた。
 1つは死ぬことは体が分解してなくなることだという思想である。
旧約聖書には、
「すべてのものは塵から出て、すべてのものは塵に帰る。 誰が知ろう。
人の子の霊は上にのぼり、獣の例は地の下にくだるなどと」(伝道の書)
(中略) 死生観は、概ね一回的生と反復的生(来世・輪廻)という矛盾した
イメージの重なり合いとなっている。
 世界には全く違ったものの見方があるので 自分と違った見方に対して
寛容でなければならないというのは事実であるが、実際には、さほど大きな
違いはない。 違った宗教のなかにも、同じ型の考え方がある。
 <世界中のさまざまな考え方について、どういう共通の型があるか>
違いはどの点にあるかを明確にすることで、人類共通の見方があれば、
それを明らかにすることが、これからの哲学では大事である。
古今東西の共通思想の大筋を示す事が今、哲学に求められている。
◉ 私はまず、「死についての共通思想」を描き出してみた。
武器を手に戦っている人々に、「あなたがあなたの敵と、どれくらい共通の
思想を持っているか」を伝えたいが、共通の考え方が何であるか、
ふだんからしっかりと認識しておくことが大事だと思う。”
 共存する矛盾したイメージですが、
「あの世に持っていけないもの」を定義すると見えてきそうな気がします。
・お金
・地位、名誉
・家族や親しい人々 など。
 基本的には、持ってきたものしか、持って帰れないのは間違いなさそう。
誰かが、「人生で得たものは残らないが、与えたものだけが残り続ける。」
と言っていますが、 そんなものかも知れませんね。 ≫
 

▼ 死の問題に関して、ここで数知れず書いてきた。数日前にTVでみた
ワンダフルライフ』( 是枝裕和監督)が、これ。ここでは、一つだけの
思い出だが、それぞれの至高体験は、数限りある? 持っていけるのは、
御宝のつまった行蔵。この随想日記は、あの世に持っていけない行蔵の記憶や、
拙い知識の書き置き? 「それにしても、女々しく、下らない。」
そう割切っているから、続けられる。 あの世? 何それ! 娑婆(現実世界)
が妄想なら、あの世は、妄想がもたらした外界の‘無’イメージ。 
 あの世に持っていけるものより、この世に何を残したか? 与えたものも、
残らない、宇宙の果ての、その外の10の500乗の多宇宙の、何処かの彼方に
消えていく。そうと思えば、楽。 ひと言でいえば、ムニャムニャ。
無にゃ無にゃ! …これがオチ。与えたモノすら残りりはしない。生臭い風さえ。 
5円(御縁)玉だもの人生は。 どう使うか? 遊ぶか? 一期一会で。
 
参考:2019年6月7日 閑話小題~映画観賞
     ―『ワンダフルライフ是枝裕和監督・1999年>
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6296,久々のパレートの法則 ~3
2018年06月09日(土)
   * 世間を『3:10:60:27の法則』で分析すると
 数日前の『3:10:60:27の法則』から、世間という妄想を分解する。
世間度数は、下位にいくほど影響度が高くなる。それは、法則それ自体が、
それを語っている。
《 ハーバード大学が調査して実証したデータ。 人生は、
・27%の人が、何も知らず、自分からは何もせずに生きている人
・60%の人が、知っているけど、行動しない人
・10%の人は、知ったことを、出来るようにした人
・そして3%の人は、無意識に出来てしまう人です。
この27%と60%を足した87%の人達がサービスを受ける側の人、
13%の成功者が提供する側の人です。もっとキツイ言い方をすれば、
87%の仕掛けられる側と13%の仕掛ける側に分かれています。》

▼ 以前に、私と家内との会話を事例に「世間話のでき方」のテーマを書いた。
ただ流されるまま生きてきた87%が、何気ない会話や、親元や学校で、知らず
に感化された分厚い固定観念。それに様々な環境が、本人を世人に育て上げる。
知識と経験を積むにしたがい、そのカラクリに気づくことになる。だから、まず
手軽な読書習慣と、読書録の作成が必要になる。それがないと、考えない世人と
して蔑視され、無意識のうちに自身を分類することになる。 会話は出来るが、
対話が出来ない層が87%。当然、13%にも存在するが、その比率は低くなる。
そこに長年かけたライフワークがあるかどうか。後にコピーするが、やはり、
5歳までの基盤構築が必要ではなかろうか。逆に基底欠損の人が多い。

【熊:おれは27%で、寅は60%、八ちぁんは10%、大家は3%かい。
 寅:いや、俺は40%さ。八は世間をシリアスに貶しているからな。
  でも歳をとるたび、人嫌いになってるからね。
大家:私が3%ですか。5~6%辺りじゃないか。それにしても、
  この法則を世間度数に当てはめるとは流石。世間、現実に埋没するほど、
 危険なことはないことは確かだよ。 今日から、『終わった人』という
 映画が上映されるというけどね。東大出の銀行マンでも、ライフワークを
 持たないと、こうなるんだ。
八:このブログを読める層は、ライフワークの必要性を気付いているだろうが…
 仲間内のゴルフか、カラオケが、それじゃあ、節目がつくれないよ。
寅:10年前にさ、映画室が10ある映画が郊外に出来た際に、八つぁんに
 勧められて月に1~2度通いを始めてさ。御蔭で、少しは世界は広まったよ。
八:まだまだ、私は毎週だよ、毎週。それに寝室で、連日、4時間近くは、映画
 とドラマ三昧さ。それが飽きないの。
熊:世間話の功罪、何時も聞かされているので、注意して他人様の話を聞くとさ、
 あれってヤバイよ。この御蔭で、最下層より上層の35%と思ってるんだ。
大家:そのとおり、馬鹿な中傷を言わなくなったしね。
八:バカは死ななきゃ治らないというけど! 人の粗探しより、自分の好きな
 ことをしろよ。 そう誰も自分は違うと思ってるらしいが…。  

世人:何にも考えず、何もしないで、周りの気だけをつかい、楽しそうに諂って
 生きてきたが、ちっとも面白くなかったよ。だから、他人に腹が立つんだよ!
 「上を見れば腹が立ち、横をみれば腹が立ち、下を見れば底がなし、さ」 
 誰か私の人生を慰めて欲しいけれど、今さらか! 若い時節の私が、今の私を
 嘲笑しているようだし、何か大きい穴がポッカリ空いている苦痛を誰ぞ知る!
 『基底欠損』と一言でいうが、それは、両親の質の問題だろう。それと時代。
寅:世人の生き方も良いじゃないですか。それも良しと、心の底からいえるかだ。
 ただ自分がバカだと自覚はしているがね。一番、立腹すべきは、あんた自身さ。
 泣いて、喚いて、七転八倒し、全身で感動し、感涙しなかったことは、アンタ
 自身の問題。おれ、これでも、してきたさ。だから、ここで実存しているんだよ。
熊:俺だってそうだよ。尤も何も知らない、持たないことで、逆に実存してるけど。

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5195,魂が擦り切れるまで哲学に徹したか
2015年06月05日(金)
   * 哲学という気晴らし  ~『人生、しょせん気晴らし』中島義道著 
 こういう文章を読むと、<この10~20年、独学で「哲学」を学んできま
した>など、よくも言っていたと自嘲をする。どの道も、命がけでなければ
プロとはいえない。「ひきこもり」と「哲学をする」は、紙一重
 20歳代に、スランプになると、度々、六日町にある「雲屯庵」という禅寺に
本を持ち込み座禅をしていたが、そこの若い雲水が、時々、「野狐禅など
してもしなくても同じだ」と強烈な批判をしてくれた。若い雲水は命がけで、
禅道を歩んでいるのに、少しの挫折で横たわる代わりの私の野弧禅など、
この馬鹿野郎である。しかし今から考えると、決して無駄ではなかった。
 これと同じことが、哲学の道でもいえる。 ~その辺りから(p91)
≪ 私が哲学にのめり込んだのは大森荘蔵先生に会ったからである。東大
 法学部に進むはずであった二十歳の私は、突如哲学に鞍替えしようと決意した。
その頃、大森先生の書いたものをむさぼるように読んでいた私は、大森先生に
じかに会って、いったいこんな自分でも市民から哲学者という「ならず者」へと
転落する資格があるのか賭けに出た。「駄目だ」というわずかな言葉をも、
視線をも、サインをも見逃さず、その時は哲学を潔く諦めよう。
 こうした悲壮な決意で先生に対したが、思いがけないことに、私は先生から
文句なしの適性を保証されてしまった。「来なさい」と言われ、胸も張り裂けん
ばかりに嬉しかったが、同時に奈落に突き落とされた。ああ、これで俺はもう
まともな市民としては生きていけない。哲学で行き詰ったら、後は死ぬしかない
と思い、泣きたくなるような気分だった。 それがまもなく現実になった。
法学部を捨てて先生の所属する教養学科の科学史。科学哲学分科に進学するや
否や、私は深刻なノイローゼに陥った。現実の哲学に失望したわけではない。
哲学は、そして先生はますますすばらしい存在として私に迫ってきた。だが、
だからこそ、自分に絶望した。そんなにすばらしい世界が与えられたのに、
それを充分活用できない自分の愚かさ、無能さに絶望したのである。
 蛆虫のような老婆を殺した瞬間に、自分もまた蛆虫だと悟った『罪と罰』の
ラスコーリニコフのように。俺は誤解していた、分不相応の高望みをしていた、
俺は真理のために生きることなぞできないのだ、俺はやはり蛆虫として真理を
横目で睨みながら何もわからずに死ぬほかないのだ。そう思った。そう思って、
自分の浅はかさを嘆きながら引きこもり、死ぬことを考えていた。
 ずっと後になって、奥様から「あの頃たびたび、主人は中島君自殺するかも
しれないと言っていました」と聞かされた。そんな苦しい時でも、私を哲学
へと「誘惑した」先生を瞬時も恨んでいなかった。ただ、せっかく見込んで
くれたのに、こんなテイタラクで申し訳ない。そのために死のうかと思った。
それからいかにして「治った」のかは、長い話になるので割愛する。
とにかく、私は門下の仲間たちとはよほど違って不思議なほど転び、蹟き、
滑りながら、哲学を続けている。といって、私は先生に普通の意味で
「感謝している」わけではない。私が駆け込み寺のように先生のもとに身を
寄せてから、本当に辛くきつい人生が待っていた。だが、私はこうしか生き
ようがなかったのだから仕方ない。先生との出会いも運命であり、私が哲学
を志すと「そこに」先生がいたのだ。 先生は私の恩師であろうか? 
いまさら「恩師」などと言えば、「私は中島君の師であったことなどない」
と切り返されるであろう。そうなのだ。私が先生を、一番煩わせた問題児で
あったとは確かであるが、先生は私の恩師なのではない。私は先生に哲学とは
こういうものだということを教えてもらったが、その後いまに至るまでその通り
のことをしていないのだから。だから先生は権威・権力におもねることを蛇蝎
のように嫌った。『哲学の教科書』がベストセラーになり、わずかの褒め言葉を
期待して勇んで病院に見舞いに行った時、「もう少ししたら何か言います」
と言われた。だが、何も言わずに死んでしまった。これもずっと後から聞いた
話であるが、私がウィーンから帰ってきて人より十年も遅れて駒場の助手に
なった頃、「今度帰ってきた中島という男は難しい所もあるが、どうか寛大に
見てくれ」と哲学仲間に訴えていたという。何も知らなかった。涙が出る思い
である。それほど気にかけてくれた先生は、物書き業に堕した私を許してくれ
ないであろう。魂が擦り切れるまで哲学をしていない私を軽蔑するであろう、
それが苦しいので、時折私は必死に叫んでみる。「私は先生とは違うのです、
こういう形でしが哲学ができないのです」そうしながら、「それでいいのだよ」
という先生の優しい言葉を期待する。だが、いくら耳を澄ましても何も聞こえて
こない。≫
▼ 何度も読み返えすたび、その都度、それぞれの青年期の節目の苦悩が蘇る。
 多かれ少なかれ、青年期には、各自が、似たような苦悩を抱えて苦闘するが、
いつの間に現実に同化してしまう。で、娑婆娑婆して、この有様! 色即是空

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2016/06/04
フーテンの寅の、本質と家族の幸せとは ~①
 
 最近になって、『男はつらいよ』のシリーズの再放送を見なくなったが、
以前は再放送の度、何度も観ていた。もちろん48作の全部を観ている。
TVの再放送を含め平均3回を観たとして、150回は観たことになる。
特に浅丘ルリ子の、リリー役ものは、5~6回以上は観ていた。この映画が
始まった1969年は、新社会人として、四日市、神戸、桑名と、転勤生活の中で、
家族の温みを寅さんの実家の団子屋の中に温みに求めていたようだ。 
精神分析医と、『男はつらいよ』の山田洋次監督の対談が、なかなか面白い。
  * 寅は「基底欠損」   <山田洋次名越康文 対談>より
≪ 山田:寅は「人間というのはこんなにみっともないよね」という恥部も
 見せてくれる。自分が食る分のメロンがないというだけで、「どうせ俺はね、
 この家では勘定に入れてもらえない人間だからな」と言って大ゲンカしたり。
名越:有名なメロン騒動ですね(第15作『寅次郎相合い傘』)。『男はつらいよ
 を全作観て、僕は寅さんの中にとめどないブラツクホールのようなものを
 感じました。寅さんを心理分析すると、99%は温かいものでできているけれど、
 残りの1%に、ダークマダーのようなものがギューッと凝縮されている。
 それは下手したら温かい99%を無にしてしまうようなすごい闇です。
「俺の気持ちをわかってくれ!」という精神的な甘えも強烈で、カッとして暴れる
 こともしょっちゅう。じゃあなぜ寅さんにこのような攻撃的なエネルギーが
 生まれるのかと考えた時、「基底欠損」という精神分析用語がハッと頭に浮か
 びました。幼い頃、親に甘えても受け入れてもらえなかった。おっぽいが十分
 に吸えなかったとか、抱っこしてもらえなかったとか、満たされるべき欲求が
 満たされなかった。そういう根本的な愛情や安心感の欠如が、大人になって
 から甘えたり、無理を言うことにつながってしまう。寅さんもそうすることで、
 親に拒絶された「欠損」を埋めようとしているんじゃないかと解釈したんです。
山田:とても面白いですね。「基底欠損」という言葉を初めて聞いたし、そういう
 心理学的なことは何も知りませんでした。だけど、寅みたいな人間はどこか心
 の中に空洞があるんだろう、そういう人間って、赤ん坊の時がひどく不幸
 だったと考えて、寅が産みの母に捨てられたという設定にした。≫
▼ 私の母親が、世にも珍しい<ママ父>虐めの被害者。その恨み辛みを、
 ことあるごとに聞いていた。3人の子供を残して逝った父親の後添えに、
祖母は男後家と再婚、八百屋を維持した。その義父との間に4人の子供が
できたが、義父は徹底して3人を虐めたという。祖母も、男後家の関係上、
3人には冷たくせざるをえず、一番末の母は、幼児の頃から、両親の温みを
知らないで育った。その為、自分の子供に対して、どう愛情を与えて育てて
よいのか、知る由もなく、それが、母親の「基底欠損」である。当然、その
子供も、基底欠損になる。何れも多かれ少なかれ、それを持っている。
両親の温みの実感が無いのも辛いものがあるようだ。  ~つづく